第13話 偽りの署名、本物の敵
偽りの署名を見破るのは、十年間、本物の署名を見続けてきた人間にしかできない仕事だった。
つまり、わたしだ。
監査局の会議室に、過去五年分の決裁文書が山と積まれている。ノルベルトが正式な権限で取り寄せたものだ。
「イルメラさん。この中から、レンツ局長が偽造したと思われる署名を特定してください」
「全部ですか」
「全部です」
「……了解しました」
気が遠くなるような作業だ。でも、これがわたしの武器。十年間書類を見続けてきた目。
一枚ずつ丁寧に確認していく。レンツ局長の筆跡の癖——「承認」の字が左に流れる、「長」の最後の払いが短い——を基準に、偽造された署名を選り分ける。
ノルベルトが対面に座り、わたしが仕分けた書類を記録していく。
二人の作業は無言だが、息が合っていた。
「この書類、見てください」
「何ですか」
「三年前の四月。薬務室の予算削減の決裁書。財務長官の署名がありますが——」
「偽造ですか」
「ええ。でも面白いのはここです。同じ日付で、保管室の増員申請の却下書も出ている。こちらも偽造」
「同じ日に二通の偽造——」
「レンツ局長が一度に複数の決裁を偽造していた証拠です。しかも連動しています。薬務室の予算を削って、保管室の増員を拒否する。浮いた金を——」
「特別業務手当に回す。一人の手ですべて操作されていた」
午前中だけで四十七通を特定した。
昼食を挟んで午後も続ける。ノルベルトが茶を淹れてくれた。砂糖が入っている。わたしが甘いものを好むことを、いつ知ったのだろう。
「ノルベルトさん」
「はい」
「この作業をしていて気づいたことがあります」
「何ですか」
「偽造された署名のうち、三年前以降のものはすべてインクが同じです。でも四年前と五年前のものは違う」
「つまり」
「三年前に何かが変わった。財務長官が交代した年です。旧財務長官が突然退任した——あのとき何かが起きた」
「旧財務長官の退任は、自発的ではなかったのかもしれません」
「レンツ局長に追い出された?」
「仮説です。しかし不正に気づいて声を上げようとしたなら——ゲオルク氏と同じ運命を辿った可能性がある」
背筋が冷たくなった。もっと前から、気づいた人間は消されていたのかもしれない。
そのとき、扉が叩かれた。
監査局長が入ってきた。白髪交じりの壮年の男性。穏やかだが厚みのある声。
「ノルベルト。レンツ局長の件で動きがあった」
「何ですか」
「出国差し止め命令を出したが——昨夜のうちに国境を越えた形跡がある。アンブロス領方面の街道で目撃証言が出た」
逃げられた。
わたしとノルベルトは顔を見合わせた。
「追えますか」
「監査局の権限では、国境を越えた捜索は難しい。軍部の協力が必要だが——軍務次官の名前がこの不正に出てくる以上、軍部は頼れない」
「王太子の勅命があれば、国境警備隊を動かせます」
「王太子か……」
監査局長がノルベルトを見た。
「お前の判断に任せる。ただし、慎重にな」
「はい。イルメラさんから殿下に掛け合ってもらいます」
「わたしから?」
「あなたは殿下と直接話ができる唯一の人間です。監査局から正式に依頼するより、あなたを通した方が早い」
確かにそうだ。
ヨアヒムはわたしに協力を申し出た。今がそれを使うときだ。
午後五時。定時退勤。
だが今日は帰り道にベアーテの文具店に寄る。ヨアヒムへの手紙を書くためだ。
「ベアーテさん。上質のインクをください。宮廷の公用とは違うもので」
「用心深いのね。王太子への手紙?」
「ええ」
「最上級のインクを出すわ。——ペンは武器よ。最高の武器には、最高のインクを」
インクを受け取り、店の奥でヨアヒムへの手紙を書いた。
内容は簡潔にした。
レンツ局長が国境を越えた。追跡には王太子の勅命が必要。国境警備隊の出動を命じてほしい。
書き終えて、封をする。
「ベアーテさん。この手紙を、信頼できる使者で殿下の元に届けられますか」
「うちの店の小僧が宮廷に納品に行く便があるわ。明朝一番に届けさせる」
「ありがとうございます」
「イルメラさん。ひとつだけ忠告していい?」
「何ですか」
「王太子を信じるのは構わないけど、頼りすぎないことね。あの方も人間よ。追い詰められれば、何をするかわからない」
「……覚えておきます」
ベアーテの目が、一瞬だけ鋭くなった。
この人は何を知っているのだろう。何を見てきたのだろう。
文具店を出ると、夜の風が冷たかった。
秋が深まっている。
——レンツ局長は逃げた。だが、逃げた先にも追手は及ぶ。そのための一手を、今夜打つ。
ノルベルトが対面に座り、わたしが仕分けた書類を記録していく。二人の作業は無言だが、息が合っていた。
「この書類、見てください」
「何ですか」
「偽造ですか」
「ええ。でも、面白いのはここです。同じ日付で、保管室の増員申請の却下書も出ています。こちらも偽造」
「同じ日に二通の偽造——」
「レンツ局長が一度に複数の決裁を偽造していた証拠です。しかも、この二通は連動しています。薬務室の予算を削って、保管室の増員を拒否することで、浮いた金を——」
「特別業務手当に回す。一連の流れが、一人の手で操作されていた」
「その通りです」
午前中だけで、偽造と判定した文書は四十七通に達した。
「四十七通。すべて侍従長の名義で、実際にはレンツ局長の筆跡です」
ノルベルトが、珍しく言葉を失った。
「さらに、こちらの二十三通は財務長官名義の偽造。合わせて七十通」
「五年間で七十通の偽造。すべてが予算の付け替えに関わる決裁文書……」
「ゲオルク爺さんの副本と照合すれば、偽造の事実は動かしようがありません」
昼食を挟んで、午後も作業を続けた。ノルベルトが茶を淹れてくれた。
砂糖が入っている。わたしが甘いものを好むことを、いつ知ったのだろう。
「ノルベルトさん」
「はい」
「何ですか」
「偽造された署名のうち、三年前以降のものはすべてインクが同じです。でも、四年前と五年前のものは——インクが違う」
「つまり」
「三年前に、何かが変わった。レンツ局長が使うインクの種類が変わったのか、あるいは——偽造の手法自体が変わった可能性がある」
「三年前。財務長官が交代した年ですね」
「ええ。旧財務長官が突然退任した年。あのとき、何かが起きたんです」
ノルベルトがペンの先で記録を辿った。
「旧財務長官の退任は——もしかすると、自発的ではなかったのかもしれません」
「仮説です。しかし、旧財務長官が不正に気づいて声を上げようとしたなら——ゲオルク氏と同じ運命を辿った可能性がある」
背筋が冷たくなった。ゲオルク爺さんだけではない。もっと前から、この不正に気づいた人間は消されていたのかもしれない。
そのとき、扉が叩かれた。監査局長が入ってきた。
「何ですか」
逃げられた。
「追えますか」
「監査局の権限では国境を越えた捜索は難しい。王太子の勅命があれば——」
「わたしから殿下に掛け合います」
午後五時。定時退勤。
「ええ」
「最上級のインクを出すわ」




