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婚約破棄された社畜令嬢、腹いせに定時退勤したら国が回らなくなりました  作者: 渚月(なづき)
第3章

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第26話「アーデルハイトの復帰」

アーデルハイトが薬務室に復帰したのは、毒殺未遂から十二日目のことだった。


まだ顔色は良くないが、目には光が戻っている。


「お帰り、アーデルハイトさん」


「ただいま。まだ本調子じゃないけど、じっとしていられなくて」


「無理しないでくださいね」


「あなたに言われたくないわ。十年間無理し続けた人に」


笑い合った。


この人と笑えることが、こんなにありがたいとは。


薬務室の整理を手伝いながら、近況を報告した。


レンツ局長の尋問。侍従長の拘束。そして——わたしの出自についての新情報。


「イルメラさんの出自……?」


「ベアーテさんが何かを知っているらしいんです。今日、午前中に面会します」


「ベアーテさんか……」


アーデルハイトの顔が曇った。


「わたし、あの人のことを恨んでいたの。宮廷の中にスパイがいて、わたしたちの動きが筒抜けだった。それがベアーテさんだと知ったとき——」


「恨んで当然です。あなたは毒を盛られた」


「でもね、ベアーテさんがいなければ、犯人の名前は突き止められなかったのも事実よ。あの人が持ってきた情報は、半分は本物だったんだから」


「半分は本物で、半分は誘導だった」


「ええ。でも本物の半分は、わたしたちの調査を実際に前に進めた」


アーデルハイトの言葉は、薬務官らしい冷静さがある。


毒と薬は紙一重——ベアーテもまた、そういう存在だったのかもしれない。


「ところで、イルメラさん。薬務室にも業務改善の波が来てるわよ」


「どういうこと?」


「若い薬務官たちが、わたしがいない間に自分たちで業務を回す仕組みを作り始めたの。あなたの事務局の改革に触発されて」


「本当ですか」


「『イルメラさんが定時退勤できるなら、薬務室もできるはず』って。いい影響よ」


定時退勤の波紋が、事務局の外にまで広がっている。


たったひとりの「帰ります」が、少しずつ、この宮廷を変えている。


「ところで、イルメラさん。面会の前に——」


「はい」


「覚悟はいい?」


「何の覚悟ですか」


「ベアーテさんの話を聞いたら、あなたの人生が変わるかもしれない。元に戻れないわよ」


「元に戻りたいと思ったことはありません。あの頃の生活に戻りたいなんて——毎晩残業して、上司に仕事を奪われて、婚約者にも顧みられなかった日々に?」


「それもそうね」


「わたしの人生は、定時退勤を始めた日からもう変わっています。今さら何を聞いても、驚きはするけど、崩れはしません」


アーデルハイトが、わたしの肩をぽんと叩いた。


「頼もしいわ。行ってらっしゃい」


「行ってきます」


薬務室を出て、監査局の面会室に向かう。


廊下を歩く足取りは、不思議と軽かった。





午前十時。監査局の面会室。


ベアーテが、静かに椅子に座っていた。


拘束中でも身だしなみは整えている。


穏やかな目。文具店で初めて会ったときと、変わらない。


「いらっしゃい、イルメラさん」


「ベアーテさん。お元気そうで」


「元気ではないわよ。この歳で牢暮らしは堪えるわ」


ノルベルトが隣に座った。


記録の準備を整えている。


「ベアーテさん。単刀直入に聞きます」


「ええ。もう隠し事はしないわ」


「レンツ局長が言いました。わたしの出自を知っているのは、あなただと」


ベアーテが、ゆっくりと息を吸った。


長い沈黙のあと、口を開いた。


「二十年前のことよ。わたしがまだアンブロス公爵家の家令だった頃——」


「はい」


「公爵家に、ひとりの女性が匿われていたの。身分の高い方だった。名前は言えないけど——その方がお産みになったのが、あなたよ」


呼吸が止まった。


「わたしが……公爵家で生まれた」


「ええ。でも、あなたの存在は秘密にされた。お母様の身分では、子供の存在が知られれば——政治的な問題になるからよ」


「政治的な問題」


「あなたのお母様は——」


ベアーテが言葉を切った。


目が潤んでいる。


「王家の血を引く方よ。ヨアヒム殿下の伯母にあたるお方」


世界が、止まった。


——わたしは、王族の血を引いている。ヨアヒムの親戚。平民の孤児だと信じていたわたしの血筋に、王家の名前が刻まれていた。


面会室の空気が、凍りついたように静まった。


「王家の……」


声が出なかった。


隣のノルベルトが、静かにわたしの肩に手を置いた。温かい。その温もりだけが、現実と繋がっている。


「ベアーテさん。なぜ——なぜ今まで黙っていたのですか」


「あなたを守るためよ。王族の隠し子の存在が知られれば、政治の道具にされる。お母様は、それを何より恐れていた」


「お母様は、わたしのことを——」


「愛していたわ。手放すとき、一晩中泣いていた。でも、あなたを宮廷の争いに巻き込むくらいなら、平民として自由に生きてほしいと」


目の奥が、熱くなった。


知らなかった母が、わたしを愛していた。


手放すことが、あの人なりの愛だったのだ。


「ベアーテさん。お母様の名前を——教えてもらえますか」


「エレオノーラ。エレオノーラ・フォン・ヴェステンドルフ。王家の分家、ヴェステンドルフ家の末姫よ」


「ヴェステンドルフ……ヴェスト……」


「ええ。あなたの名字は、お母様の家名から取ったの。孤児院の院長に、こっそり頼んだわ。せめて名前だけでも、繋がりを残したくて」


涙がこぼれた。


止められなかった。


ノルベルトが、黙ってハンカチを差し出した。


藍色のハンカチ。監査局の制服と同じ色だ。


「……ありがとうございます」


「どういたしまして」


涙を拭いて、深呼吸をする。


「ベアーテさん。もうひとつ聞かせてください。銀のペンダント——孤児院の記録に、没収されたとありました」


「ああ、あれね。お母様の形見よ。ヴェステンドルフ家の紋章が刻まれている」


「今もあるんですか」


「孤児院の保管庫にあるはずよ。わたしが手配すれば——いえ、もうわたしにはその力はないわね」


「わたしが取りに行きます。局長の権限で」


「局長?」


「明日、わたしは宮廷事務局の新局長に任命されます」


ベアーテが、大きく目を見開いた。


それから——声を立てずに笑った。


「お母様が聞いたら、泣いて喜ぶわね。自分の娘が、宮廷の局長になったなんて」


「泣くのはわたしだけで十分です」


「ほんとね。——おめでとう、イルメラさん」


「ありがとうございます。……ベアーテさんも、いつか出てきたら」


「出てきたら?」


「文具店を再開してください。わたし、あの店のインクが気に入ってたんです」


ベアーテの目が潤んだ。


今度は、わたしがハンカチを差し出す番だった。



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