第26話「アーデルハイトの復帰」
アーデルハイトが薬務室に復帰したのは、毒殺未遂から十二日目のことだった。
まだ顔色は良くないが、目には光が戻っている。
「お帰り、アーデルハイトさん」
「ただいま。まだ本調子じゃないけど、じっとしていられなくて」
「無理しないでくださいね」
「あなたに言われたくないわ。十年間無理し続けた人に」
笑い合った。
この人と笑えることが、こんなにありがたいとは。
薬務室の整理を手伝いながら、近況を報告した。
レンツ局長の尋問。侍従長の拘束。そして——わたしの出自についての新情報。
「イルメラさんの出自……?」
「ベアーテさんが何かを知っているらしいんです。今日、午前中に面会します」
「ベアーテさんか……」
アーデルハイトの顔が曇った。
「わたし、あの人のことを恨んでいたの。宮廷の中にスパイがいて、わたしたちの動きが筒抜けだった。それがベアーテさんだと知ったとき——」
「恨んで当然です。あなたは毒を盛られた」
「でもね、ベアーテさんがいなければ、犯人の名前は突き止められなかったのも事実よ。あの人が持ってきた情報は、半分は本物だったんだから」
「半分は本物で、半分は誘導だった」
「ええ。でも本物の半分は、わたしたちの調査を実際に前に進めた」
アーデルハイトの言葉は、薬務官らしい冷静さがある。
毒と薬は紙一重——ベアーテもまた、そういう存在だったのかもしれない。
「ところで、イルメラさん。薬務室にも業務改善の波が来てるわよ」
「どういうこと?」
「若い薬務官たちが、わたしがいない間に自分たちで業務を回す仕組みを作り始めたの。あなたの事務局の改革に触発されて」
「本当ですか」
「『イルメラさんが定時退勤できるなら、薬務室もできるはず』って。いい影響よ」
定時退勤の波紋が、事務局の外にまで広がっている。
たったひとりの「帰ります」が、少しずつ、この宮廷を変えている。
「ところで、イルメラさん。面会の前に——」
「はい」
「覚悟はいい?」
「何の覚悟ですか」
「ベアーテさんの話を聞いたら、あなたの人生が変わるかもしれない。元に戻れないわよ」
「元に戻りたいと思ったことはありません。あの頃の生活に戻りたいなんて——毎晩残業して、上司に仕事を奪われて、婚約者にも顧みられなかった日々に?」
「それもそうね」
「わたしの人生は、定時退勤を始めた日からもう変わっています。今さら何を聞いても、驚きはするけど、崩れはしません」
アーデルハイトが、わたしの肩をぽんと叩いた。
「頼もしいわ。行ってらっしゃい」
「行ってきます」
薬務室を出て、監査局の面会室に向かう。
廊下を歩く足取りは、不思議と軽かった。
◇
午前十時。監査局の面会室。
ベアーテが、静かに椅子に座っていた。
拘束中でも身だしなみは整えている。
穏やかな目。文具店で初めて会ったときと、変わらない。
「いらっしゃい、イルメラさん」
「ベアーテさん。お元気そうで」
「元気ではないわよ。この歳で牢暮らしは堪えるわ」
ノルベルトが隣に座った。
記録の準備を整えている。
「ベアーテさん。単刀直入に聞きます」
「ええ。もう隠し事はしないわ」
「レンツ局長が言いました。わたしの出自を知っているのは、あなただと」
ベアーテが、ゆっくりと息を吸った。
長い沈黙のあと、口を開いた。
「二十年前のことよ。わたしがまだアンブロス公爵家の家令だった頃——」
「はい」
「公爵家に、ひとりの女性が匿われていたの。身分の高い方だった。名前は言えないけど——その方がお産みになったのが、あなたよ」
呼吸が止まった。
「わたしが……公爵家で生まれた」
「ええ。でも、あなたの存在は秘密にされた。お母様の身分では、子供の存在が知られれば——政治的な問題になるからよ」
「政治的な問題」
「あなたのお母様は——」
ベアーテが言葉を切った。
目が潤んでいる。
「王家の血を引く方よ。ヨアヒム殿下の伯母にあたるお方」
世界が、止まった。
——わたしは、王族の血を引いている。ヨアヒムの親戚。平民の孤児だと信じていたわたしの血筋に、王家の名前が刻まれていた。
面会室の空気が、凍りついたように静まった。
「王家の……」
声が出なかった。
隣のノルベルトが、静かにわたしの肩に手を置いた。温かい。その温もりだけが、現実と繋がっている。
「ベアーテさん。なぜ——なぜ今まで黙っていたのですか」
「あなたを守るためよ。王族の隠し子の存在が知られれば、政治の道具にされる。お母様は、それを何より恐れていた」
「お母様は、わたしのことを——」
「愛していたわ。手放すとき、一晩中泣いていた。でも、あなたを宮廷の争いに巻き込むくらいなら、平民として自由に生きてほしいと」
目の奥が、熱くなった。
知らなかった母が、わたしを愛していた。
手放すことが、あの人なりの愛だったのだ。
「ベアーテさん。お母様の名前を——教えてもらえますか」
「エレオノーラ。エレオノーラ・フォン・ヴェステンドルフ。王家の分家、ヴェステンドルフ家の末姫よ」
「ヴェステンドルフ……ヴェスト……」
「ええ。あなたの名字は、お母様の家名から取ったの。孤児院の院長に、こっそり頼んだわ。せめて名前だけでも、繋がりを残したくて」
涙がこぼれた。
止められなかった。
ノルベルトが、黙ってハンカチを差し出した。
藍色のハンカチ。監査局の制服と同じ色だ。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
涙を拭いて、深呼吸をする。
「ベアーテさん。もうひとつ聞かせてください。銀のペンダント——孤児院の記録に、没収されたとありました」
「ああ、あれね。お母様の形見よ。ヴェステンドルフ家の紋章が刻まれている」
「今もあるんですか」
「孤児院の保管庫にあるはずよ。わたしが手配すれば——いえ、もうわたしにはその力はないわね」
「わたしが取りに行きます。局長の権限で」
「局長?」
「明日、わたしは宮廷事務局の新局長に任命されます」
ベアーテが、大きく目を見開いた。
それから——声を立てずに笑った。
「お母様が聞いたら、泣いて喜ぶわね。自分の娘が、宮廷の局長になったなんて」
「泣くのはわたしだけで十分です」
「ほんとね。——おめでとう、イルメラさん」
「ありがとうございます。……ベアーテさんも、いつか出てきたら」
「出てきたら?」
「文具店を再開してください。わたし、あの店のインクが気に入ってたんです」
ベアーテの目が潤んだ。
今度は、わたしがハンカチを差し出す番だった。




