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婚約破棄された社畜令嬢、腹いせに定時退勤したら国が回らなくなりました  作者: 渚月(なづき)
第1章

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第9話 最後の報告

脅迫状が届いた翌日、わたしは腹を括った。


脅されて引き下がるくらいなら、最初から定時退勤などしていない。


二通の匿名の手紙を並べて、机の上で見比べる。


一通目は、ゲオルク爺さんの死因に疑問を呈する内容。筆跡は公文書に慣れた人間のものだ。


二通目は、脅迫。「保管室の鍵を探すな」。こちらは筆跡が違う。一通目よりも荒く、焦りのようなものが滲んでいる。


つまり、差出人は別人だ。


一通目の人物は、わたしに真実を伝えようとしている。


二通目の人物は、わたしを止めようとしている。


そして二通目の差出人は、一通目の手紙がわたしに届いたことを知っている。


わたしの周辺を監視している人間がいるということだ。


背筋が寒くなったが、同時に、頭が冴えた。


十年間の事務処理で鍛えた分析力が、危機的状況でも動いてくれる。


午前中、ベアーテの文具店を訪ねた。


店は中央市場の通りに面した小さな構えだが、棚に並ぶインクと紙の品質は一級品だ。


「いらっしゃい、イルメラさん。いいタイミングね」


「いいタイミング?」


「新しいインクが入荷したの。あなた好みの、滑りの良いやつよ」


「ありがとうございます。でも今日は、買い物ではなくて——」


「ああ、そういう顔ね。奥に来て」


ベアーテは察しが早い。


店の奥の小さな作業場に案内されると、お茶を出してくれた。


「このインクを見ていただけますか」


二通の手紙を差し出した。


「手紙? ……見せて」


ベアーテが手紙を光に透かすように観察する。


文具店の店主として、インクの種類を見分ける目を持っている人だ。


「一通目は宮廷の公用インク。炭素系の黒インクで、わたしの店でも宮廷に納品している品よ」


「二通目は?」


「これは違うわね。鉄製のインクよ。宮廷では使われていないタイプ」


「どこで使われているかわかりますか」


「断言はできないけど……軍部で使われているものに特徴が似ているわ」


「軍部」


「軍の文官クラスが公文書に使うインクよ。鉄製は退色しにくいから、長期保存が必要な文書に向いてるの」


軍部が関わっている可能性がある。


レンツ局長と財務長官だけでなく、さらに広い範囲に。


いや、飛躍しすぎだ。インクだけで断定はできない。


でも、ひとつの可能性として頭に入れておく。


「ベアーテさん。ありがとうございます」


「お気をつけて。脅迫状なんて物騒だわ。何かあれば、いつでもここに来なさい」


「はい。頼りにしています」


文具店を出て、次に向かったのはアーデルハイトとの待ち合わせ場所だった。


市場の裏手にある小さな茶店。


宮廷関係者がまず来ない場所だ。


「お待たせ、イルメラさん」


アーデルハイトが、厚い封筒を差し出した。


「薬務室の予算申請書と、却下通知の控え。五年分よ」


「ありがとうございます」


茶を飲みながら、書類に目を通す。


予想どおりだった。


薬務室の予算は五年間で三割削減されている。


「アーデルハイトさん。削減分の予算が、どこに振り替えられたかご存知ですか」


「公式には『宮廷運営費の効率化』として処理されているわ。でも、効率化で浮いたお金がどこに行ったのかは、わたしたちには見えない」


「見えないのではなく、見えないようにしてあるんです」


「……どういうこと?」


「保管室の増員予算、薬務室の運営費。複数の部署から少しずつ予算を削り、それを特別業務手当やその他の名目で上層部に還流させている」


「組織的な不正……」


「ええ。そして、それに気づいたゲオルク爺さんは——」


言葉を切った。


アーデルハイトの顔色が変わっていたからだ。


「アーデルハイトさん?」


「……イルメラさん。ひとつ、言わなければならないことがあるの」


「何ですか」


「ゲオルク爺さんが亡くなる三日前。薬務室に来たの」


「薬務室に?」


「胸が苦しいと。薬を出そうとしたのだけど、必要な薬の在庫がなかった」


空気が、重くなった。


「在庫がなかった……?」


「予算削減で入荷できなかった薬よ。発注は出していたのに、予算がないからと却下されたの」


「もし薬があれば、ゲオルク爺さんは——」


「助かったかどうかは、わからない。でも、少なくとも適切な処置ができた」


アーデルハイトの声が震えている。


この人も、ずっと自分を責めていたのだ。


「あなたのせいではありません、アーデルハイトさん」


「わかってるわ。でも——」


