第28話 定時退勤が変えたもの
定時退勤が変えたもの。それは、わたしの働き方だけではなかった。
この宮廷そのものが、少しずつ姿を変え始めている。
わたしの出自が公になった日。
宮廷中が騒然とした。
王族の隠し子が、孤児院で育ち、十年間社畜令嬢として働かされていた——その事実は、瞬く間に宮廷を駆け巡り、街にまで広がった。
「イルメラさん。大丈夫ですか」
モニカが心配そうに近づいてきた。
事務局の中では、さまざまな視線がわたしに注がれている。好奇心、同情、畏敬、そして——少しの怯え。
「大丈夫よ。わたしは何も変わっていないから」
「でも、王族の血筋だなんて——」
「血筋がどうであれ、わたしの仕事は変わらない。今日も定時に帰ります」
その言葉に、モニカが少し笑った。
「イルメラさんらしい」
午前中、宮廷のあちこちで囁き声が聞こえた。
でも不思議と、嫌な気持ちにはならなかった。
十年間、「平民だから」と蔑まれてきた。
今度は「王族の血筋だから」と特別扱いされそうになっている。
どちらも、わたし自身を見ていない。
肩書きしか見ていない。
「イルメラさん」
廊下でノルベルトが待っていた。
「侍従長の件、進展がありました」
「切り札が無効化されたあとの反応は」
「予想どおり、完全に崩れました。取引材料を失った侍従長は、全面的な自供を始めています」
「よかった」
「あなたの決断のおかげです」
「わたしの決断ではありません。ゲオルク爺さんが教えてくれたんです。沈黙は美徳ではない、と」
ノルベルトが頷いた。
「ところで——あなたの出自が公になったことで、ひとつ変化がありました」
「何ですか」
「宮廷内で、定時退勤を希望する職員が急増しています」
「え?」
「『王族の血を引くイルメラさんが定時に帰っているのだから、わたしたちも帰っていいはずだ』と」
「……それは論理が飛躍していませんか」
「飛躍していますが、結果的に良い方向に動いています。昨日だけで、十七名の職員が定時退勤を実行したそうです」
「十七名」
「さらに、外交課長が残業削減の通達を出しました。あの頑固な外交課長が」
思わず笑ってしまった。
あの外交課長が。会議で「小娘に何がわかる」と言った、あの人が。
「きっかけは何だったんですか」
「外交課長の言葉を引用すると——『あの社畜令嬢が王族だったとなれば、もう平民だから残業させてよいという言い訳が使えない。ならば仕組みを変えるしかない』だそうです」
「……動機が不純ですけど」
「結果が正しければ、動機は問いません」
◇
午後五時。定時退勤。
門を出ると、いつもと違う光景が広がっていた。
わたしのあとに続いて、何人もの職員が門を出てくる。
モニカ。外交課のエマ。庶務課の若い事務官たち。
そして——ノルベルト。
「今日も定時ですね」
「もちろんです」
並んで歩く。
夕暮れの街は、いつもと同じように穏やかだ。
「ノルベルトさん」
「はい」
「怒る件、まだ有効ですからね」
「……覚えていましたか」
「十年分の記憶力を甘く見ないでください」
「甘く見てはいません。むしろ、恐れています」
「恐れなくていいです。ただし——次に約束を破ったら、残業させますよ」
「それだけは勘弁してください」
二人で笑った。
夕焼けの中で、影が並んでいる。
門の外で、見覚えのある顔を見つけた。
ハンナだ。
謹慎処分中のはずの彼女が、門の前に立っている。
目が合った瞬間、ハンナの顔がくしゃりと歪んだ。
「イルメラ……」
「ハンナ。どうしたの」
「謹慎が解けたの。情状酌量で——証言に協力したことが認められて」
「そう。よかった」
「よく……ないわよ。わたしは——」
「ハンナ」
わたしは、彼女の前に立った。
「あなたがやったことは許されない。でも、あなたが最後に正直に話してくれたから、たくさんの人が救われた。それも事実よ」
「……」
「許すかどうかは、わたしが決めることじゃない。アーデルハイトさんや、監査局長のご遺族が決めること」
「わかってる」
「でも——友達かどうかは、わたしが決める」
ハンナが顔を上げた。
目が、真っ赤だ。
「まだ……友達でいてくれるの?」
「条件があるわ」
「何でも」
「定時に帰ること。もう、誰かに脅されて残業しないこと」
ハンナが泣き笑いの顔で頷いた。
「約束する」
「ならいいわ。——おかえり、ハンナ」
「……ただいま」
ハンナと並んで、夕暮れの街を歩いた。
「ねえ、イルメラ」
「何?」
「あなたが定時退勤を始めたとき、正直に言うと——迷惑だと思ったの」
「知ってるわ」
「え?」
「顔に出てたもの。『また余計な仕事が増える』って」
「……ごめん」
「いいのよ。あのときはわたしも、自分のことしか考えていなかったから」
「でも今は——」
「今は?」
「あなたが定時に帰ったおかげで、みんなが自分の仕事を覚えた。わたしも。交付金の通知文、もう一人で書けるようになったわよ」
「それはあなたの努力でしょう」
「きっかけをくれたのはあなたよ。——ありがとう、イルメラ」
不意に、ハンナがわたしの腕に自分の腕を絡めた。
十年間の同僚。裏切りと謝罪を経て、今また隣を歩いている。
関係は、元どおりにはならない。
でも、新しい形で繋がることはできる。
「ハンナ。明日の勅令発表、見に来なさいよ」
「いいの?」
「いいのよ。あなたも宮廷の一員でしょう」
「……うん。行く」
——侍従長は崩れた。レンツ局長の証言も進んでいる。だが、この国の予算を正しい形に戻す仕事は、まだ始まったばかりだ。




