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婚約破棄された社畜令嬢、腹いせに定時退勤したら国が回らなくなりました  作者: 渚月(なづき)
第2章

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第19話 裏切り者の名前

裏切り者の名前を知る瞬間は、いつも静かだ。


嵐のように心が騒ぐのは、その少し後のことだ。


決行の前夜。ベアーテの文具店で、最終的な打ち合わせをしていた。


「明日の夜、すべてが動きます。正門前で待機していてほしいんです。もし、わたしたちが出てこなかったら——」


「街の人間に知らせる。大騒ぎにして、宮廷が隠蔽できないようにする」


「さすが、話が早い」


ベアーテが穏やかに微笑んだ。


「イルメラさん。ひとつ聞いてもいい?」


「はい」


「あなたの同僚——ハンナさんのことだけど」


心臓が不意に跳ねた。ベアーテの目が、いつもと違う光を帯びている。


「ハンナが何か」


「厨房のシフト表を調べてくれたのよね。その記録と、わたしが調べた納品記録を突き合わせてみたら——」


ベアーテが一枚の紙を差し出した。


「臨時職員が厨房に入った日は、レンツ局長が手配したことになってる。でも実際に人事手続きを処理したのは、事務局の別の人間よ」


「別の人間?」


「ハンナ・メッシュナーさん。あなたの同僚の名前が、手続き書類に残ってたわ」


世界が、ぐらりと揺れた。


「……嘘でしょう」


「書類は嘘をつかない」


ハンナ。入庁同期で、わたしの最初の友人。停職中も連絡をくれて、アーデルハイトの危機を知らせてくれた。


そのハンナが、臨時職員の手続きを処理していた。


思い返す。ハンナはいつも、わたしのそばにいた。レンツ局長が減俸処分の申請を出したこと。局長が長期休暇を申請したこと。アーデルハイトが倒れたこと。すべて、ハンナ経由だ。


味方として。心配してくれる同僚として。


でも——もし、ハンナがレンツ局長の側にいたとしたら。わたしの動きを監視し、報告していたとしたら。


「確証はまだありません。だから確認するの。明日の夜の前に」


翌日の午前。決行当日。事務局でハンナと向かい合った。


「ハンナ。少し話があるの」


「何? 今日は忙しいんだけど」


「臨時の調理補助のこと。人事手続きを処理したのは、あなたよね」


ハンナの顔から一瞬で血の気が引いた。すぐに笑顔を作ったが、遅かった。


「……何のこと?」


「ハンナ。嘘はわたしには通じないわ。十年間、あなたの表情を見てきたもの」


ハンナの唇が震えた。


「イルメラ……わたし——」


「説明して。なぜレンツ局長に協力したの」


「……脅されたのよ」


「脅された?」


「三年前。わたしが書類の処理で小さなミスをしたとき、レンツ局長に呼び出されたの。『ミスを見逃してやる代わりに、時々頼み事を聞け』って」


「最初は些細なこと……」


「そう。書類を届けるとか。でもだんだん——」


「エスカレートした」


「ええ。臨時職員の手続きを頼まれたとき、断ろうとした。でも局長が言ったの。『お前の過去のミスを全部暴露して免職にする。平民のお前に再就職先はないぞ』って」


わたしと同じだ。平民であることを盾に取られ、逆らえなくなる。レンツ局長は同じ手口を何人にも使っていた。


「アーデルハイトさんへの毒は——」


「知らなかった! あの臨時職員が何をするかなんて、聞かされてなかった!」


「監査局長のことも?」


「知らなかった。知ってたら——止めたかった」


十年間の付き合いで、わたしにはわかる。


ハンナは本当のことを言っている。脅されて利用された。加害者であると同時に、被害者だ。


「ハンナ。これからノルベルト監査官に全部話してもらいます」


「……捕まるの?」


「自発的に証言すれば、情状酌量の余地がある。脅迫されていたことが証明できれば」


「イルメラ……ごめんなさい」


「謝るのはわたしにじゃない。アーデルハイトさんと、亡くなった監査局長に」


ハンナが声を殺して泣いた。


わたしの手は震えていた。怒りと悲しみと、ハンナを救えなかった後悔。


ハンナを連れて、監査局に向かった。


廊下を歩く間、ハンナは一言も話さなかった。


「ノルベルトさん。ハンナが自発的に証言します」


ノルベルトが取調室の扉を開けた。


ハンナを見る目は厳しいが、残酷ではなかった。


「ハンナ・メッシュナーさん。あなたの証言は、レンツ局長の犯行を立証する重要な証拠になります」


「……はい」


「脅迫されていた経緯も含めて、すべて記録します。あなた自身の処遇については、証言の内容によって判断されます」


「わかっています」


ハンナがわたしを振り返った。


目が赤い。でも、もう泣いてはいなかった。


「イルメラ。わたし、全部話す。レンツ局長にされたことも、わたしがやったことも」


「ええ。そうしてください」


「あと——ひとつだけ」


「何?」


「あなたの友達でいさせてくれて、ありがとう」


その言葉に、返事ができなかった。


扉が閉まるまで、立ち尽くしていた。


しばらくして、取調室の外に出てきたノルベルトが言った。


「ハンナさんの証言で、重要な事実が判明しました」


「何ですか」


「レンツ局長は、ハンナさんに臨時職員の手続きを指示する際、『侍従長からの依頼だ』と言ったそうです」


「侍従長からの——」


「つまり、レンツ局長は自分の判断ではなく、侍従長の指示で動いていた可能性がある。少なくとも、局長はそう主張していた」


「侍従長が直接レンツ局長に指示を出していた。それなら——」


「署名の偽造も、侍従長が黙認していたのではなく、侍従長が指示していた可能性が出てきます」


構図がまた変わった。


レンツ局長は実行犯。だが指示者は侍従長。


「今夜の作戦で、侍従長を現行犯で押さえれば——」


「すべてが繋がります。ハンナさんの証言、偽造文書の物的証拠、そして現行犯。三つ揃えば、覆しようがない」


「ノルベルトさん」


「はい」


「今夜——必ず、うまくいきますね」


「うまくいかせます。あなたと一緒なら」


その声の温度に、胸が詰まった。


でも今は、感傷に浸っている場合ではない。


日が暮れる。決戦の夜が来る。


宿舎に戻り、身支度を整えた。


動きやすい服に着替え、ペンとインクと白紙を鞄に入れる。


金庫から取り出された文書を、その場で真贋判定しなければならない。


偽造文書と原本の区別がつくのは、わたしだけだ。


窓の外に目をやった。


月が出ている。薄い雲がかかって、明るさが不安定に揺れている。


今夜、すべてが決まる。


ゲオルク爺さん。監査局長。アーデルハイト。ハンナ。


この宮廷で犠牲になった人たちの分まで、決着をつける。


ドアが叩かれた。


「イルメラさん。時間です」


ノルベルトの声だ。


扉を開けると、藍色の外套の男が立っていた。表情はいつもの無表情。でも、目の奥に炎がある。


「行きましょう」


「ええ」


二人で夜の宮廷に向かう。


並んで歩く足音が、石畳に静かに響いた。


——裏切り者は最も身近にいた。だがハンナの証言は、今夜の決戦で予想外の切り札になる。


ノルベルトが静かに言った。


「ハンナさんの証言は、今夜の作戦の切り札になります。レンツ局長の指示系統を証明できれば、侍従長への追及材料になる」


「……ええ。ハンナの覚悟を、無駄にしないようにしましょう」


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