第20話 包囲網
第二章完結です!
包囲網は、静かに閉じていく。
獲物が気づいたときには、もう逃げ場がない。そういう狩りを、わたしは十年間の事務処理で学んだ。
決行の夜。
わたしは宮廷の東廊下で、壁のランプを消して息を殺していた。
心臓が痛いくらいに脈打っている。
となりにノルベルトがいる。彼の呼吸は静かだ。こんな状況でも乱れない。
「配置は」
ノルベルトが囁いた。
「ヨアヒム殿下が、金庫のある王族区画の扉の前。殿下の勅命で、区画の衛兵を別の持ち場に移しています」
「副局長は」
「宮廷の裏口を押さえています。国境警備隊の一個小隊が、外周を囲んでいる」
「ハンナの証言は」
「午後のうちに確保しました。レンツ局長の指示で臨時職員を手配した経緯、すべて記録済みです」
ハンナ。
今朝、あの子の泣き顔を見てから、まだ数時間しか経っていない。
脅されて利用されていた。
わたしと同じ構造——平民であることを盾に取られ、逆らえなくなる仕組み。レンツ局長は、その手口を何人にも使い、宮廷の中に蜘蛛の巣のような共犯関係を張り巡らせていた。
「ノルベルトさん」
「はい」
「ハンナを、できる限り守ってあげてください」
「……善処します。ただし——」
「ただし?」
「まずは今夜を乗り越えましょう」
そう言って、ノルベルトが暗闇の中で微かに微笑んだ。
見えたわけではない。声の温度で、わかった。
時計が、九時を打った。
「来ます」
東廊下の奥から、足音が近づいてくる。
三人分。ひとつは重く威厳のある歩調。もうひとつは軍靴のような硬い音。最後のひとつは——聞き覚えのある、柔らかな足音。
ランプの光が、三つの影を照らした。
先頭は宮廷侍従長。白髪の長身の男が、金庫の鍵束を手に提げている。
その右にアンブロス公爵。銀髪に青い目。グレーテ嬢と同じ面差しだが、こちらの目は冷えている。
そして——
「ベアーテさん……」
声が漏れた。漏れてはいけなかったのに。
ベアーテ・リンデン。
わたしの味方だった文具店の店主が、アンブロス公爵の半歩後ろに立っている。手には小さな手控えの冊子を持ち、まるで秘書のように控えている。
ノルベルトの手が、わたしの肩を押さえた。「まだ」という合図。
三人が金庫の前で立ち止まった。
「急げ。夜明けまでに処分しなければ」
侍従長が低い声で言い、鍵束を金庫に差し込んだ。
「公爵、焼却の手はずは」
「中庭に準備させてある。灰になれば、誰にも証明できん」
「ベアーテ、処分する文書の一覧は」
「ここにあります。全六十三通。すべてにレンツの筆跡が残っているものです」
——六十三通。
わたしが特定した偽造文書は七十通だった。つまり、七通は彼らの手の届かない場所にある。あるいは、存在を知らない。
金庫の扉が開いた。
侍従長が書類の束を引き出し始める。
「今です」
ノルベルトが立ち上がった。
わたしも続く。
「宮廷侍従長。その場で止まってください」
ノルベルトの声が、廊下に響いた。
冷たく、鋭く、一切の感情を排した——監査官の声。
侍従長が振り向いた。
アンブロス公爵が後ずさる。
ベアーテだけが、動かなかった。
わたしを見て、ゆっくりと瞬きをした。まるで、この瞬間を予感していたように。
「証拠隠滅の現行犯です。監査局の権限により、身柄を確保します」
「ば……馬鹿な。誰の許可で——」
「監査局副局長の決裁です。そして——」
ヨアヒムが、王族区画の扉を開けて現れた。
「俺の許可だ、侍従長」
侍従長の顔から、すべての色が消えた。
「殿……下……?」
「お前が俺を操っていたことは、すべてわかっている。イルメラとの婚約破棄を強いたこと。彼女を宮廷から排除しようとしたこと。ゲオルク・シュタイナーの死。監査局長の死。すべてだ」
「わたしは何も——レンツが勝手に——」
「レンツは確保済みだ。あいつの証言も取れている」
嘘だ。
レンツ局長はまだ護送中で、証言は取れていない。でも、侍従長はそれを知らない。
ヨアヒムの表情は完璧だった。
冷たく、揺るぎなく、王太子の威厳を纏っている。あの舞踏会の夜に婚約破棄を宣言したときと同じ——感情を殺した顔。
でも今度は、その仮面の下にあるものが違う。あのときは恐怖。今は、覚悟だ。
「侍従長。長年の忠勤には感謝している。だが——」
「お待ちください、殿下。わたしはこの国のために——」
「国のため?」
わたしの声が出た。出すつもりはなかったのに。
「国のため、という言葉で、どれだけの人が使い潰されてきたか。ゲオルク爺さんは三十年間この宮廷を支えて、誰にも看取られずに死にました。わたしは十年間、毎晩残業して、その残業がこの不正の煙幕に使われていたことも知らずに」
侍従長が、わたしを見た。
蔑むような目。平民の女ごときが、という目。十年間、何度も見てきた目だ。
「たかが事務官が——」
「その事務官が、あなたの七十通の偽造を一枚残らず見破りました」
侍従長の口が、閉じた。
「あなたたちが処分しようとしている六十三通は、すでに写しを取ってあります。そして——」
ノルベルトが引き継いだ。
「写しは三部。一部はわたし。一部はグレーテ・アンブロス嬢」
アンブロス公爵が、初めて声を出した。
「グレーテが……? あの子が、我々を裏切った……?」
「裏切ったのはあなたの方です、公爵」
わたしの声は、自分でも驚くほど静かだった。
「グレーテ嬢は最初から、匿名の手紙でわたしたちに手がかりを渡してくれていた。ゲオルク爺さんの死に疑問を呈した手紙。あれがすべての始まりでした」
