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婚約破棄された社畜令嬢、腹いせに定時退勤したら国が回らなくなりました  作者: 渚月(なづき)
第3章

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30/40

第30話 王太子の決断

第3章完結です!

王太子ヨアヒムが公式の場に立ったのは、すべてが始まった舞踏会以来だった。


だが今度は、婚約破棄の宣言ではない。この国の形そのものを変える決断だ。


宮廷大広間。


かつて千本の蝋燭の下で婚約破棄が宣告された場所に、今は窓から白い光が差し込んでいる。カーテンが開け放たれているのだ。


あの夜、わたしは柱の陰で立ち尽くしていた。


今は最前列の椅子に座っている。隣にノルベルト。その後ろにアーデルハイト、モニカ、そしてグレーテ嬢。


集まった宮廷の主要な役職者たちの視線が、壇上のヨアヒムに集中している。


「本日は、宮廷改革に関する勅令を発表する」


広間がしん、と静まった。


「第一に。宮廷事務局を再編し、業務の分権化を進める。一人の人間に過度な負担が集中する構造を、制度として禁止する」


わたしを見た。


わたしは小さく頷いた。


「第二に。宮廷監査局に独立した定期監査の権限を与える。予算執行の透明性を確保し、不正を未然に防ぐ」


ノルベルトが背筋を伸ばした。


「第三に。全宮廷職員の勤務時間を服務規程に基づき厳格化する。定時退勤を原則とし、残業は事前申請制とする」


広間にざわめきが広がった。


予想通りだ。


「異論がある者は」


外交課長が手を挙げた。


「殿下。定時退勤を制度化するのは結構ですが、緊急の業務が発生した場合はどうするのですか」


「複数の人間が同じ業務を遂行できる体制を構築する。一人が帰っても別の人間が対応できる組織を作る」


「それは理想論では——」


「理想ではない。イルメラ・ヴェストが、すでに事務局で実証している」


外交課長が口を閉じた。


わたしの名前が、王太子の口から、公式の場で出た。十年間、名前すら呼ばれなかった社畜令嬢の名前が。


「第四に——」


ヨアヒムが一拍置いた。


広間の空気が張り詰める。


「イルメラ・ヴェストを、宮廷事務局の新局長に任命する」


時間が止まった。


隣のノルベルトが、小さく息を呑んだのが聞こえた。


だが驚きではない。知っていた顔だ。事前に聞いていたのか。


「殿下——」


「異論は認めない。この宮廷で最も実務能力が高く、最も多くの部署の業務を理解し、そしてこの国の不正を暴いた功績を持つ人間は、イルメラ・ヴェストをおいて他にいない」


「わたしの出自は——」


「出自は関係ない。能力で評価する。それが、この改革の根幹だ」


広間がどよめいた。


賛成と反対の声が入り混じる。


壇上のヨアヒムの目が、まっすぐにわたしを見ている。


あの舞踏会の夜とは違う目だ。逃げない目。覚悟を決めた目。


「殿下。一つだけ条件があります」


「何だ」


「局長になっても、定時に帰ります」


広間が一瞬沈黙した。


それから——笑いが起きた。嘲笑ではない。あたたかい笑いだった。


「認める」


ヨアヒムが微笑んだ。


その瞬間、広間の奥から拍手が聞こえた。


誰が始めたのかわからない。でも、少しずつ広がっていく。


モニカが立ち上がって拍手していた。


アーデルハイトも。グレーテ嬢も。


外交課長までが、渋々ながら手を叩いている。


胸の奥が、熱い。


泣きたいわけではない。ただ——十年間の残業が、ようやく報われた気がした。





勅令の発表が終わったあと、広間を出ようとしたわたしの腕を、グレーテ嬢が掴んだ。


「おめでとう、イルメラさん」


「ありがとう、グレーテ嬢」


「わたし、さっき殿下に婚約解消を申し出たの」


「……殿下は何と」


「『わかった。すまなかった』って。それだけ」


グレーテ嬢の目が、少し赤い。


でも笑っている。


「わたし、これからどうしようかしら。アンブロス領にも帰れないし」


「薬務室で働きませんか。アーデルハイトさんが人手を探していたわ」


「薬務室? わたしに薬の知識なんて——」


「学べばいいんです。最初から完璧にできる人なんていない。——モニカの受け売りですけど」


グレーテ嬢が笑った。


初めて見る、屈託のない笑顔だった。


広間の出口で、ノルベルトが待っていた。


