第12話 宮廷に戻る女
十日ぶりに宮廷の門をくぐったとき、わたしの足は震えていなかった。
震えていたのは、わたしを迎える側の人間たちの方だった。
「イルメラさん……戻って来たの?」
「ええ。停職処分が無効になりましたので」
事務局の受付に立った若い事務官が、信じられないという顔をしている。追い出されたはずの社畜令嬢が、堂々と正門から出仕してきたのだ。
「イルメラ!」
ハンナが駆け寄ってきた。目が赤い。
「おかえり! もう、心配したのよ!」
「ただいま、ハンナ。留守の間、ありがとう」
「何言ってるのよ。あなたがいない間、この事務局がどれだけ大変だったか——」
「想像はつきます。それで?」
「交付金の通知文は結局わたしが覚えたわ。あなたの引き継ぎ資料を三日間読み込んで」
「すごいじゃない。ちゃんとできたんだ」
「すごくないわよ。三日もかかったんだから。あなた、あれを毎日やってたの?」
「ええ。あれと、他の業務を合わせて」
ハンナが絶句した。
「……化け物ね」
「社畜と呼んでください」
笑いながら自分の机に向かう。机の上はきれいに片付いていた。ハンナが掃除してくれたのだろう。
座って、深呼吸する。ここから見える景色は変わらないが、わたしは変わった。
午前中は事務局の通常業務をこなした。
わたしがいなくなった十日間で、業務の一部は同僚たちが肩代わりしてくれていた。不完全ではあるが、少なくとも「ひとりでは回せない」ことを全員が実感したはずだ。
「イルメラさん、この外交文書の扱いなんですが——」
「それは外交課の所管です。外交課長に回してください」
「でも、いつもレンツ局長を通して——」
「局長は不在です。規定どおり、所管部署に直接回してください」
一日に何度、同じ台詞を言うことか。この宮廷は、わたしという歯車が外れたことで、ようやく自分たちの足で歩く練習を始めている。
モニカが事務局に顔を出した。
「イルメラさん! お帰りなさい!」
「ただいま。使節団の手配はうまくいった?」
「はい! 課長と一緒に引き継ぎ資料を見ながらやりました。最初は大変でしたけど、二回目からはスムーズに」
「それでいいのよ。最初から完璧にできる人なんていない」
モニカの笑顔が眩しい。この子が自分の力で仕事をこなせるようになった。それだけでも、定時退勤を始めた意味があった。
◇
午後、監査局の会議室でノルベルトと向かい合う。
テーブルの上には、わたしの業務記録の再現メモ、ゲオルク爺さんの副本、アーデルハイトの薬務室資料、そして旧保管庫から見つけた機密文書の写しが並んでいる。
「これだけの証拠が揃えば、正式な告発が可能です」
「告発の対象は」
「第一にレンツ局長。署名偽造と公金横領。第二に宮廷財務長官。予算の不正執行。第三に——侍従長」
「ただし、侍従長の署名はレンツ局長の偽造の可能性がある。本当に関与しているかは、まだ確定できていません」
「それを確定させるには、レンツ局長の証言が必要ですね」
「ええ。局長は長期休暇中で、出国差し止め命令は発行済みですが——すでに出発している可能性がある」
「昨日、ヨアヒム殿下と会いました」
ノルベルトの目が、一瞬だけ鋭くなった。
「王太子と?」
「殿下は婚約破棄の真相を話してくれました。侍従長の脅迫でやむなく、と」
「……王太子を信じるのですか」
その声に、感情が滲んでいた。心配か。それとも——別の何かか。
「信じるかどうかは、情報の裏を取ってから判断します。でも、使える手は全部使います」
「賢明ですね」
「ノルベルトさん。あなたの顔、今すごく不機嫌ですけど」
「不機嫌ではありません。業務上の懸念です」
「業務上」
「はい」
耳の先が赤い。夕焼けのせいではない。
「ヨアヒム殿下の勅命があれば、国境を越えた捜索が可能になります。殿下に協力を要請しましょう」
「……わかりました。王太子の情報も合わせて分析します。ただし——」
「気をつけます。侍従長の目がある。わかっています」
午後五時。定時退勤。
宮廷に戻った初日。やるべきことは山積みだが、定時は定時だ。
退勤前にノルベルトが事務局に顔を出した。
「イルメラさん。復帰初日のお仕事ぶりは」
「定時内にすべて片付きました。以前は毎日六時間残業していたのに」
「六時間の残業が不要だったということですね」
「不要だったのではなく、他人の仕事を引き受けていたからです。自分の担当だけなら、定時で十分に終わる」
「つまり、あなたの残業代は本来——」
「存在しないはずの業務に対して発生していた。その業務の裏で、レンツ局長が偽造を行っていた」
「社畜令嬢の残業は、不正の煙幕だった」
「その通りです。笑えない冗談ですけど」
「笑えません。でも——あなたがいなければ、その構造にすら気づけなかった」
ノルベルトの声が、いつもより柔らかい。
わたしは黙って荷物をまとめた。照れているのを悟られたくない。
退勤前に、ハンナが声をかけてきた。
「イルメラ。あなたがいない間、ひとつ気になることがあったの」
「何?」
「レンツ局長が休暇前にね、厨房に人を入れたの。臨時の調理補助だって」
「厨房に?」
「事務局を通さずに、局長が直接人事手続きをしたみたい。わたし、書類の控えを見つけたんだけど——」
胸騒ぎがした。
レンツ局長が休暇前に仕込んだ人間。
「その控え、まだある?」
「うん。わたしの机の引き出しに」
「見せて」
ハンナが書類を取り出した。臨時職員の採用手続き書。
名前を見て——記憶が反応した。三年前に事務局を去った元職員の名前だ。
「ハンナ、ありがとう。これ、大事な手がかりかもしれない」
「本当? よかった。何かの役に立てばと思って取っておいたの」
ハンナの笑顔。
この子はいつも、わたしの味方でいてくれた。
——だがこのとき、わたしはまだ知らなかった。この書類の裏に、もうひとつの真実が隠れていることを。
もう、この宮廷はわたしひとりでは動かない。
いや、正確には——わたしひとりで動かしていたこと自体が、異常だったのだ。
副局長が臨時で事務局を預かっているが、そもそもレンツ局長のイエスマンだったこの人に、判断力を求めるのは酷かもしれない。
「イルメラさん、この予算申請の承認は——」
「副局長にお願いしてください。局長代行の権限です」
「でも副局長は『わからない』って——」
「わからないなら、わたしの引き継ぎ資料を読んでください。手順が全部書いてあります」
一日に何度、同じ台詞を言うことか。
モニカだ。外交課の若い事務官。以前、使節団の手配について助言した子が、事務局にも顔を出すようになっていた。
「はい! 課長と一緒に引き継ぎ資料を見ながらやりました。二回目からはスムーズに」
「イルメラさんのおかげです。やり方を教えてくれたから」
モニカの笑顔が眩しい。
この子が自分の力で仕事をこなせるようになった。それだけでも、定時退勤を始めた意味があった。
門を出ると、夕焼けが広がっていた。
わたしはここに戻ってきた。もう、ひとりで全部を抱え込む社畜ではなく——仲間とともに、この国を正す女として。
——翌日から合同調査が本格化する。そしてレンツ局長の行方を追う日々が、わたしの新しい「残業なしの仕事」になる。




