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婚約破棄された社畜令嬢、腹いせに定時退勤したら国が回らなくなりました  作者: 渚月(なづき)
第3章

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第29話 ベアーテの本心

ベアーテの本心を聞いたのは、二度目の面会のときだった。


出自の話をした最初の面会から一週間。今度は、わたしひとりで会いに行った。


「ひとりで来たの? 監査官は」


「今日はわたし個人の用です。記録も取りません」


ベアーテが少し驚いた顔をして、それから穏やかに微笑んだ。


「何が聞きたいの」


「あなたの本心です。なぜわたしに近づいたのか。公爵家への忠義だけでは説明がつかない」


「……鋭いわね。相変わらず」


「十年間、書類の裏を読む訓練をしてきましたから」


ベアーテが椅子の背に身を預けた。


目を閉じて、しばらく黙っている。


「二十年前。あなたのお母様を公爵家に匿ったとき——わたしは家令として、すべての手配をしたわ」


「お母様は……今はどこに」


「亡くなったわ。あなたを産んで二年後に、病で」


胸が、きゅっと締まった。


知らなかった母のことを、他人から聞いている。


「お母様は、あなたを手放すとき、わたしに言ったの。『この子を頼む。いつか、この子が自分の足で立てるようになるまで』と」


「あなたが——匿名の寄付者?」


「ええ。公爵家の金を使って、あなたの養育費を払っていた。公爵にはそれを『慈善事業』として報告していたわ」


「公爵は知らなかったんですか」


「最初は知らなかった。でも途中で気づいた。気づいて——利用し始めた」


「利用?」


「王族の隠し子の存在を、政治的な道具として。侍従長に伝え、レンツ局長を通じて宮廷の内部工作に使った」


すべてが繋がった。


わたしが宮廷に奉公に出されたのは、偶然ではなかった。公爵家が、王族の隠し子を宮廷の中に「配置」したのだ。


「わたしは——駒だった」


「最初はそうだった。でも、あなたは駒を超えた。自分の力で這い上がり、宮廷の中核を担う存在になった。それは公爵にも侍従長にも想定外だったわ」


「だから——排除しようとした」


「ええ。あなたが有能すぎて、不正に気づく危険が増した。婚約破棄は、その最終手段だった」


ベアーテの目が、潤んでいる。


「わたしがあなたに近づいたのは、公爵家の命令だった。でも——あなたを見ているうちに、お母様の姿が重なって」


「……」


「賢くて、頑固で、自分の足で立つことにこだわる。そっくりだったわ」


「お母様のことを——もっと教えてもらえますか」


「いくらでも。でもそれは、ここを出てからにしましょう。牢の中で語る話じゃないわ」


ベアーテが微笑んだ。


今度の微笑みは、文具店で見たどの笑顔よりも温かかった。





面会室を出ると、廊下にノルベルトが立っていた。


「……来ないって言ったのに」


「来ていません。偶然通りかかっただけです」


「嘘が下手ですね」


「自覚はあります」


二人で廊下を歩く。


「ベアーテさんの話、聞きましたか」


「壁が薄いので、多少は」


「多少ではなく全部でしょう」


「……すみません」


「いいです。あとで怒りますから」


「また怒りの予約ですか。溜まる一方ですね」


「利息もつけますよ」


ノルベルトが小さく笑った。


その笑顔を見て、胸の奥が温かくなる。


面会室を出て、宮廷の中庭を歩いた。


秋の花が咲いている。


ゲオルク爺さんの葬儀に手向けた白い花と同じ種類のものが、花壇の隅に控えめに咲いていた。


「ノルベルトさん。ゲオルク爺さんは、最初からわたしの出自を知っていたんでしょうか」


「副本の中に孤児院の記録を隠していた。知っていた可能性は高い」


「知っていて——何も言わなかった」


「言えば、あなたが危険になる。ベアーテ氏と同じ判断ですね」


「みんなが黙っていた。わたしを守るために。でも——」


「でも?」


「守られることと、知らされないことは違う。わたしは——知りたかった。自分が何者なのか」


「今は、知っている」


「ええ。エレオノーラの娘。王家の末裔。そして——十年間、この宮廷で働いてきた女」


「どの肩書きが一番しっくりきますか」


「どれでもないわ。わたしは——定時に帰る女。それが一番しっくりくる」


ノルベルトが笑った。


声を出して笑うのを聞いたのは、初めてかもしれない。


「それでは、定時に帰る女のために。明日の段取りを確認しましょう」


「大広間での公式発表ですね」


「ええ。ヨアヒム殿下と打ち合わせ済みです。殿下が勅令を読み上げ、あなたが新局長として就任演説を行う」


「就任演説……何を言えばいいんでしょう」


「あなたらしいことを言えば十分です」


「あなたらしいこと」


「『定時に帰ります』で十分でしょう」


「……それ、就任演説として成立しますか」


「あなたが言えば、成立します」


「もうひとつ。お母様のペンダントを取りに行きたいのですが」


「孤児院にですか」


「ええ。局長の権限で保管庫を開けられるはず。ベアーテさんが場所を教えてくれました」


「では、明日の発表のあとに。わたしも同行します」


「監査官が孤児院に?」


「業務上の同行です」


「また業務ですか」


「……半分は」


「残りの半分は?」


「あなたのお母様の形見を受け取る瞬間に、隣にいたいと思いました」


不意打ちだった。


この人は時々、予告なしに心の奥を刺してくる。


「……ありがとうございます」


「どういたしまして」


廊下の窓から、夕焼けが見えた。


明日。大広間で勅令が読み上げられ、わたしは新局長として立つ。


そしてその後——お母様のペンダントを手にする。


二十年間の空白が、ようやく形を持とうとしている。


「ノルベルトさん」


「はい」


「定時です」


「ええ。帰りましょう」


二人で門に向かう。


夕暮れの廊下に、影が二つ並んでいる。


もうすぐ、この影の距離が変わる。


そんな予感がした。


わたしの過去は、想像以上に複雑だった。


王族の隠し子。公爵家の駒。孤児院の少女。社畜令嬢。


でも今のわたしは、そのどれでもない。


定時に帰り、自分の頭で考え、自分の意思で戦う女だ。


——残る謎はひとつ。わたしの出自が明らかになった今、ヨアヒムはどう動くのか。王太子としての決断が、この物語の転換点になる。



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