「局長就任、おめでとうございます」


「ありがとうございます。——知ってたんですね、事前に」


「殿下から昨夜、相談がありました」


「で、何と答えたんですか」


「『彼女以外にいません』と」


不意打ちだった。


顔が熱くなる。


「それは——業務上の評価ですか」


「業務上の評価です」


「本当に?」


「……半分は」


「残りの半分は」


ノルベルトが目を逸らした。


耳が赤い。もう夕焼けのせいにはできない時間帯だ。


「残りの半分は——あとで言います」


「いつの『あとで』ですか。怒りの件もまだ清算されていませんよ」


「では、二つまとめて。今夜——市場の泉のそばで」


心臓が一拍跳ねた。


「定時後に?」


「定時後です。業務外の……面会を申し込みたいのですが」


「……承知しました。定時後なら」


ノルベルトが去っていく。


その背中が、いつもより少しだけ——ほんの少しだけ、揺れていた。


午後五時。定時退勤。


門を出て、市場に向かう。


秋の夕暮れ。空が橙から紫に変わっていく。


泉のそばのベンチに、藍色の外套が見えた。


約束の場所。すべてが始まった場所。


ノルベルトが立ち上がった。


「来てくれましたか」


「来ましたよ。で、二つまとめて聞きましょうか」


「一つ目。怒りの件——約束を破ったこと、心から謝ります。二度としません」


「受理します。二つ目は」


ノルベルトが一歩、近づいた。


泉の水音が、二人の間を流れている。


「局長就任の推薦の、残りの半分の理由ですが」


「はい」


「あなたが局長になれば、わたしは監査官として、あなたと対等な立場で向き合えます」


「対等?」


「協力者ではなく。部下でもなく。——対等な関係で、隣にいたかった」


呼吸が止まった。


「それは——」


「業務外の感情です。不適切であれば——」


「不適切です」


ノルベルトの顔が、一瞬で蒼白になった。


「——不適切ですけど、嬉しいです」


蒼白の顔が、今度は真っ赤になった。


この人は、本当に感情が顔に出る。嘘を見抜くのが仕事のくせに。


「嬉しい、というのは——」


「わたしも、あなたの隣にいたいと思っていました。ずっと」


「ずっと、というのはいつから」


「定時までで結構です、と初めて言ってもらったときから」


ノルベルトが、何かを言おうとして口を開き、閉じ、また開いた。


結局、言葉にならなかったようで、ただ——手を伸ばした。


わたしの手に触れる。


今度は、震えていなかった。


わたしは——握り返した。


泉の水音。


市場の片付けをする商人たちの声。遠くで鳥が鳴いている。


この場所で、ヨアヒムと話した。


この場所で、ノルベルトと毎週会った。


この場所で、ベアーテと出会い、グレーテ嬢と語り合った。


すべてが、ここから始まった。


定時退勤を始めた日に見た、夕暮れの市場。あの日のわたしは、ひとりだった。


今は、手を握ってくれる人がいる。


「ノルベルトさん」


「はい」


「明日から、わたしは局長です」


「ええ」


「あなたは監査官です」


「ええ」


「仕事中は、今までどおり対等に。厳しく。遠慮なく」


「もちろんです」


「定時後は——」


「定時後は?」


「……善処してください」


「それは、わたしの台詞だったはずですが」


「知ってます。返しただけです」


二人で笑った。


笑いながら、手は離さなかった。


空に星が見え始めている。


秋の風が、頬を撫でていく。


ゲオルク爺さん。あなたが守ってくれた書類が、この国を変えました。


アーデルハイトさん。あなたの薬務室も、もう人手不足で苦しまない仕組みを作ります。


ハンナ。あなたの罪は消えないけれど、あなたの証言がたくさんの人を救いました。


ベアーテさん。お母様のことを、いつかゆっくり聞かせてください。


そして、ノルベルトさん。


あなたがいなかったら、わたしはまだ毎晩残業していた。


星が、ひとつ増えた。


——社畜令嬢は局長になり、氷の監査官の手を握った。だが最終章の幕が上がるとき、レンツ局長が最後の尋問で告げた言葉が、すべてを変える——「イルメラの母を殺したのは、病ではない。この宮廷だ」と。


最後までお読みいただきありがとうございました。

第三章完結のなります。

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