アンブロス公爵の顔が崩れた。
娘に裏切られた男の顔。しかし、その痛みに同情する余裕はわたしにはなかった。
「そして三部目の写しは——」
「今朝、王都の中央記録院に提出済みです。国王直轄の記録機関であり、侍従長の権限では削除できません」
侍従長が、がくりと膝を折った。
終わりだ——そう思った瞬間。
ベアーテが動いた。
侍従長が落とした書類の束に手を伸ばし、懐から取り出した火打ち石をかざす。
「ベアーテさん!」
「ごめんなさいね、イルメラさん。写しがあっても、原本が灰になれば裁判での証拠力は半減する。——公爵家への最後のご奉公よ」
「やめて——」
ノルベルトがベアーテに飛びかかった。
火打ち石が弾かれ、廊下の石畳に火花が散る。書類には届かなかった。
ベアーテが、ノルベルトの腕の中で静かに力を抜いた。
抵抗しない。最初から、止められることはわかっていたのだろう。
「……お見事ね。氷の監査官」
「ベアーテ・リンデン。証拠隠滅未遂の容疑で、身柄を確保します」
「ええ。どうぞ」
ベアーテがわたしを見た。
穏やかな目。文具店で初めて会ったときと、同じ目。
「イルメラさん」
「……はい」
「あなたに嘘をついたことは謝るわ。でも、ひとつだけ本当のことを言わせて」
「何ですか」
「ペンはこの国で最も強い武器だ、という言葉。あれは本心よ。あなたがそれを証明した」
返事ができなかった。
喉の奥が、熱くなった。
◇
すべてが片付いたのは、深夜だった。
侍従長とアンブロス公爵は監査局の取調室へ。ベアーテは別室で拘束。金庫から取り出された原本六十三通は、すべて証拠として押収された。
宮廷の廊下で、ノルベルトと二人きりになった。
「定時、過ぎましたね」
「……ええ。今日だけは残業です」
「特別手当は出ますか」
「出ません」
「でしょうね」
二人で小さく笑った。
疲れ切っているのに、不思議と穏やかだった。
歩き出す。
深夜の廊下に、二人分の足音だけが響いている。
「ノルベルトさん」
「はい」
「ベアーテさんの正体に気づいていたのに、わたしに教えなかった件」
「……怒りますか」
「怒ります。でも、ひとつ聞かせてください」
「何でしょう」
「いつから疑っていたんですか」
「最初からです」
「最初から?」
「あなたが停職中にベアーテ氏と出会った、と報告を受けたとき。偶然にしてはタイミングが良すぎた。あなたが市場に座った瞬間を狙って接触してきた——それは、あなたの行動を監視している人間にしかできない」
「……わたしが停職中にベアーテ氏と出会った時点で」
「ええ。ただし確証がなかった。そして——教えればあなたの行動が変わる。ベアーテ氏が情報を流すルートを把握した上で、あえて泳がせた方が、侍従長の動きを予測できると判断しました」
「わたしを囮に使ったんですね」
「はい。それについては、心から謝罪します」
ノルベルトが立ち止まった。
わたしに向き直り、深く頭を下げた。
「約束を破りました。『次からは先に教える』と言ったのに」
「……頭を上げてください」
「いいえ。あなたの許可が出るまで——」
「上げてください、ノルベルトさん。あなたが頭を下げていると、わたしが怒りにくいんです」
ノルベルトが顔を上げた。
驚いたような、困ったような顔をしている。この人にしては珍しい、無防備な表情だ。
「怒ってはいます。でも——あなたの判断で、証拠は守られた。ゲオルク爺さんの副本も、ハンナの証言も、グレーテ嬢の協力も。全部、あなたが三手先を読んでいたから」
「三手先ではありません。あなたがいなければ、わたしの手は一つも成立しなかった」
「……言い訳が上手いですね」
「事実です」
廊下を歩く。
門が近づいてきた。
ノルベルトの手が、不意にわたしの手に触れた。
指先が、かすかに震えている。
わたしは——振り払わなかった。
握り返しもしなかった。ただ、そのままにした。
今はまだ、これでいい。
すべてが終わったときに、この手の温度の意味を考えよう。
門を出ると、夜空に星が瞬いていた。
「ノルベルトさん」
「はい」
「明日から、また忙しくなりますね」
「レンツ局長の護送と尋問。侍従長の取り調べ。アンブロス公爵の処遇。予算の正常化。人事の再編。事務局の業務改革——」
「全部、定時で終わらせましょう」
「……無理では」
「無理じゃありません。ひとりで抱え込まなければ」
ノルベルトが、ほんの少しだけ口角を上げた。
「そうですね。ひとりでは、ない」
星の下を歩く。
隣に、信頼できる人がいる。
敵は倒した。でも、まだ終わっていない。
レンツ局長がアンブロス領への逃亡の道中で何を企んでいたのか。侍従長が隠し持っている最後の切り札は何か。そして——ヨアヒムが語らなかった「もうひとつの真実」が何なのか。
でも今夜だけは、星を見上げていよう。
——第二章が終わる。社畜令嬢は、もう社畜ではない。だが、レンツ局長が護送の途上で口にした一言が、すべてを覆すことになる——「イルメラ・ヴェストの出自について、お前たちは何も知らない」と。
最後までお読みいただきありがとうございます。
第二章完結です。
もし、この物語を少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや★評価などの形で応援をいただけますと、大変励みになります!!




