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婚約破棄された社畜令嬢、腹いせに定時退勤したら国が回らなくなりました  作者: 渚月(なづき)
第2章

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第14話 逃げる者、追う者

逃げる者には、逃げる理由がある。追う者には、追うだけの覚悟がいる。


レンツ局長の逃亡が判明してから二日。ヨアヒムへの手紙は出した。返事を待つ間にも、状況は動いている。わたしは二つの戦線で同時に動いていた。


ひとつは、ヨアヒムとの連携。もうひとつは、宮廷内部の証拠固め。


ヨアヒムからの返事は翌日には届いた。


「勅命を出す。レンツ局長の身柄を確保するため、国境警備隊に捜索を命じた」


短い書簡だが、王太子の印が押してある。


「ヨアヒム殿下、動いてくれましたね」


監査局の会議室で、ノルベルトに書簡を見せた。


「予想より早い動きです」


「信用できますか」


「書簡自体は本物です。王太子の印を偽造するのは、さすがのレンツ局長でも難しい」


「そうではなく——殿下の意図を信用できますか、と聞いています」


ノルベルトがペンを置いた。いつもより長い間を空けて、口を開く。


「……わたしは、あなたの判断を信じます」


「わたしの判断?」


「あなたがヨアヒム殿下と話し、協力を受け入れると決めた。その判断を」


その言葉の重みが、胸に沁みた。


「ただし、王太子の周囲は油断できません。侍従長がまだ宮廷にいる以上——」


「侍従長は、レンツ局長の偽造に気づいていたのでしょうか」


「二つの可能性があります。本当に知らなかった——レンツ局長に名義を利用されていただけ。あるいは、知っていて黙認、もしくは共犯だった」


「どちらにしても、泳がせておくのは危険ですね」


「ええ。レンツ局長の身柄確保が最優先です。局長の証言が取れれば、侍従長の関与が確定する」


そのとき、ハンナが会議室に駆け込んできた。顔が青い。


「イルメラ! 大変よ!」


「どうしたの、ハンナ」


「アーデルハイトさんが——薬務室で倒れたの!」


椅子を蹴って立ち上がった。


「倒れた? どういうこと?」


「わからない。突然、昼食のあとに意識を失って——」


ノルベルトと目が合った。同じことを考えている。アーデルハイトはわたしたちの調査に協力していた。もし、それが敵に知られていたら——


「行きましょう」


薬務室に駆け込むと、アーデルハイトが簡易寝台に横たわっていた。


若い薬務官が懸命に看護している。


アーデルハイトの呼吸は浅く、額に脂汗が浮いていた。


「先ほどまで意識が朦朧としていましたが、今は落ち着いています」


若い薬務官が報告する。声が震えている。上司の急変に動揺しているのだろう。


「アーデルハイトさん、わたしです。イルメラです」


「イルメラ……さん……」


かすれた声。だが目に力がある。この人は強い。顔が蒼白で、額に汗が浮いている。


「アーデルハイトさん!」


「イルメラ……さん……」


「何があったの」


「昼食の……お茶を飲んだあとから、急に……胸が」


「お茶? 誰が淹れたの」


「知らない人が……薬務室に届けてくれた。差し入れだと……」


ノルベルトがすでに動いていた。アーデルハイトの机に残された茶器を、布で慎重に包んでいる。


「この茶を分析します。毒物の可能性がある」


ゲオルク爺さんのことが頭をよぎった。心臓発作で亡くなったとされた老人。薬務室で必要な薬が足りなかった、あの日。


「アーデルハイトさん。あなたなら、この症状の原因がわかりますか」


アーデルハイトが、薬務官としての目をした。苦しそうだが、意識ははっきりしている。


「……トリカブトの一種。微量なら心臓に負担をかける。大量なら——致死」


「ゲオルク爺さんと同じ手口……」


「……かもしれない。わたしの場合は微量だった。だから……まだ息がある」


「助かるのね?」


「自分で解毒処置を指示できるから……大丈夫。でも——」


アーデルハイトがわたしの手を掴んだ。冷たい指だが、力は強い。


「次は……もっと大胆に来るわ。気をつけて、イルメラさん」


「あなたも。——ノルベルトさん、警護の手配を」


「すでに連絡しています。今日から薬務室に監査局の人間を配置します」


アーデルハイトの手を握り返した。


「大丈夫。わたしたちが守ります」


「……ごめんなさい。足手まといに——」


「何を言っているの。あなたがいなかったら、ここまで来られなかったのよ」


アーデルハイトが薄く微笑んだ。


「イルメラさん。ひとつだけ、薬務官として報告させて」


「何?」


「この毒の配合……素人の仕事じゃないわ。薬草の知識がある人間が調合している」


「薬草の知識?」


「トリカブトは、そのまま使うと即座に症状が出る。でもわたしに使われたものは、効果が遅延するように調整されていた。食後数時間で発症するように」


「つまり、犯人を特定しにくくする工夫がされていた」


「ええ。そしてもうひとつ。ゲオルク爺さんに使われたものも、おそらく同じ調合よ。心臓発作に見せかけるために、微量を長期間——」


「長期間?」


「数日間にわたって、少しずつ。茶に混ぜるなら、毎日飲ませれば——」


わたしの血が凍った。


ゲオルク爺さんは、「ここ数日、保管室の整理を夜通しやっていた」と言われていた。


でも本当は——体調が悪くなっていたのに、無理をして働いていたのかもしれない。


「ノルベルトさん。ゲオルク爺さんの最後の数日間、誰が保管室に出入りしていたか調べられますか」


「入退室の記録があれば。ただ、保管室は鍵の管理がゲオルク氏一人だったので——」


「記録はないかもしれない。でも、茶を届けた人間は特定できるはず」


「厨房の記録ですね。——イルメラさん、それはあなたの得意分野だ」


「ええ。十年間の記憶を辿ります」


——茶に毒を盛った人間は、宮廷の中にいる。レンツ局長は国境の向こう。局長の指示で動く手先が、まだこの宮廷に潜んでいる。


「犯人は……宮廷の中にいるわ」


「わかってる」


「次は、あなたかもしれない」


その言葉が、胃の底に鉛のように沈んだ。


薬務室を出て、廊下でノルベルトと立ち止まった。


「毒物の調合に薬草の知識が必要だということは、犯人は——」


「薬務室の関係者か、あるいは薬草に詳しい人間。範囲は絞られます」


「レンツ局長自身にその知識が?」


「局長は事務畑の人間です。薬草の知識があるとは考えにくい」


「じゃあ、局長の手先にそういう人間がいる」


「ええ。あるいは——手先に知識を持つ人間を使わせた」


「厨房の臨時職員……」


「まずはその人物を特定することです。イルメラさん、厨房の管理記録を——」


「記憶から再現します。今日中に」


「お願いします。——ただし、定時までに」


「当然です」


二人で小さく頷き合った。


こういうとき、この人との呼吸が合うことがありがたい。


事務局に戻り、午後の残り時間で厨房の管理記録を記憶から書き起こした。


ゲオルク爺さんが亡くなった週の記録。


保管室への飲食物の配送はあったか。


ペンが止まった。


あった。


ゲオルク爺さんが亡くなる四日前から、保管室に「差し入れの茶」が毎日届けられている。配送担当は——臨時調理補助。


四日間。毎日。


アーデルハイトが言っていた「微量を長期間」という調合に一致する。


「見つけた……」


声が震えた。


ゲオルク爺さんを殺した証拠が、わたしの記憶の中にあった。


このメモを、明日ノルベルトに渡す。


ゲオルク爺さんの仇を取る。その日が近づいている。

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