第2話 定時退勤の代償
わたしが定時退勤した翌日、王宮が止まった。
正確には「止まりかけた」と言うべきだろうが、渦中にいた人間たちにとっては同じことだったらしい。
いつもどおり七時に出仕すると、事務局の空気が異様だった。
同僚のハンナが青い顔で駆け寄ってくる。
「イルメラ! 昨日、あなたが帰ったあと大変だったのよ!」
「何かありましたか」
「何かって……全部よ!」
ハンナが指を折って数え始める。
「まず交付金の通知文。あなたしか書式を知らなくて、三つの領から問い合わせが殺到。それから外交使節団の宿泊手配、備品管理の締め処理、四半期報告の集計……」
「通知文の書式は引き継ぎ資料に記載しています。宿泊手配は外交課、備品管理は庶務課の所管です」
「見たわよ、引き継ぎ資料! でも誰も読み解けなくて……そもそも、外交課の担当者は『いつもイルメラさんがやってくれるから手順を知らない』って」
わたしが十年かけて構築した業務手順は、確かに複雑だ。
だがそれは、わたしが好きで複雑にしたわけではない。
削減され続けた人員の穴を埋めるために、ひとりで回せる仕組みを作り上げた結果だ。
「申し訳ありません。わたしは本日も、自分の担当業務のみを処理いたします」
「イルメラ、お願い。せめて通知文だけでも——」
「それは外交課の仕事です、ハンナ」
ハンナの顔がくしゃりと歪んだ。
申し訳なさが胸をよぎったが、ここで折れたら何も変わらない。
そこへ、レンツ局長の怒鳴り声が響いた。
「イルメラ! こっちに来い!」
局長室に入ると、机の上が書類の海になっていた。
その半分以上が、昨日わたしが「本来の担当者」に戻した書類だ。
結局、誰も処理できず、局長のところに集まったのだろう。
「昨日の定時退勤とはどういうつもりだ。おかげで今朝から苦情が絶えん」
「規定に従ったまでです。宮廷事務官の勤務時刻は午前七時から午後五時。服務規程の第三条に明記されています」
「規定はそうだが、慣例として——」
「慣例で人は倒れます、局長」
言ってしまってから、少しだけ後悔した。
でも本音だった。
三日間の徹夜明けに婚約破棄された夜、わたしは自分の身体がどれほど限界だったか思い知ったのだ。
レンツ局長の顔がさらに赤くなる。
「わがままを言うな。国が——」
「国のため、ですか」
穏やかに、けれど曖昧にはせず、言い返す。
「わたしはこの十年間、その言葉を理由に、規定外の業務をすべて引き受けてまいりました」
「それは部署のためにだな——」
「残業、休日出勤、有給休暇の返上。そのすべてが局長の評価報告書では『部署全体の成果』として記載されています。わたし個人への評価には、一切反映されておりません」
空気が凍った。
レンツ局長の目が泳ぐ。
「それは……人事の判断であって——」
「ええ。ですから、わたしも規定の範囲で働くという判断をいたしました。何か問題がございますか」
沈黙。
局長は何も言えなかった。
規定に従って働くと宣言する部下を、規定違反で罰することはできない。
局長室を出ると、廊下で見知らぬ男とすれ違った。
深い藍色の外套に、銀の留め具。
宮廷監査局の制服だ。
背が高く、切れ長の目が冷たい印象を与える。
年齢はわたしと同じくらいか、少し上か。
一瞬、目が合った。
彼はわたしを見て、かすかに眉を上げた。まるで名前と顔を照合しているような、観察するような視線。
すれ違いざま、彼が口を開く。
「イルメラ・ヴェスト事務官ですね」
「……はい。どちら様でしょうか」
「宮廷監査局のノルベルト・ゲーアハルトです。少しお時間をいただけますか」
監査局。
宮廷の不正を調査する部署だ。事務官にとっては、あまり関わりたくない相手である。
「何のご用件でしょうか」
「あなたが過去十年間に処理した業務の件です。いくつか確認させていただきたいことがある」
心臓が、一拍だけ跳ねた。
不正を疑われているのか。
わたしが。
「……わかりました。ただし、本日の勤務時間内でお願いいたします」
「当然です。わたしも定時主義ですので」
意外な言葉に、思わず彼の顔を見た。
表情は変わらない。冗談なのか本気なのか、読めない人だ。
空いている会議室に入る。
ノルベルトは椅子に座ると、薄い冊子を取り出した。
「単刀直入に伺います。あなたの名前で提出された業務報告と、レンツ局長の名前で提出された業務報告に、重複する内容が多数見受けられます」
「……はい」
