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婚約破棄された社畜令嬢、腹いせに定時退勤したら国が回らなくなりました  作者: 渚月(なづき)
第4章

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第32話 母を殺したもの

母を殺したものの正体を、わたしはこの取調室で知ることになる。


覚悟はしていた。でも、覚悟では足りなかった。


レンツ局長が、椅子に深く座っている。


前回の尋問より、さらに痩せていた。だが目は相変わらず鋭い。


「さて、最後の尋問だ。何を聞きたい」


「あなたが護送中に言った言葉の意味です。『イルメラの母を殺したのは、病ではない。この宮廷だ』——これはどういう意味ですか」


「そのままの意味だよ、イルメラ君」


「具体的に」


レンツが、ゆっくりと息を吐いた。


「お前の母——エレオノーラは、王家の血を引く女だった。それは知っているな」


「ベアーテさんから聞きました」


「エレオノーラは、お前を産んだあと、アンブロス公爵家に匿われていた。だが、公爵がエレオノーラの存在を政治的に利用し始めた」


「利用?」


「王族の隠し子の母親。その存在は、王家に対する脅しの材料になる。公爵はエレオノーラを『人質』として使い、宮廷での発言力を強めた」


ノルベルトのペンが止まった。


「エレオノーラ氏は、それを知っていたのですか」


「知っていた。だから逃げようとした。娘——つまりイルメラを孤児院に預けたあと、公爵家を出ようとした」


「出ようとした——出られなかったのですか」


「出られなかった。公爵が侍従長に相談し、侍従長が手を打った」


空気が、凍りつくように冷たくなった。


「手を打った、とは」


「……エレオノーラの食事に、微量の毒を混ぜ続けた。ゲオルク爺さんと同じ手口だ。心臓に負担をかけて、病死に見せかける」


息が止まった。


母は、病で死んだのではない。


殺されたのだ。ゲオルク爺さんと同じ方法で。


「誰が——誰が毒を」


「当時、公爵家の家令だったベアーテ・リンデンに命じた。——だが」


「だが?」


「ベアーテは拒否した。拒否したが、別の使用人が侍従長の命令で実行した」


ベアーテは——拒否していた。


母を殺す命令を、拒否した。


それでも母は殺された。


ベアーテが防ぎきれなかった。だから——あの人は、わたしに対してあれほどの罪悪感を抱えていたのだ。


「レンツ元局長。あなたはこの事実を、いつから知っていたのですか」


ノルベルトの声が、氷のように冷たい。


「十五年前。ベアーテがわたしに全部話した。お前を宮廷に送り込んだとき」


「知っていて——十年間黙っていた」


「黙っていた。侍従長に逆らえなかった。何度も同じ言い訳をしているな、わたしは」


レンツが自嘲気味に笑った。


「しかし一つだけ、本当のことを言おう。お前の母は、最後までお前を守ろうとしていた。孤児院に預けたのは、公爵家から引き離すためだ。お前が宮廷の争いに巻き込まれないように」


