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婚約破棄された社畜令嬢、腹いせに定時退勤したら国が回らなくなりました  作者: 渚月(なづき)
第2章

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第16話 氷の監査官が怒るとき

氷の監査官が怒るのを見たことがある人間は、この宮廷にほとんどいない。


わたしは、その数少ないひとりになった。


臨時の調理補助——三年前に事務局を解雇された元職員。ノルベルトにその名を告げたとき、彼の目が凍りついたように冷たくなった。


「身柄を確保します。今すぐ」


「監査局の権限で?」


「局長が亡くなった以上、指揮権は副局長に移ります。すでに状況は報告済みです」


「副局長は信頼できますか」


「局長が信頼していた人物です。今はそれを信じます」


ノルベルトが席を立った。その背中に、いつもの冷静さの下に押し込めた炎が見える。


「イルメラさん。あなたは事務局で通常業務を続けてください」


「わたしも行きます」


「いいえ。犯人がまだ宮廷内にいる以上、あなたが監査局に頻繁に出入りするのは危険です」


「でも——」


「お願いです」


ノルベルトが振り返った。その目に、初めて見る種類の感情があった。恐れだ。わたしを失うことへの。


「……わかりました。事務局にいます」


「ありがとうございます」


事務局に戻ると、ハンナが近づいてきた。


「イルメラ、大丈夫? 顔色が悪いわよ」


「大丈夫。少し疲れただけ」


「無理しないでね。あなたはもう、ひとりで全部抱え込まなくていいのよ」


ハンナの言葉が胸に沁みた。この子は、十年間の同僚だ。わたしの味方だ。


「ありがとう、ハンナ。——ひとつ、お願いがあるの」


「何?」


「厨房のシフト表を過去一ヶ月分確認してほしい。臨時職員の出勤記録が残っているはず」


「何のために?」


「犯人の行動パターンを追うため。いつ、どのタイミングで厨房にいたかがわかれば、毒を盛った機会が特定できる」


「わかった。任せて」


ハンナが走っていった。頼もしい背中だ。


ハンナが去ったあと、机に向かって厨房の管理台帳を記憶から再現し始めた。


わたしがこの台帳の書式を設計したのは五年前だ。


食材の納入業者、数量、調理担当者のシフト、特別食の手配記録。すべてが一覧できるようにした。


当時は「丁寧すぎる」と笑われた。


でもこの丁寧さが、今になって犯人を追い詰める武器になる。


臨時職員が入った日。


調理を担当した時間帯。


その日に出された茶の行き先。


すべて、台帳を辿れば特定できる。


「イルメラさん。また残業するつもり?」


モニカが心配そうに声をかけてきた。


「大丈夫。定時までに終わらせるわ」


「手伝えることがあったら言ってください」


「ありがとう。でもこれは、わたしの記憶でしかできない仕事なの」


ペンを走らせる。


十年間で積み上げた記憶が、一行ずつ証拠に変わっていく。


午後の作業を終えて、厨房の管理記録の再現メモを完成させた。


臨時職員がゲオルク爺さんの保管室に茶を届けた日。


アーデルハイトの薬務室に差し入れが届いた日。


そして監査局長の自室に茶が届けられた日。


三つの日付を並べると、すべて臨時職員の出勤日と一致する。


「ノルベルトさん。記録が完成しました」


「見せてください」


ノルベルトがメモを受け取り、目を通す。その目が次第に鋭くなっていく。


「完璧です。日付、時間帯、届け先——すべて一致している。これだけの証拠があれば、犯人の行動を時系列で立証できます」


「ゲオルク爺さんへの毒殺も、これで証明できる」


「ええ。三件の毒殺——未遂を含めて——が、すべて同一犯の手によるものだと」


「あとは、犯人の身柄を確保するだけですね」


「今から動きます。副局長に報告して、拘束の許可を取ります」


ノルベルトが立ち上がった。


その背中を見送りながら、わたしは小さく息を吐いた。


ゲオルク爺さん。もうすぐです。


午後、ノルベルトから伝令が来た。


「犯人の身柄を確保。厨房で拘束。抵抗はなかった」


短い報告文。


でもその一行に、どれだけの覚悟が込められていたか。


同時に、もうひとつの報告。


「国境警備隊からの連絡。レンツ局長の足取りを確認。アンブロス領の国境手前、中継地の宿場町にいる。まだアンブロス領には入っていない」


「まだ間に合う——」


夕方、監査局の取調室の前でノルベルトと合流した。


「犯人は自白しましたか」


「茶に毒を混ぜたことは認めています。ただし指示者については口を割りません。『言えば殺される』と」


「物的証拠で攻めましょう。毒物の入手ルートを辿れば、指示者に繋がる」


「ハンナさんが正式に取り寄せた公式のシフト表と、わたしの記憶から再現した記録を照合した結果。犯人が厨房にいた日は、すべてレンツ局長が事務局にいた日と一致しています」


「局長が直接指示を出していた証拠ですね」


「ええ。——イルメラさん、局長の分まで最後までやり遂げます」


「一緒に」


「——ええ。一緒に」


待っている間、わたしはもうひとつの仕事をしていた。


事務局の業務改善計画だ。


レンツ局長がいなくなった事務局を、どう立て直すか。


ひとりに依存しない、健全な組織に作り替えるための設計図。


業務の棚卸し。担当者の明確化。引き継ぎ資料の標準化。そして——定時退勤を前提とした業務量の設定。


かつてのわたしは、この宮廷の歯車だった。


壊れるまで回り続ける、替えの利かない歯車。


でも、歯車がひとつしかない機械は、その歯車が止まれば全部止まる。


健全な組織には、複数の歯車が必要だ。互いに支え合い、誰かが休んでも回り続ける仕組みが。


「イルメラさん。何を書いてるの?」


モニカが覗き込んだ。


「事務局の業務改善計画よ。レンツ局長が戻らない前提で、組織を作り直すの」


「わたしにも手伝えること、ありますか?」


「もちろん。各課の業務量を調査して、一覧にまとめてくれる?」


「はい!」


モニカが走っていく。


この子がいれば、事務局の未来は明るい。


短い報告文。でもその一行に、どれだけの覚悟が込められていたか。


同時に、もうひとつの報告。


「まだ間に合う——」





夕方。監査局の取調室の前で、ノルベルトと合流した。


「犯人は自白しましたか」


「一部。茶に毒を混ぜたことは認めています」


「指示者は」


「口を割りません。『言えば殺される』と」


「レンツ局長の指示ですか」


「おそらく。しかし証言が取れなければ——」


「物的証拠で攻めましょう。毒物の入手ルートを辿れば指示者に繋がるはずです」


「もうひとつ。ハンナさんが確認してくれたシフト表を見ました」


「何かわかりましたか」


「犯人が厨房に入った日は、すべてレンツ局長が事務局にいた日と一致しています。局長が直接指示を出していた証拠です」


「素晴らしい。ハンナに感謝しないと」


ノルベルトの目に、ようやく光が戻った。


「イルメラさん。局長の分まで、この件を最後までやり遂げます」


「一緒に」


「——ええ。一緒に」


廊下を歩く。二人の影が並んでいる。


午後五時を過ぎていた。今日も残業はしない。ただし、帰り道で考えることは山ほどある。


——レンツ局長の確保が目前に迫っている。だが、侍従長が先手を打って動き出した。


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