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婚約破棄された社畜令嬢、腹いせに定時退勤したら国が回らなくなりました  作者: 渚月(なづき)
第3章

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第21話 平民の娘の血筋

第3章スタートです!

「イルメラ・ヴェストの出自について、お前たちは何も知らない」


レンツ局長が護送の途上で口にしたその一言が、わたしの足元を崩した。


決行の夜から三日が経っていた。


侍従長とアンブロス公爵は取調室に収監され、ベアーテは別室で拘束中。宮廷は嵐のあとの静けさの中にある。


ノルベルトが、その言葉を伝えてくれたのは、出仕前の早い時間だった。


「護送中の警備隊員が報告してきました。レンツ局長が繰り返しこの言葉を口にしている、と」


「わたしの出自……」


「意味がわかりますか」


「わかりません。わたしは平民の孤児です。王都の孤児院で育ち、十五歳で宮廷に奉公に出ました。それ以前の記憶はほとんどない」


「ほとんど?」


「五歳より前の記憶がないんです。孤児院に来たのが五歳のとき。それ以前のことは——何も」


ノルベルトの目が鋭くなった。


「五歳で孤児院に。それ以前の記録は」


「ないと聞いています。身元引受人もいなかった」


「それは——不自然ですね」


「不自然?」


「通常、孤児院に子供を預ける場合、親の名前か出身地の記録が残ります。それがまったくないというのは——」


「意図的に消された、ということですか」


沈黙が落ちた。


ノルベルトがわたしの顔を見ている。何か言いたげだが、言葉を選んでいる。


「イルメラさん。レンツ局長の尋問は明後日です。そこで、この件についても問い質します」


「わたしも同席したい」


「……危険です。局長はあなたを動揺させるために、この言葉を吐いている可能性がある」


「動揺していません」


「嘘ですね。手が震えています」


言われて、自分の右手を見た。


確かに、微かに震えている。


「……動揺はしています。でも、逃げるつもりはありません」


「わかりました。同席を許可します。ただし——」


「ただし?」


「何を聞いても、冷静でいてください。局長の狙いは、あなたの判断力を奪うことです」


「大丈夫です。十年間、毎日締め切りと戦ってきた女ですから。多少の揺さぶりでは壊れません」


「それに——もし本当にわたしの出自に何かがあるとしても、それでわたしの十年間が消えるわけではありません」


「十年間?」


「十年間、毎日七時に出仕して、書類を処理して、他人の仕事を引き受けて、残業して、それでも国を回してきた。その事実は、血筋では変わりません」


ノルベルトが、ほんの少し目を細めた。


「その通りです。——あなたの実績は、出自とは無関係に、この宮廷の記録に残っています」


「記録に残っていなくても、わたしの記憶に残っています」


「十年分の記憶ですね」


「ええ。十年分の、正確な記憶です」


少しだけ、肩の力が抜けた。


この人と話していると、不思議と地に足がつく。


ノルベルトが、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「頼もしい」


「お褒めにあずかり光栄です」





午後、事務局で通常業務をこなしながら、頭の片隅で考え続けていた。


わたしの出自。


五歳以前の空白。


レンツ局長が、なぜそれを知っているのか。


孤児院での生活は、決して楽ではなかった。


でも、読み書きと計算だけは誰よりも早く覚えた。院長が「この子は頭がいい」と驚いて、宮廷への奉公を推薦してくれた。


十五歳で宮廷に入り、事務局に配属されて、死に物狂いで働いた。


平民の、しかも孤児のわたしが生き残るには、能力で証明するしかなかった。


「イルメラさん、どうしたの。ぼんやりしてる」


モニカの声だ。


ふと、ハンナのことを思い出した。あの子は今、謹慎処分中だ。


「ごめんなさい。少し考え事をしていて」


「大丈夫ですか? 何か手伝えることがあれば——」


「ありがとう。大丈夫よ。……モニカ、ひとつ聞いていい?」


「はい」


「あなたは、自分の生まれを気にしたことある?」


モニカが首を傾げた。


「生まれ、ですか? わたしは南部の商人の娘ですけど——」


「商人の娘。ちゃんとわかっているのね」


「はい。でも、宮廷では平民出身って見下されることもあるから、あんまり言わないようにしてます」


「……そう」


わたしには、それすらない。


自分がどこから来たのか、誰の子なのか、何も知らない。


窓の外に、夕暮れの光が差している。


宮廷に復帰してからの毎日は忙しいが、充実している。


事務局の業務改善計画は着実に進んでいた。


モニカが各課のヒアリングを進め、業務の棚卸しが形になりつつある。


かつてわたしひとりが抱えていた仕事は、今は五人に分散された。


それでも回っている。いや、むしろ以前より効率が良い。


ひとりで全部やるより、五人で分けた方が早い。


当たり前のことだ。でも十年間、誰もそれをしなかった。


「イルメラさん。四半期報告の集計、終わりました」


モニカが書類を持ってきた。


「ありがとう。確認するわ。——ミスがないか、自分でも見直した?」


「はい。三回チェックしました」


「三回は多いわね。二回で十分よ」


「イルメラさんは何回チェックしてたんですか」


「一回。でもそれは十年の経験があるからで、最初は五回やってたわ」


モニカが笑った。


この子の笑顔を見ると、宮廷の未来が明るく感じる。


「イルメラさん。お昼、一緒にいかがですか」


モニカの誘いに、少し驚いた。


十年間、昼食を誰かと一緒に取った記憶がほとんどない。


「いいわね。行きましょう」


食堂で向かい合って座る。


モニカはスープを啜りながら、ぽつりと言った。


「イルメラさんの出自の噂、聞きました」


「……もう広まってるの」


「レンツ局長が護送中に何か言ったとか。イルメラさんは実は平民じゃないとか」


「まだ何もわかっていないわ。明後日、確認するつもり」


「わたし、イルメラさんが誰であっても関係ないです」


「え?」


「だって、わたしに仕事の仕方を教えてくれたのはイルメラさんでしょう。血筋がどうとか、そんなの関係ない。わたしにとっては、引き継ぎ資料を作ってくれた先輩です」


不意に、目頭が熱くなった。


「……ありがとう、モニカ」


「泣かないでください。食堂で泣くと噂になりますよ」


「泣いてないわよ。スープが熱いだけ」


「嘘が下手ですね。ノルベルトさんみたい」


「それだけは否定させて」


知らなくても生きてこられた。知らないことが当たり前だった。


でも今、レンツ局長がその空白に意味を与えようとしている。


——明後日。尋問の席で、すべてが明かされる。わたしの出自が、この不正とどう結びついているのか。



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