第31話 局長の椅子
局長の椅子は、思っていたよりも硬かった。
十年間、この椅子に座っていたのはレンツ局長だ。わたしはその前で立ったまま、書類を受け取り、書類を返し、時には叱責を浴びた。
今日から、わたしがここに座る。
「イルメラ局長。本日の決裁書類をお持ちしました」
モニカが、きちんと整理された書類の束を差し出した。
「局長」という呼び方が、まだ耳慣れない。
「ありがとう、モニカ。——局長はやめて。イルメラさんでいいわ」
「でも、規程では——」
「規程は大事にするけど、呼び方くらいは柔軟にいきましょう」
モニカが少し笑って、「はい、イルメラさん」と言い直した。
書類に目を通す。
予算の承認案、人事異動の申請、各課からの四半期報告。かつてレンツ局長がわたしに丸投げしていた仕事そのものだ。
違うのは、わたしがひとりで処理するのではなく、各課の担当者が仕上げた書類を「承認する」立場になったということ。
「イルメラさん。外交課長がお見えです」
「通してちょうだい」
あの頑固な外交課長が、わたしの部屋を訪ねてきた。
「局長。いや——イルメラ殿」
「イルメラさんで結構です」
「……イルメラさん。定時退勤の制度化について、外交課の現状をお伝えしたい」
「お聞きします」
「正直に言って、定時退勤は外交課には厳しい。使節団の対応など、時間外の業務が頻繁に発生する」
「ですから、複数人で対応できる体制を作るんです。ひとりが帰っても別のひとりが対応する」
「言うのは簡単だが——」
「簡単ではありません。だから計画を立てます。外交課のシフト制について、モニカがヒアリング結果をまとめていますので、一緒に見ていただけますか」
外交課長が渋い顔をした。
だが、席を立たなかった。聞く気はあるのだ。
「正直に言おう。あんたが局長になると聞いたとき、わたしは反対だった」
「知っています」
「平民の、しかも元事務官が局長など——と。だが」
「だが?」
「あんたがいなくなった十日間で、この宮廷がどれほど混乱したかを見て考えが変わった。あんたが作った仕組みがなければ、まだ混乱は続いていた」
「わたしが作ったのは仕組みです。わたし自身が必要なのではなく、仕組みが必要なんです」
「……難しいことを言うな」
「難しくないですよ。要するに、誰がやっても回る仕組みを作りましょう、ということです。わたしがいなくても」
外交課長が、腕を組んで考え込んだ。
それから、ゆっくりと頷いた。
「わかった。協力する。ただし——」
「ただし?」
「定時退勤は、本当に守れるのか。局長がだぞ」
「守ります。局長がやらなければ、部下はやりませんから」
「……それもそうだな」
外交課長が帰ったあと、モニカが感嘆した。
「あの外交課長が折れるなんて……イルメラさん、どうやったんですか」
「データで話しただけよ。感情で反対する人には、事実を見せるのが一番」
「でも、データだけじゃ人は動かないですよね」
「そうね。だから最後にひとつ、付け加えたの」
「何をですか」
「『わたしがいなくても回る仕組みを作りましょう』って。つまり、あなたたちを信頼していますよ、という意味」
「信頼……」
「局長が部下を信頼しなければ、部下は局長を信頼しない。レンツ局長は、わたしを信頼せずに利用した。わたしは同じ過ちを繰り返さない」
モニカの目が、きらりと光った。
「イルメラさん。わたし、この事務局で働けてよかったです」
「わたしもよ。——さて、次の決裁書類をお願い」
「はい!」
午後の光が窓から差し込んでいる。
「モニカ。もうひとつお願いしていい?」
「何ですか」
「各課の残業時間を調べて、一覧にしてほしい。先月と今月の比較で」
「残業時間の比較……定時退勤の効果を測るためですか?」
「ええ。データがなければ、改革の成果は証明できない。外交課長みたいな人を説得するには、数字が一番」
「わかりました。明日までに」
「急がなくていいわ。定時内で終わる範囲で」
「はい。——イルメラさん」
「何?」
「わたし、いつかイルメラさんみたいな局長になりたいです」
「わたしみたいな?」
「定時に帰って、みんなを信頼して、データで人を動かせる局長」
「……ありがとう。でもまずは、自分の仕事を完璧にしてからね」
