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婚約破棄された社畜令嬢、腹いせに定時退勤したら国が回らなくなりました  作者: 渚月(なづき)
第3章

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第28話 定時退勤が変えたもの

定時退勤が変えたもの。それは、わたしの働き方だけではなかった。


この宮廷そのものが、少しずつ姿を変え始めている。


わたしの出自が公になった日。


宮廷中が騒然とした。


王族の隠し子が、孤児院で育ち、十年間社畜令嬢として働かされていた——その事実は、瞬く間に宮廷を駆け巡り、街にまで広がった。


「イルメラさん。大丈夫ですか」


モニカが心配そうに近づいてきた。


事務局の中では、さまざまな視線がわたしに注がれている。好奇心、同情、畏敬、そして——少しの怯え。


「大丈夫よ。わたしは何も変わっていないから」


「でも、王族の血筋だなんて——」


「血筋がどうであれ、わたしの仕事は変わらない。今日も定時に帰ります」


その言葉に、モニカが少し笑った。


「イルメラさんらしい」


午前中、宮廷のあちこちで囁き声が聞こえた。


でも不思議と、嫌な気持ちにはならなかった。


十年間、「平民だから」と蔑まれてきた。


今度は「王族の血筋だから」と特別扱いされそうになっている。


どちらも、わたし自身を見ていない。


肩書きしか見ていない。


「イルメラさん」


廊下でノルベルトが待っていた。


「侍従長の件、進展がありました」


「切り札が無効化されたあとの反応は」


「予想どおり、完全に崩れました。取引材料を失った侍従長は、全面的な自供を始めています」


「よかった」


「あなたの決断のおかげです」


「わたしの決断ではありません。ゲオルク爺さんが教えてくれたんです。沈黙は美徳ではない、と」


ノルベルトが頷いた。


「ところで——あなたの出自が公になったことで、ひとつ変化がありました」


「何ですか」


「宮廷内で、定時退勤を希望する職員が急増しています」


「え?」


「『王族の血を引くイルメラさんが定時に帰っているのだから、わたしたちも帰っていいはずだ』と」


「……それは論理が飛躍していませんか」


「飛躍していますが、結果的に良い方向に動いています。昨日だけで、十七名の職員が定時退勤を実行したそうです」


「十七名」


「さらに、外交課長が残業削減の通達を出しました。あの頑固な外交課長が」


思わず笑ってしまった。


あの外交課長が。会議で「小娘に何がわかる」と言った、あの人が。


「きっかけは何だったんですか」


「外交課長の言葉を引用すると——『あの社畜令嬢が王族だったとなれば、もう平民だから残業させてよいという言い訳が使えない。ならば仕組みを変えるしかない』だそうです」


「……動機が不純ですけど」


「結果が正しければ、動機は問いません」





午後五時。定時退勤。


門を出ると、いつもと違う光景が広がっていた。


わたしのあとに続いて、何人もの職員が門を出てくる。


モニカ。外交課のエマ。庶務課の若い事務官たち。


そして——ノルベルト。


「今日も定時ですね」


「もちろんです」


並んで歩く。


夕暮れの街は、いつもと同じように穏やかだ。


「ノルベルトさん」


「はい」


「怒る件、まだ有効ですからね」


「……覚えていましたか」


「十年分の記憶力を甘く見ないでください」


「甘く見てはいません。むしろ、恐れています」


「恐れなくていいです。ただし——次に約束を破ったら、残業させますよ」


「それだけは勘弁してください」


二人で笑った。


夕焼けの中で、影が並んでいる。


門の外で、見覚えのある顔を見つけた。


ハンナだ。


謹慎処分中のはずの彼女が、門の前に立っている。


目が合った瞬間、ハンナの顔がくしゃりと歪んだ。


「イルメラ……」


「ハンナ。どうしたの」


「謹慎が解けたの。情状酌量で——証言に協力したことが認められて」


「そう。よかった」


「よく……ないわよ。わたしは——」


「ハンナ」


わたしは、彼女の前に立った。


「あなたがやったことは許されない。でも、あなたが最後に正直に話してくれたから、たくさんの人が救われた。それも事実よ」


「……」


「許すかどうかは、わたしが決めることじゃない。アーデルハイトさんや、監査局長のご遺族が決めること」


「わかってる」


「でも——友達かどうかは、わたしが決める」


ハンナが顔を上げた。


目が、真っ赤だ。


「まだ……友達でいてくれるの?」


「条件があるわ」


「何でも」


「定時に帰ること。もう、誰かに脅されて残業しないこと」


ハンナが泣き笑いの顔で頷いた。


「約束する」


「ならいいわ。——おかえり、ハンナ」


「……ただいま」


ハンナと並んで、夕暮れの街を歩いた。


「ねえ、イルメラ」


「何?」


「あなたが定時退勤を始めたとき、正直に言うと——迷惑だと思ったの」


「知ってるわ」


「え?」


「顔に出てたもの。『また余計な仕事が増える』って」


「……ごめん」


「いいのよ。あのときはわたしも、自分のことしか考えていなかったから」


「でも今は——」


「今は?」


「あなたが定時に帰ったおかげで、みんなが自分の仕事を覚えた。わたしも。交付金の通知文、もう一人で書けるようになったわよ」


「それはあなたの努力でしょう」


「きっかけをくれたのはあなたよ。——ありがとう、イルメラ」


不意に、ハンナがわたしの腕に自分の腕を絡めた。


十年間の同僚。裏切りと謝罪を経て、今また隣を歩いている。


関係は、元どおりにはならない。


でも、新しい形で繋がることはできる。


「ハンナ。明日の勅令発表、見に来なさいよ」


「いいの?」


「いいのよ。あなたも宮廷の一員でしょう」


「……うん。行く」


——侍従長は崩れた。レンツ局長の証言も進んでいる。だが、この国の予算を正しい形に戻す仕事は、まだ始まったばかりだ。

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