第3話 届かなかった報告書
定時退勤三日目の出来事を語る前に、ひとりの老人の話をしなければならない。
宮廷事務局の文書保管室で、三十年間、書架の番人をしていた男の話だ。
出仕すると、事務局がいつも以上にざわついていた。
ハンナが泣いている。
レンツ局長の顔が蒼白だ。
「何があったの、ハンナ」
「イルメラ……ゲオルク爺さんが……」
ハンナが両手で顔を覆った。
言葉の続きは、隣の席の同僚が代わりに口にした。
「文書保管室のゲオルク爺さんが、昨夜、亡くなったそうだ」
息が止まった。
ゲオルク・シュタイナー。
宮廷事務局の最古参にして、文書保管室の管理人。わたしが新人だった頃、書類の書き方を一から教えてくれた人だ。
「……どうして」
「心臓だと。ここ数日、保管室の整理を夜通しやっていたらしい。年齢を考えれば無理もない」
「夜通し? 誰か手伝いはいなかったの?」
「いるわけないだろう。保管室はずっとゲオルク爺さんひとりだ」
ここ数日。
つまり、わたしが定時退勤を始めてからだ。
胸の奥が、冷たくなる。
ゲオルク爺さんは、わたしが帰ったあとの業務を肩代わりしようとしたのだろうか。
七十を超えた身体で。
——違う。そう思い直す。
ゲオルク爺さんの仕事はもともと過酷だった。
保管室の書架は数万冊の文書を抱え、それを管理する人員は彼ひとり。増員の要請は何度も却下されていた。
彼が倒れたのは、わたしのせいではない。
この宮廷の、人を使い潰す構造のせいだ。
でも、そう理解していても、胸の痛みは消えなかった。
机の前に座ったまま、ゲオルク爺さんとの最後の会話を思い出していた。
あれは、四日前の夕方だった。
残業中に保管室へ書類を届けに行くと、ゲオルク爺さんが棚の整理をしていた。
「お嬢ちゃん、またこんな時間かい」
「ゲオルク爺さんこそ。もう遅いですよ」
「年寄りは眠れんのだよ。それより、お嬢ちゃんに聞きたいことがある」
「何ですか?」
「最近、宮廷の予算がおかしいと思わんか。あちこちの部署で、必要な経費が削られとる」
わたしは苦笑した。
「おかしいも何も、わたしの残業代もまともに出ていませんよ」
「そうか。やっぱりそうか……」
ゲオルク爺さんは、何か言いたげに口を開きかけて、結局、笑顔に変えた。
「まあいい。お嬢ちゃんは身体を大事にしなさい。無理をしちゃいかん」
「ゲオルク爺さんこそ」
「わしはもう先が短いからな。でもお嬢ちゃんには、まだ先がある」
あのとき、もう少し話を聞いていれば。
もう少し、ゲオルク爺さんの言葉の裏にあるものに気づいていれば。
後悔が、じわりと胸に広がる。
「ゲオルク爺さん、先週も腰が痛いって言ってたのに……」
ハンナが鼻をすする。
「誰かが止めるべきだったのよ。年寄りをひとりで働かせるなんて」
「増員の申請は出していただろう。何度も却下されたんだ」
「誰が却下したの」
同僚たちの視線が、レンツ局長の部屋に向かった。
局長は蒼白な顔のまま、部屋に閉じこもっている。
「イルメラ」
振り向くと、ノルベルトが立っていた。
監査局の藍色の外套が、事務局の中では目立つ。
「ゲオルク・シュタイナー氏の件で、お話があります」
「……はい」
また会議室だ。
昨日と同じ椅子に座ると、ノルベルトが静かに切り出した。
「ゲオルク氏の死因について、監査局として調査を開始しました」
「調査? 心臓発作ではないのですか」
「心臓発作であることは間違いないでしょう。問題は、なぜ七十歳を超えた職員がひとりで保管室を管理していたか、です」
ノルベルトの目が、わたしを見る。
昨日と同じ、感情を排した目だ。
「保管室の増員申請は、過去五年間で十二回提出されています。すべて却下。却下の決裁者は——」
「レンツ局長、ですね」
ノルベルトが、わずかに目を細めた。
「ご存知でしたか」
「ゲオルク爺さんが、ぼやいていましたから」
あの穏やかな笑顔を思い出す。
白髪をきちんと撫でつけて、いつも保管室の掃除を欠かさなかった人。
わたしが残業で遅くなると、「お嬢ちゃん、またこんな時間かい」と言って温かい茶を淹れてくれた。
「何度出しても無駄じゃよ、って。でも出さないわけにもいかんからな、って」
「……そうですか」
ノルベルトの声が、わずかに低くなった。
「増員申請の却下には、予算上の理由が記載されています。しかし、同時期に事務局の『特別業務手当』が新設され、局長級以上の職員に支給されている」
「つまり——」
「増員予算を削り、手当に流用していた可能性があります」
ノルベルトの言葉が、点と点を繋いでいく。