「はい!」
モニカが走っていった。
午後三時。ヨアヒムが局長室を訪ねてきた。護衛なし。私服。
「イルメラ。様子を見に来た」
「殿下。局長室に王太子が来るのは前代未聞ですよ」
「前代未聞は慣れた。——事務局の調子はどうだ」
「三日で軌道に乗りつつあります。外交課長も協力してくれるようになりました」
「あの頑固者がか。どうやった」
「データで説得しました。残業時間の比較、業務量の分析、人員配置の提案。事実を並べれば、感情論は消えます」
「お前らしいな」
「殿下こそ。勅令の反響はいかがですか」
「賛否両論だ。だが、反対派も『定時退勤で業務が回るなら文句はない』と言い始めている」
「回りますよ。わたしが証明します」
「……頼もしいな」
「殿下。ひとつお願いがあります」
「何だ」
「レンツ局長の最終尋問に、わたしも同席させてください。母のことを——直接聞きたい」
ヨアヒムの表情が曇った。
「……わかった。手配する」
「ありがとうございます」
「イルメラ。何を聞いても——」
「冷静でいます。もう何度も言われましたから」
「何度でも言う。お前は——俺の家族だ。血の繋がった」
不意に、胸の奥が締まった。
「……ありがとうございます。でも今は、局長と王太子として話しましょう。家族の話は、定時のあとで」
「……そうだな」
かつてレンツ局長がこの部屋で偽造書類を作っていた時間に、わたしは正当な決裁印を押している。
同じ椅子。同じ机。
でも、ここで行われる仕事の意味は、まったく違う。
午後、アーデルハイトが局長室を訪ねてきた。
「局長就任おめでとう。——と言うのが遅れたわね」
「ありがとうございます。薬務室の予算申請書、拝見しました。完璧な内容です」
「当然よ。五年間削られ続けた分、取り返さないと」
「承認します。来週中に執行できるよう手配します」
「助かるわ。——ところで、あなたの健康は大丈夫?」
「健康?」
「局長になったからって、また残業しないでしょうね」
「しませんよ。定時退勤は局長になっても変わりません」
「なら安心。あなたが倒れたら、この宮廷はまた止まるわ」
「止まりません。わたしがいなくても回る仕組みを作りましたから」
「……本当に変わったわね、あなた」
「変わったんじゃなくて、元に戻ったんです。本来、組織はこうあるべきだった」
アーデルハイトが微笑んだ。
毒殺未遂から回復して、この人はさらに強くなった気がする。
「モニカ。外交課のヒアリング資料を」
「はい。こちらです」
三人で資料を広げる。
かつてはわたしひとりが抱えていた問題を、三人で話し合っている。これが、わたしが目指す組織の姿だ。
◇
午後、ノルベルトが局長室を訪ねてきた。
「新しい椅子の座り心地はいかがですか」
「硬いです。前任者の体重で潰れているかと思いきや」
「レンツ局長は椅子に座っている時間が短かったですからね。実務はあなたに任せて、自分は別の『仕事』をしていた」
「署名の偽造ですね」
「ええ。——ところで、レンツ局長の最終尋問について」
ノルベルトの声が、低くなった。
「護送中に言った言葉——『イルメラの母を殺したのは、病ではない。この宮廷だ』。あれについて、追加の尋問を行います」
「いつですか」
「明後日。あなたも同席しますか」
「します。わたしの母のことです。わたしが聞かなければ」
「……わかりました。ただし——」
「冷静でいてください、ですね。もう何度も言われました」
「何度でも言います」
ノルベルトの目が、いつもより優しい。
昨夜、手を握り合ったことを思い出す。あの温もりが、まだ指先に残っている。
「ノルベルトさん」
「はい」
「昨日の——泉のこと」
「……はい」
「あれは、夢じゃないですよね」
「夢ではありません。業務外の事実です」
「業務外の事実。響きが堅いですね」
「では——個人的な、大切な事実です」
耳が赤い。
わたしの耳も、たぶん赤い。
「……定時になったら、話の続きをしましょう」
「承知しました」
午後五時。定時退勤。
局長として初めての退勤。
門を出ると、ノルベルトが待っていた。
——だがレンツ局長の最終尋問は、わたしたちの予想を超える爆弾を抱えていた。




