表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄された社畜令嬢、腹いせに定時退勤したら国が回らなくなりました  作者: 渚月(なづき)
第4章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

31/33

第31話 局長の椅子

局長の椅子は、思っていたよりも硬かった。


十年間、この椅子に座っていたのはレンツ局長だ。わたしはその前で立ったまま、書類を受け取り、書類を返し、時には叱責を浴びた。


今日から、わたしがここに座る。


「イルメラ局長。本日の決裁書類をお持ちしました」


モニカが、きちんと整理された書類の束を差し出した。


「局長」という呼び方が、まだ耳慣れない。


「ありがとう、モニカ。——局長はやめて。イルメラさんでいいわ」


「でも、規程では——」


「規程は大事にするけど、呼び方くらいは柔軟にいきましょう」


モニカが少し笑って、「はい、イルメラさん」と言い直した。


書類に目を通す。


予算の承認案、人事異動の申請、各課からの四半期報告。かつてレンツ局長がわたしに丸投げしていた仕事そのものだ。


違うのは、わたしがひとりで処理するのではなく、各課の担当者が仕上げた書類を「承認する」立場になったということ。


「イルメラさん。外交課長がお見えです」


「通してちょうだい」


あの頑固な外交課長が、わたしの部屋を訪ねてきた。


「局長。いや——イルメラ殿」


「イルメラさんで結構です」


「……イルメラさん。定時退勤の制度化について、外交課の現状をお伝えしたい」


「お聞きします」


「正直に言って、定時退勤は外交課には厳しい。使節団の対応など、時間外の業務が頻繁に発生する」


「ですから、複数人で対応できる体制を作るんです。ひとりが帰っても別のひとりが対応する」


「言うのは簡単だが——」


「簡単ではありません。だから計画を立てます。外交課のシフト制について、モニカがヒアリング結果をまとめていますので、一緒に見ていただけますか」


外交課長が渋い顔をした。


だが、席を立たなかった。聞く気はあるのだ。


「正直に言おう。あんたが局長になると聞いたとき、わたしは反対だった」


「知っています」


「平民の、しかも元事務官が局長など——と。だが」


「だが?」


「あんたがいなくなった十日間で、この宮廷がどれほど混乱したかを見て考えが変わった。あんたが作った仕組みがなければ、まだ混乱は続いていた」


「わたしが作ったのは仕組みです。わたし自身が必要なのではなく、仕組みが必要なんです」


「……難しいことを言うな」


「難しくないですよ。要するに、誰がやっても回る仕組みを作りましょう、ということです。わたしがいなくても」


外交課長が、腕を組んで考え込んだ。


それから、ゆっくりと頷いた。


「わかった。協力する。ただし——」


「ただし?」


「定時退勤は、本当に守れるのか。局長がだぞ」


「守ります。局長がやらなければ、部下はやりませんから」


「……それもそうだな」


外交課長が帰ったあと、モニカが感嘆した。


「あの外交課長が折れるなんて……イルメラさん、どうやったんですか」


「データで話しただけよ。感情で反対する人には、事実を見せるのが一番」


「でも、データだけじゃ人は動かないですよね」


「そうね。だから最後にひとつ、付け加えたの」


「何をですか」


「『わたしがいなくても回る仕組みを作りましょう』って。つまり、あなたたちを信頼していますよ、という意味」


「信頼……」


「局長が部下を信頼しなければ、部下は局長を信頼しない。レンツ局長は、わたしを信頼せずに利用した。わたしは同じ過ちを繰り返さない」


モニカの目が、きらりと光った。


「イルメラさん。わたし、この事務局で働けてよかったです」


「わたしもよ。——さて、次の決裁書類をお願い」


「はい!」


午後の光が窓から差し込んでいる。


「モニカ。もうひとつお願いしていい?」


「何ですか」


「各課の残業時間を調べて、一覧にしてほしい。先月と今月の比較で」


「残業時間の比較……定時退勤の効果を測るためですか?」


「ええ。データがなければ、改革の成果は証明できない。外交課長みたいな人を説得するには、数字が一番」


「わかりました。明日までに」


「急がなくていいわ。定時内で終わる範囲で」


「はい。——イルメラさん」


「何?」


「わたし、いつかイルメラさんみたいな局長になりたいです」


「わたしみたいな?」