ゲオルク爺さんが倒れた本当の理由が、そこにある。
「わたしに、何ができますか」
気づいたら、そう口にしていた。
ノルベルトが少し驚いた顔をしたのは、一瞬だけだった。
すぐにいつもの無表情に戻る。
「あなたが過去十年間に処理した業務記録は、事務局の運営実態を証明する重要な資料です」
「具体的にはどのような」
「本来の担当者ではない業務を処理していた記録です。人員配置の不正を裏づける証拠になる」
「つまり、わたしの残業記録が証拠になると」
「端的に言えば、そうなります」
皮肉な話だ。
誰にも評価されなかった十年間の過重労働が、今になって武器になる。
「ただし、条件があります」
ノルベルトが片眉を上げた。
「条件?」
「わたしの記録が証拠として使われるなら、その結果を知る権利がわたしにもあるはずです。調査の進捗を、定期的に教えてください」
「……それは、通常の手続きでは認められていませんが」
「通常の手続きで済む話ではないでしょう。わたしは十年間、この宮廷の内側を見てきました。あなたが外から調べるより、わたしの方が早く気づけることがあるはずです」
ノルベルトがしばらく黙った。
それから、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「交渉が上手い。事務官にしておくのは惜しい」
「褒めてるんですか、それ」
「褒めています」
「協力します」
迷いはなかった。
ゲオルク爺さんの分まで、この宮廷の膿を出す。
「ありがとうございます。ただし、一つ忠告があります」
「はい」
「この調査は、あなたにとって危険を伴います」
「どういう意味ですか」
「レンツ局長だけの問題ではない可能性がある。宮廷の上層部に波及すれば、あなたを排除しようとする動きが出るでしょう」
「……それは、脅しですか」
「忠告です。あなたの身を案じている、と受け取っていただければ」
ノルベルトの声に、初めてほんの少しだけ温度を感じた。
冷徹だと思っていたこの人にも、感情がある。当たり前のことに、なぜか安堵した。
「それでも、協力します」
「……わかりました。では、業務記録の写しを用意していただけますか。過去三年分で構いません」
「三年分なら、記憶だけで再現できます」
ノルベルトが二度目の驚きを見せた。
今度は隠しきれなかったようで、わずかに目を見開いている。
「すべて記憶しているのですか」
「日付と内容と処理時間。全部覚えています」
「……なぜ」
「覚えていないと、自分がどれだけ働いたかさえ、誰にも証明できないからです」
ノルベルトはしばらくわたしの顔を見つめていた。
何を考えているのか読めない。でも、不快ではなかった。
◇
午後。
ゲオルク爺さんの簡素な葬儀が、王宮の裏庭で執り行われた。
参列者は十人にも満たない。
三十年間、この宮廷を支えた人間の最期が、これだ。
レンツ局長は来なかった。
ヨアヒムも、当然、来ない。
花を手向けながら、隣にハンナが立った。
「ゲオルク爺さん、先月もあなたのこと褒めてたわよ」
「……何て」
「イルメラは宮廷の宝だ、って。あの子がいなくなったら、この宮廷は三日で止まる、って」
三日。
わたしが定時退勤を始めてから、ちょうど三日目にゲオルク爺さんは逝った。
「……やめてよ。泣くから」
「泣けばいいじゃない」
泣かなかった。
泣く代わりに、拳を握った。
ゲオルク爺さん。あなたの仇は取る。
このペンで、この記憶で、必ず。
葬儀が終わり、午後五時を待って退勤する。
三日目の夕焼けは、少し滲んで見えた。目が潤んでいたせいかもしれない。
宿舎に戻る途中、門の近くでノルベルトとすれ違った。
彼の外套の襟元に、小さな白い花がひとつ挿してある。
ゲオルク爺さんの葬儀の花と、同じ花だ。
わたしは立ち止まった。
「ゲーアハルト様」
「ノルベルトで構いません。業務外ですから」
「……ノルベルトさん。葬儀に、いらしたんですね」
「シュタイナー氏は、監査局にも丁寧に対応してくださる数少ない方でした」
そう言って、彼はかすかに微笑んだ。
初めて見る笑顔だった。冷たい印象の顔が、不思議なほど穏やかに見える。
「イルメラさん。明日から、業務記録の再現をお願いしてもよろしいですか」
「はい。定時までに、できる限りのことを」
「定時までで結構です。それ以上は求めません」
その言葉が嬉しくて、少しだけ歩幅が広くなった。
——けれど、ゲオルク爺さんの死が、ただの心臓発作ではない可能性が浮上するのは、もう少し先のことだ。




