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婚約破棄された社畜令嬢、腹いせに定時退勤したら国が回らなくなりました  作者: 渚月(なづき)
第3章

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第25話 グレーテの選択

グレーテ・アンブロス嬢は、父の逮捕後も宮廷に残っていた。


行き場がないのだ。アンブロス領は捜査の対象となり、実家には戻れない。ヨアヒムとの婚約は宙に浮いたまま。


ベアーテとの面会の前に、グレーテ嬢と会った。


中央市場の泉のそば。もう何度目だろう、この場所で。


「イルメラさん。父のこと——裁判はいつ始まるの」


「まだ調査中です。レンツ局長と侍従長の証言が食い違っていて、全容の解明に時間がかかっています」


「父は……牢に入るのかしら」


「正直に言います。公金横領の罪は重い。ただ、あなたの協力と内部告発が情状酌量の材料になる可能性はあります」


グレーテ嬢が俯いた。


銀の髪が風に揺れている。


「わたし、ヨアヒム殿下との婚約を解消しようと思うの」


「解消?」


「父の罪で成り立っていた婚約よ。不正の金で繋がった縁を、続けるわけにはいかない」


「それは——殿下にお伝えしたんですか」


「まだ。でも、先にあなたに話したかった」


「わたしに?」


グレーテ嬢がわたしを見た。


涙はない。泣き尽くしたあとの、静かな決意がある。


「あなたは、ヨアヒム殿下と七年間の婚約を壊された。わたしの父のせいで。その相手に黙って婚約を続けるのは——不誠実だわ」


「グレーテ嬢。あなたは十分に誠実です」


「ありがとう。でも、誠実であることと、楽であることは違うのね」


泉の水音が、しばらく二人の間を流れた。


「イルメラさん。ひとつ聞いていい?」


「何ですか」


「あの監査官さん——ノルベルトさんのこと。あなた、好きなんでしょう」


不意打ちだった。


咄嗟に否定しようとして、口が動かなかった。


「……業務上の信頼関係です」


「あら。ヨアヒム殿下と同じことを言うのね。殿下も『イルメラとは業務上の関係だった』って言ってたわよ」


「それは——」


「冗談よ。でも、あなたの顔を見ればわかるわ。あの人の名前が出ると、ほんの少しだけ目が柔らかくなる」


返す言葉がなかった。


泉の水音を聞きながら、グレーテ嬢の言葉を反芻する。


目が柔らかくなる、か。自分では気づかなかった。


「グレーテ嬢。ひとつ聞いてもいいですか」


「何?」


「あなたは、ヨアヒム殿下のことを——好きだったんですか」


グレーテ嬢が少し驚いた顔をした。


「……好きだったかと聞かれれば、わからない。父に言われるまま来ただけだから。でも——」


「でも?」


「殿下は優しい人だと思う。不器用で、臆病で、自分の意見を言えないけど——根は善い人だと」


「……わたしもそう思います」


「あら。元婚約者と現婚約者が、同じ評価なのね」


「元と元、ですね。もうすぐ」


「そうね。元と元」


二人で笑った。


不思議な連帯感だ。同じ男に翻弄された女同士の、妙な絆。


「イルメラさん。あなたは強いわね」


「強くないです。ただ、もう黙らないと決めただけ」


「それが強さだと思うわ。わたしも——もう黙らない」


グレーテ嬢の目に、決意の光がある。


この人も、変わり始めている。


「ねえ、イルメラさん。わたしたち、友達になれるかしら」


「友達?」


「変な話よね。わたしの父があなたの人生を壊して、わたしがあなたの婚約者を奪って——そんな関係で友達なんて」


「壊したのはお父上であって、あなたではありません。それに——婚約者を奪ったのではなく、押しつけられたのでしょう」


「……ええ。そうね」


「であれば、わたしたちの間に障壁はありません。友達になりましょう」


グレーテ嬢が、目を瞬かせた。


「あなたって……すごく合理的ね」


「社畜の癖です。感情より効率を優先する」


「それは嘘でしょう。あなた、十分感情的よ。ノルベルトさんの話になると特に」


「その件はもう終わりにしましょう」


「あら、まだ始まってもいないのに」


二人で笑った。


泉の水音が、穏やかに流れている。


わたしには、友達が増えた。


十年間、仕事しかなかった生活に、人が増えていく。


定時退勤を始めてから、わたしの世界は広がり続けている。





グレーテ嬢と別れたあと、宿舎でノルベルトからの手紙を受け取った。


「ベアーテ氏の面会、明日午前十時。監査局の面会室で。わたしも同席します。——何があっても、あなたの味方です。ノルベルト」


最後の一文を、二度読んだ。


あなたの味方です。


この人は、いつもこういう言い方をする。大げさではなく、静かに、でも確実に。


手紙を畳んで、枕の下に入れた。


ベアーテとの面会が、いよいよ迫っている。


わたしの空白の五年間が、どんな色で塗りつぶされるのか。


——だが、ベアーテが語った真実は、わたしの予想を遥かに超えるものだった。


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