涙が、頬を伝った。


止めようとしなかった。止める必要を感じなかった。


母は、わたしを守るために手放した。


ベアーテは、母を守れなかった代わりに、わたしを見守り続けた。


レンツは、真実を知りながら黙っていた。


全員が——それぞれの立場で、それぞれの限界の中で、もがいていた。


「レンツ元局長。最後に一つだけ聞かせてください」


「何だ」


「あなたは——わたしの母を助けようとしたことはありますか」


長い沈黙が落ちた。


レンツの目が、初めて揺れた。


「……一度だけ。侍従長に、エレオノーラを解放するよう掛け合った。十八年前のことだ」


「結果は」


「断られた。それどころか——掛け合ったことを理由に、わたしも脅されるようになった。『お前も同罪だ。黙っていろ』と」


「それで——黙った」


「ああ。黙った。臆病な男だよ、わたしは」


「……そうですね。臆病です。でも——一度だけでも声を上げたことは、覚えておきます」


レンツが目を伏せた。


肩が、かすかに震えていた。


「もう一つだけ聞かせてください。わたしの母は——最後に何を言っていましたか」


レンツが顔を上げた。


老いた目に、遠い記憶の光がある。


「……ベアーテから聞いた話だが。エレオノーラは最後に、お前の名前を呼んでいたそうだ」


「わたしの名前」


「お前の本当の名前だよ。エルマ、と」


その名前が、レンツの口から出たことに驚いた。


この男も——母の本当の名前を知っていたのだ。


「お前の母は、お前のことだけを考えて死んだ。少なくとも、それだけは本当だ」


「……ありがとうございます。それを聞けただけでも、今日来た甲斐がありました」


「礼を言われるような人間ではないよ、わたしは」


「ええ。でも、最後に正直に話してくれた。それは——認めます」


レンツが、かすかに頷いた。


かつての上司と部下の関係は、もう終わった。


でも最後に交わした言葉は、嘘ではなかった。


「ノルベルトさん。記録は取れましたか」


「……はい。すべて記録しました」


「では、本日の尋問は終了です」


立ち上がる。


膝が震えていたが、まっすぐに立った。


取調室を出て、廊下で立ち止まった。


ノルベルトが、黙ってわたしの隣に立った。


何も言わない。ただ、肩が触れる距離にいる。


「……泣いてもいいですか」


「もちろんです」


ノルベルトの胸に額を押しつけて、泣いた。


声を出さずに、静かに。


藍色の外套が、涙を吸い込んでいく。


「ノルベルトさん」


「はい」


「お母様は——わたしを愛してくれていた」


「ええ」


「それだけで——今は十分です」


「……はい」


しばらく、二人で立っていた。


廊下に人は通らなかった。まるで、この時間だけ、世界が止まっているようだった。


しばらくして、顔を上げた。


ノルベルトの外套の胸元が、涙で濡れている。


「……すみません。外套を汚してしまいました」


「構いません。洗えます」


「冷たい監査官のくせに、こういうときは優しいんですね」


「冷たくはありません。……あなたの前では」


不意に、胸の奥が温かくなった。


泣いたあとなのに、不思議と穏やかだ。


「ノルベルトさん。母の死の真相は、裁判で使いますか」


「使います。侍従長の犯罪の一つとして。——ただし、あなたの同意が必要です」


「同意します。母の死を闇に葬るわけにはいかない」


「……強いですね」


「強くないです。怒っているだけです」


「怒りは、正しく使えば武器になります」


「ペンと同じですね」


「ええ。ペンと同じです」


廊下の窓から、午後の光が差し込んでいた。


ゲオルク爺さんの死。監査局長の死。そして母の死。三つの命が奪われた。


その罪を、裁判の場で問う。わたしの言葉で。


宿舎に戻って、机に向かった。


今日の尋問の内容を、記録として書き起こす。


母はアンブロス公爵家に匿われていた。


公爵が母を政治の道具にした。


侍従長が毒殺を命じた。


ベアーテは拒否したが、別の使用人が実行した。


レンツは真実を知りながら、十五年間黙っていた。


一つずつ書き留めるたびに、怒りと悲しみが交互に押し寄せる。


でも、ペンは止めない。


母のペンだ。銀の軸が、わたしの手の中で温まっている。


「お母様。わたしは書き続けます。あなたの真実を」


誰もいない部屋で呟いた。


ペンダントが、胸元で微かに揺れた。


窓の外では、冬の星が瞬いている。


ゲオルク爺さんが守った副本。ノルベルトが集めた証拠。ハンナの証言。グレーテの情報。


全部が繋がって、ここまで来た。


「明日——ノルベルトさんと、次の作戦を立てよう」


ペンを置いて、明かりを消した。


今夜は、ぐっすり眠れそうだ。泣いたあとは、不思議と心が軽い。


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