「薬がなかったのは、予算を削った人間のせいです」


二人の間に、静かな怒りが共有された。


「イルメラさん。わたしにできることがあれば、何でも言って」


「ありがとうございます。今は、この資料が何より大きな力になります」


茶店を出て、宿舎に戻る道すがら、頭の中で情報を整理する。


事務局の業務記録は消された。


だがゲオルク爺さんの副本がある。


アーデルハイトの予算資料がある。


わたしの記憶がある。


三つの方向から、一つの真実を照らし出す。


それが、わたしたちの戦い方だ。


宿舎の机で、三種類の資料を並べて突き合わせた。


わたしの記憶から再現した業務記録。


ゲオルク爺さんの副本から得た予算決裁文書。


アーデルハイトの薬務室の予算資料。


三つの資料を年度ごとに並べると、パターンが浮かび上がる。


毎年度の後半、特に秋口に集中して予算の付け替えが行われている。


各部署への配分を削り、その分を「宮廷運営費」という曖昧な項目に吸収させる手口だ。


削減された予算の総額を概算してみた。


「五年間で、これだけ……」


途方もない金額だ。


その金があれば、保管室の増員もできた。薬務室の薬も買えた。


ゲオルク爺さんは、死なずに済んだかもしれない。


ペンを握る手に、力がこもる。


感情的になってはいけない。証拠は冷静に、論理的に組み立てなければ。


深呼吸をして、分析を続ける。


予算の付け替えに関わった人物の名前を、組織図上に書き込んでいく。


レンツ局長。宮廷財務長官。軍務次官。宮廷侍従長。


四人の名前が、一本の線で繋がった。


ペンを置いて、窓の外を見た。


もうすぐ日が暮れる。


停職中の毎日はゆっくり過ぎるのに、調査に没頭するとあっという間だ。


ふと、ゲオルク爺さんの言葉を思い出す。


「お嬢ちゃんには、まだ先がある」


先がある。


あの人はそう言って、自分の「先」を犠牲にした。


この調査は、ゲオルク爺さんのためだけではない。


今もこの宮廷で、不当な扱いを受けながら働いている人たちのためだ。モニカのような若い事務官。アーデルハイトのような使命感のある薬務官。そして、名前も知らない多くの職員たち。


わたしの定時退勤は、個人的な腹いせで始まった。


でも今は、もっと大きなものに繋がっている。




夕方、宿舎に戻ると、玄関先にノルベルトが立っていた。


私服だ。


地味な茶色の上着に、帽子を目深に被っている。


「どうしたんですか、その格好」


「目立たないようにしています」


「……あまり成功していませんよ。背が高すぎます」


「そうですか。努力はしたのですが」


真面目な顔で言うから、つい笑ってしまう。


「保管室に行ってきました」


「鍵は見つかりましたか」


「見つかりました。ゲオルク氏の手紙のとおり、棚の裏板を外した場所に」


ノルベルトが、小さな鍵を取り出した。


銀色の、古びた鍵だ。


「この鍵が何を開けるかは、まだ特定できていません」


「もうひとつ見つかったものがあるんですね。その顔は」


「……表情に出ていましたか」


「少しだけ。いつもより眉間の皺が深いです」


ノルベルトが懐から、薄い冊子を取り出した。


「ゲオルク氏の日記です。保管室の机の引き出しの奥にありました」


「日記……」


「最後のページを読んでください」


ゲオルク爺さんの、最後の記述。


「今日、見てはいけないものを見た。宮廷財務長官の部屋から出てきた人物。あの方がこの不正に関わっているとすれば、この国は根元から腐っている。証拠を、どこかに残さなければ——」


「あの方」。


名前は書かれていない。書けなかったのだろう。


「ゲオルク爺さんは……殺されたんですね」


声が、自分のものとは思えないほど平坦だった。


「断定はできません。しかし、その可能性は高い」


「あの脅迫状は、本気だということですね」


「ええ。イルメラさん。この調査は、想定以上に危険です」


「わかっています」


「今ならまだ引き返せます」


「引き返しません」


即答だった。


「ゲオルク爺さんが命を懸けて残した証拠を、わたしが放り出すわけにはいきません」


ノルベルトが、しばらくわたしの目を見つめていた。


それから、静かに頷いた。


「わかりました。では——次の段階に進みましょう。この鍵が何を開けるか、それを突き止めるのが最優先です」


「はい」


鍵を受け取る。


冷たい金属の感触が、掌に重い。


ゲオルク爺さんが残してくれた最後の手がかり。


これが、この国の闇を照らす光になる。


——そしてその鍵が開けるのは、宮廷の地下深くに眠る、もうひとつの保管庫の扉だということを、わたしは翌日知ることになる。


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