第32話 母を殺したもの
母を殺したものの正体を、わたしはこの取調室で知ることになる。
覚悟はしていた。でも、覚悟では足りなかった。
レンツ局長が、椅子に深く座っている。
前回の尋問より、さらに痩せていた。だが目は相変わらず鋭い。
「さて、最後の尋問だ。何を聞きたい」
「あなたが護送中に言った言葉の意味です。『イルメラの母を殺したのは、病ではない。この宮廷だ』——これはどういう意味ですか」
「そのままの意味だよ、イルメラ君」
「具体的に」
レンツが、ゆっくりと息を吐いた。
「お前の母——エレオノーラは、王家の血を引く女だった。それは知っているな」
「ベアーテさんから聞きました」
「エレオノーラは、お前を産んだあと、アンブロス公爵家に匿われていた。だが、公爵がエレオノーラの存在を政治的に利用し始めた」
「利用?」
「王族の隠し子の母親。その存在は、王家に対する脅しの材料になる。公爵はエレオノーラを『人質』として使い、宮廷での発言力を強めた」
ノルベルトのペンが止まった。
「エレオノーラ氏は、それを知っていたのですか」
「知っていた。だから逃げようとした。娘——つまりイルメラを孤児院に預けたあと、公爵家を出ようとした」
「出ようとした——出られなかったのですか」
「出られなかった。公爵が侍従長に相談し、侍従長が手を打った」
空気が、凍りつくように冷たくなった。
「手を打った、とは」
「……エレオノーラの食事に、微量の毒を混ぜ続けた。ゲオルク爺さんと同じ手口だ。心臓に負担をかけて、病死に見せかける」
息が止まった。
母は、病で死んだのではない。
殺されたのだ。ゲオルク爺さんと同じ方法で。
「誰が——誰が毒を」
「当時、公爵家の家令だったベアーテ・リンデンに命じた。——だが」
「だが?」
「ベアーテは拒否した。拒否したが、別の使用人が侍従長の命令で実行した」
ベアーテは——拒否していた。
母を殺す命令を、拒否した。
それでも母は殺された。
ベアーテが防ぎきれなかった。だから——あの人は、わたしに対してあれほどの罪悪感を抱えていたのだ。
「レンツ元局長。あなたはこの事実を、いつから知っていたのですか」
ノルベルトの声が、氷のように冷たい。
「十五年前。ベアーテがわたしに全部話した。お前を宮廷に送り込んだとき」
「知っていて——十年間黙っていた」
「黙っていた。侍従長に逆らえなかった。何度も同じ言い訳をしているな、わたしは」
レンツが自嘲気味に笑った。
「しかし一つだけ、本当のことを言おう。お前の母は、最後までお前を守ろうとしていた。孤児院に預けたのは、公爵家から引き離すためだ。お前が宮廷の争いに巻き込まれないように」
涙が、頬を伝った。
止めようとしなかった。止める必要を感じなかった。
母は、わたしを守るために手放した。
ベアーテは、母を守れなかった代わりに、わたしを見守り続けた。
レンツは、真実を知りながら黙っていた。
全員が——それぞれの立場で、それぞれの限界の中で、もがいていた。
「レンツ元局長。最後に一つだけ聞かせてください」
「何だ」
「あなたは——わたしの母を助けようとしたことはありますか」
長い沈黙が落ちた。
レンツの目が、初めて揺れた。
「……一度だけ。侍従長に、エレオノーラを解放するよう掛け合った。十八年前のことだ」
「結果は」
「断られた。それどころか——掛け合ったことを理由に、わたしも脅されるようになった。『お前も同罪だ。黙っていろ』と」
「それで——黙った」
「ああ。黙った。臆病な男だよ、わたしは」
「……そうですね。臆病です。でも——一度だけでも声を上げたことは、覚えておきます」
レンツが目を伏せた。
肩が、かすかに震えていた。
「もう一つだけ聞かせてください。わたしの母は——最後に何を言っていましたか」
レンツが顔を上げた。
老いた目に、遠い記憶の光がある。
「……ベアーテから聞いた話だが。エレオノーラは最後に、お前の名前を呼んでいたそうだ」
「わたしの名前」
「お前の本当の名前だよ。エルマ、と」
その名前が、レンツの口から出たことに驚いた。
この男も——母の本当の名前を知っていたのだ。
「お前の母は、お前のことだけを考えて死んだ。少なくとも、それだけは本当だ」
「……ありがとうございます。それを聞けただけでも、今日来た甲斐がありました」
「礼を言われるような人間ではないよ、わたしは」
「ええ。でも、最後に正直に話してくれた。それは——認めます」
レンツが、かすかに頷いた。
かつての上司と部下の関係は、もう終わった。
でも最後に交わした言葉は、嘘ではなかった。
「ノルベルトさん。記録は取れましたか」
「……はい。すべて記録しました」
「では、本日の尋問は終了です」
立ち上がる。
膝が震えていたが、まっすぐに立った。
取調室を出て、廊下で立ち止まった。
ノルベルトが、黙ってわたしの隣に立った。
何も言わない。ただ、肩が触れる距離にいる。
「……泣いてもいいですか」
「もちろんです」
ノルベルトの胸に額を押しつけて、泣いた。
声を出さずに、静かに。
藍色の外套が、涙を吸い込んでいく。
「ノルベルトさん」
「はい」
「お母様は——わたしを愛してくれていた」
「ええ」
「それだけで——今は十分です」
「……はい」
しばらく、二人で立っていた。
廊下に人は通らなかった。まるで、この時間だけ、世界が止まっているようだった。
しばらくして、顔を上げた。
ノルベルトの外套の胸元が、涙で濡れている。
「……すみません。外套を汚してしまいました」
「構いません。洗えます」
「冷たい監査官のくせに、こういうときは優しいんですね」
「冷たくはありません。……あなたの前では」
不意に、胸の奥が温かくなった。
泣いたあとなのに、不思議と穏やかだ。
「ノルベルトさん。母の死の真相は、裁判で使いますか」
「使います。侍従長の犯罪の一つとして。——ただし、あなたの同意が必要です」
「同意します。母の死を闇に葬るわけにはいかない」
「……強いですね」
「強くないです。怒っているだけです」
「怒りは、正しく使えば武器になります」
「ペンと同じですね」
「ええ。ペンと同じです」
廊下の窓から、午後の光が差し込んでいた。
ゲオルク爺さんの死。監査局長の死。そして母の死。三つの命が奪われた。
その罪を、裁判の場で問う。わたしの言葉で。
宿舎に戻って、机に向かった。
今日の尋問の内容を、記録として書き起こす。
母はアンブロス公爵家に匿われていた。
公爵が母を政治の道具にした。
侍従長が毒殺を命じた。
ベアーテは拒否したが、別の使用人が実行した。
レンツは真実を知りながら、十五年間黙っていた。
一つずつ書き留めるたびに、怒りと悲しみが交互に押し寄せる。
でも、ペンは止めない。
母のペンだ。銀の軸が、わたしの手の中で温まっている。
「お母様。わたしは書き続けます。あなたの真実を」
誰もいない部屋で呟いた。
ペンダントが、胸元で微かに揺れた。
窓の外では、冬の星が瞬いている。
ゲオルク爺さんが守った副本。ノルベルトが集めた証拠。ハンナの証言。グレーテの情報。
全部が繋がって、ここまで来た。
「明日——ノルベルトさんと、次の作戦を立てよう」
ペンを置いて、明かりを消した。
今夜は、ぐっすり眠れそうだ。泣いたあとは、不思議と心が軽い。