「定時に帰って、みんなを信頼して、データで人を動かせる局長」


「……ありがとう。でもまずは、自分の仕事を完璧にしてからね」


「はい!」


モニカが走っていった。


午後三時。ヨアヒムが局長室を訪ねてきた。護衛なし。私服。


「イルメラ。様子を見に来た」


「殿下。局長室に王太子が来るのは前代未聞ですよ」


「前代未聞は慣れた。——事務局の調子はどうだ」


「三日で軌道に乗りつつあります。外交課長も協力してくれるようになりました」


「あの頑固者がか。どうやった」


「データで説得しました。残業時間の比較、業務量の分析、人員配置の提案。事実を並べれば、感情論は消えます」


「お前らしいな」


「殿下こそ。勅令の反響はいかがですか」


「賛否両論だ。だが、反対派も『定時退勤で業務が回るなら文句はない』と言い始めている」


「回りますよ。わたしが証明します」


「……頼もしいな」


「殿下。ひとつお願いがあります」


「何だ」


「レンツ局長の最終尋問に、わたしも同席させてください。母のことを——直接聞きたい」


ヨアヒムの表情が曇った。


「……わかった。手配する」


「ありがとうございます」


「イルメラ。何を聞いても——」


「冷静でいます。もう何度も言われましたから」


「何度でも言う。お前は——俺の家族だ。血の繋がった」


不意に、胸の奥が締まった。


「……ありがとうございます。でも今は、局長と王太子として話しましょう。家族の話は、定時のあとで」


「……そうだな」


かつてレンツ局長がこの部屋で偽造書類を作っていた時間に、わたしは正当な決裁印を押している。


同じ椅子。同じ机。


でも、ここで行われる仕事の意味は、まったく違う。


午後、アーデルハイトが局長室を訪ねてきた。


「局長就任おめでとう。——と言うのが遅れたわね」


「ありがとうございます。薬務室の予算申請書、拝見しました。完璧な内容です」


「当然よ。五年間削られ続けた分、取り返さないと」


「承認します。来週中に執行できるよう手配します」


「助かるわ。——ところで、あなたの健康は大丈夫?」


「健康?」


「局長になったからって、また残業しないでしょうね」


「しませんよ。定時退勤は局長になっても変わりません」


「なら安心。あなたが倒れたら、この宮廷はまた止まるわ」


「止まりません。わたしがいなくても回る仕組みを作りましたから」


「……本当に変わったわね、あなた」


「変わったんじゃなくて、元に戻ったんです。本来、組織はこうあるべきだった」


アーデルハイトが微笑んだ。


毒殺未遂から回復して、この人はさらに強くなった気がする。


「モニカ。外交課のヒアリング資料を」


「はい。こちらです」


三人で資料を広げる。


かつてはわたしひとりが抱えていた問題を、三人で話し合っている。これが、わたしが目指す組織の姿だ。





午後、ノルベルトが局長室を訪ねてきた。


「新しい椅子の座り心地はいかがですか」


「硬いです。前任者の体重で潰れているかと思いきや」


「レンツ局長は椅子に座っている時間が短かったですからね。実務はあなたに任せて、自分は別の『仕事』をしていた」


「署名の偽造ですね」


「ええ。——ところで、レンツ局長の最終尋問について」


ノルベルトの声が、低くなった。


「護送中に言った言葉——『イルメラの母を殺したのは、病ではない。この宮廷だ』。あれについて、追加の尋問を行います」


「いつですか」


「明後日。あなたも同席しますか」


「します。わたしの母のことです。わたしが聞かなければ」


「……わかりました。ただし——」


「冷静でいてください、ですね。もう何度も言われました」


「何度でも言います」


ノルベルトの目が、いつもより優しい。


昨夜、手を握り合ったことを思い出す。あの温もりが、まだ指先に残っている。


「ノルベルトさん」


「はい」


「昨日の——泉のこと」


「……はい」


「あれは、夢じゃないですよね」


「夢ではありません。業務外の事実です」


「業務外の事実。響きが堅いですね」


「では——個人的な、大切な事実です」


耳が赤い。


わたしの耳も、たぶん赤い。


「……定時になったら、話の続きをしましょう」


「承知しました」


午後五時。定時退勤。


局長として初めての退勤。


門を出ると、ノルベルトが待っていた。


——だがレンツ局長の最終尋問は、わたしたちの予想を超える爆弾を抱えていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