「これについてご説明いただけますか」
心臓が、今度は違う意味で跳ねた。
知っている人間がいたのだ。わたしの仕事が、上司に奪われていたことを。
「わたしが原案を作成し、局長が最終承認を行う過程で、名義が変更されることがあります」
「過程で、ですか」
ノルベルトがペンの先で冊子を叩いた。
「具体的に伺いましょう。昨年の南部灌漑事業の予算案。これは誰が起草しましたか」
「わたしです」
「しかし提出者はレンツ局長になっている」
「はい」
「あなたの認識では、それは正当な手続きですか」
ノルベルトの目が、まっすぐにわたしを射る。
試されている、と思った。
「正当とは思っておりません。ですが、これまで異議を申し立てたことはありません」
「なぜ」
一拍の沈黙のあと、正直に答えた。
「平民出身のわたしが、貴族出身の局長に逆らえば、職を失います。この宮廷に身寄りのないわたしにとって、それは致命的でした」
「過去形ですね」
「……はい。もう、失うものがありませんので」
婚約が破棄された今、わたしを宮廷に縛りつけるものは何もない。
それは恐ろしいことであると同時に、奇妙なほど自由なことでもあった。
ノルベルトが冊子を閉じる。
「ありがとうございます。本日はここまでで結構です」
「今後も聞き取りはありますか」
「おそらく。ですが、すべて勤務時間内に収めます」
立ち上がりかけたノルベルトが、ふと足を止めた。
「一つだけ。昨日から定時退勤を始めたと聞きました」
「ええ」
「良い判断です」
それだけ言って、彼は会議室を出ていった。
わたしは少しの間、空になった椅子を見つめていた。
良い判断。
十年間、誰にも言われなかった言葉だった。
会議室を出て、自分の席に戻る。
周囲の同僚たちが、ちらちらとこちらを見ている。監査局の人間と二人きりで話していたのだから、無理もない。
「イルメラ、大丈夫? 何か問題でも?」
ハンナが心配そうに近づいてきた。
「大丈夫よ。ちょっとした確認事項があっただけ」
「確認って……監査局よ? あそこが動くってことは、何かあるんでしょ」
「何もないわ。少なくとも、わたしには」
嘘ではない。わたしが不正を働いたわけではないのだから。
問題があるのは、わたしの上司の方だ。
「ねえ、イルメラ。昨日の婚約破棄のこと……本当に大丈夫なの?」
ハンナの声が、ひそめられた。
同僚たちに聞こえないようにしてくれている。
「大丈夫よ」
「嘘。目の下にすごい隈ができてる」
「それは三日間の徹夜のせい。婚約破棄のせいじゃない」
「……どっちも心配よ」
ハンナの目が、本気で潤んでいる。
この子は、わたしがこの宮廷で最初に仲良くなった同僚だ。入庁が同期で、右も左もわからないわたしに事務局の暗黙のルールを教えてくれた。
「ありがとう、ハンナ。でも本当に平気。今のわたしには、やるべきことがある」
「やるべきこと?」
「定時に帰ること」
ハンナが目を丸くして、それから小さく笑った。
「あなたらしいわ。うん、それでいいと思う」
午後は自分の担当業務に集中した。
定時退勤を前提にすると、一分一秒の使い方が変わる。無駄な確認作業を省き、手順を最短に組み直す。
やってみて気づいた。
わたしの仕事が遅かったのではない。余計な仕事が多すぎたのだ。
◇
午後五時。
今日も定時退勤する。
事務局を出ようとしたとき、廊下の向こうからグレーテ・アンブロス嬢が歩いてくるのが見えた。
ヨアヒムの新しい婚約者だ。
すれ違う瞬間、グレーテ嬢が足を止めた。
「あの……イルメラさん」
「はい」
「昨夜のこと……わたし、何も聞かされていなくて。突然だったから——」
その声には、演技とは思えない困惑があった。
彼女もまた、ヨアヒムの駒なのかもしれない。
「お気になさらず。殿下のご判断ですから」
「でも——」
「失礼いたします。定時ですので」
それだけ告げて、門を出た。
夕暮れの街を歩きながら、ノルベルトの言葉を反芻する。
業務報告の重複。名義の変更。
監査局が動いているということは、わたしが気づかなかった——あるいは気づかないふりをしていた何かが、この宮廷にあるのかもしれない。
宿舎の窓から夕焼けを眺める。
二日目の夕焼けは、昨日より少しだけ赤い気がした。
——明日、監査局から呼び出しが来るかもしれない。わたしの十年間の仕事が、今度は誰かを裁く証拠になるとしたら——それは、喜ぶべきことなのだろうか。




