第17話 社畜令嬢、定時で国を救う
社畜令嬢が定時で国を救う。それは冗談のように聞こえるかもしれない。
でも、わたしは大真面目だった。
レンツ局長が不在の事務局は、相変わらず混乱していた。副局長が臨時で預かっているが、判断力がない。
「イルメラさん、この予算申請の承認は——」
「副局長にお願いしてください。局長代行の権限です」
「でも副局長は『わからない』って——」
「わからないなら、学んでください。わたしは他人の仕事を引き受けるのをやめました」
厳しい言い方だとわかっている。
でも、ここで折れたら何も変わらない。
モニカが助けに入ってくれた。
「副局長、わたしがお手伝いします。イルメラさんの引き継ぎ資料に手順が書いてあるので」
「モニカさん、ありがとう」
「いえ。イルメラさんに教わりました。やり方を伝えるのが本当の仕事だって」
成長している。この子は、わたしが教えたことを、ちゃんと吸収してくれている。
午前中の業務を片付けながら、頭の片隅では調査のことを考える。
レンツ局長の確保が近い。国境警備隊がアンブロス領の手前で包囲に入っている。
だが、侍従長がまだ宮廷にいる。犯人の口が割れない以上、侍従長を直接追い詰める証拠が不足している。
午後、ノルベルトから緊急の伝令。
午前中は事務局の日常業務に集中した。
レンツ局長がいない事務局は混乱していたが、その混乱こそが「ひとりに依存した組織の脆さ」を証明している。
「イルメラさん、四半期報告の書式がわからないのですが——」
「書庫の棚の右から三番目、青い表紙のファイルに書式が入っています」
「え、そんなところに——」
「ゲオルク爺さんが整理してくれた場所です。探す前に、棚のラベルを読んでくださいね」
同僚たちが少しずつ、自分の足で歩き始めている。
ぎこちないけれど、それでいい。わたしがいなくても回る組織にならなければ、また同じことが起きる。
「イルメラさん。あの……ゲオルク爺さんのことなんですが」
モニカが声を落として近づいてきた。
「ゲオルク爺さんの保管室、今は誰が管理しているんですか」
「臨時で庶務課の職員が入っています。でも、ゲオルク爺さんの分類法を理解している人はまだいない」
「わたし、保管室の整理を手伝いたいです。ゲオルク爺さんの仕事を、誰かが引き継がないと」
胸が、じんと熱くなった。
ゲオルク爺さん。あなたの仕事を継ごうとする子がいますよ。
「ありがとう、モニカ。でも、まずは自分の担当業務を完璧にしてからね」
「はい!」
モニカが走っていく。
この子は、わたしの十年前よりもずっと素直で、ずっと強い。
昼食を食堂で取っていると、見知らぬ若い事務官が近づいてきた。
「あの……イルメラさんですか?」
「はい」
「わたし、庶務課のエマと申します。あの——定時退勤のこと、本当にすごいと思ってて」
「すごくはないわよ。規定どおりに帰っているだけ」
「でも、それを最初にやるのが一番難しいじゃないですか。わたしも毎日残業してるんですけど、帰りたいって言えなくて——」
「帰っていいのよ。規定で認められていることなんだから」
「でも、周りが——」
「周りが帰らないのは、周りの判断。あなたが帰るのは、あなたの判断」
エマの目が少し潤んだ。
「……ありがとうございます。今日から、定時に帰ってみます」
「えらい。応援してるわ」
エマが去ったあと、食堂の隅で何人かの事務官がこちらを見ているのに気づいた。
好奇心か、反感か。あるいは——羨望か。
社畜令嬢の定時退勤は、少しずつ波紋を広げている。
それがいい方向に向かうことを、祈るばかりだ。
「レンツ局長を確保しました。宿場町で投降。抵抗なし。明後日には王都に護送されます」
安堵で椅子の背にもたれた。
「よかった……」
「護送後、すぐに尋問に入ります。局長の証言が取れれば——」
「侍従長の関与が確定する」
「この件の全体像がようやく見えてきます」
「ノルベルトさん。監査局長のこと——仇を取れそうですね」
ノルベルトが少し間を空けた。
「仇という言葉は使いたくありません。わたしたちがやっているのは復讐ではなく正義の執行です」
「そうですね。失礼しました」
「いえ——気持ちは、同じです」
午後五時。定時退勤。
「レンツ局長を確保しました」
「本当ですか」
「宿場町で投降。抵抗はありませんでした。明後日には王都に護送されます」
「よかった……」
安堵で椅子の背にもたれた。
「侍従長の関与が確定する。そしてアンブロス公爵家への資金の流れも」
「この件の全体像が、ようやく見えてきます」
「ノルベルトさん。局長の仇を取れそうですね」
ノルベルトが少し間を空けた。
「仇という言葉は使いたくありません。わたしたちがやっているのは、復讐ではなく正義の執行です」
「そうですね。失礼しました」
午後五時。定時退勤。
門を出ると、夕焼けの中にグレーテ嬢の姿が見えた。
わたしの足が、一瞬止まった。
グレーテ嬢は侍女も連れず、質素な外套を纏ってひとりで立っている。
匿名の手紙の差出人。
ゲオルク爺さんの死に疑問を呈してくれた、わたしたちの見えない味方。
「イルメラさん。お話があるの」
その声が震えていた。
目の縁が赤い。泣いていたのだろう。
「ここでは人目がある。場所を変えましょう」
「中央市場の泉のそば——あの場所でいい?」
「ええ。ノルベルトさんにも連絡を入れます」
市場への道すがら、グレーテ嬢はぽつりぽつりと話し始めた。
「レンツ局長が捕まったことは、父にも伝わったわ」
「お父上の反応は」
「激昂していた。でも——怯えてもいた。次は自分だとわかっている」
「侍従長は」
「今朝、父と密会していたわ。二人で何かを企んでいる」
歩きながら、グレーテ嬢の横顔を見た。
この人は、父親を売ろうとしている。それがどれほどの苦痛か、想像もつかない。
「グレーテ嬢。無理をしなくていいんですよ」
「無理じゃないの。——もう決めたの。黙っていたら、わたしも同罪だから」
その言葉に、ゲオルク爺さんの遺言が重なった。
声を上げることの大切さ。沈黙は美徳ではない。
——レンツ局長は捕まった。だが侍従長が先手を打って動き出した。グレーテ嬢が持つ情報が、次の一手を左右する。門の前で、こちらを待っている。
その声が震えていた。
——レンツ局長は捕まった。だが、侍従長が先手を打って動き出した。そしてグレーテ嬢が持つ情報が、次の一手を左右する。




