表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄された社畜令嬢、腹いせに定時退勤したら国が回らなくなりました  作者: 渚月(なづき)
第2章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

12/33

第12話 宮廷に戻る女

十日ぶりに宮廷の門をくぐったとき、わたしの足は震えていなかった。


震えていたのは、わたしを迎える側の人間たちの方だった。


「イルメラさん……戻って来たの?」


「ええ。停職処分が無効になりましたので」


事務局の受付に立った若い事務官が、信じられないという顔をしている。追い出されたはずの社畜令嬢が、堂々と正門から出仕してきたのだ。


「イルメラ!」


ハンナが駆け寄ってきた。目が赤い。


「おかえり! もう、心配したのよ!」


「ただいま、ハンナ。留守の間、ありがとう」


「何言ってるのよ。あなたがいない間、この事務局がどれだけ大変だったか——」


「想像はつきます。それで?」


「交付金の通知文は結局わたしが覚えたわ。あなたの引き継ぎ資料を三日間読み込んで」


「すごいじゃない。ちゃんとできたんだ」


「すごくないわよ。三日もかかったんだから。あなた、あれを毎日やってたの?」


「ええ。あれと、他の業務を合わせて」


ハンナが絶句した。


「……化け物ね」


「社畜と呼んでください」


笑いながら自分の机に向かう。机の上はきれいに片付いていた。ハンナが掃除してくれたのだろう。


座って、深呼吸する。ここから見える景色は変わらないが、わたしは変わった。


午前中は事務局の通常業務をこなした。


わたしがいなくなった十日間で、業務の一部は同僚たちが肩代わりしてくれていた。不完全ではあるが、少なくとも「ひとりでは回せない」ことを全員が実感したはずだ。


「イルメラさん、この外交文書の扱いなんですが——」


「それは外交課の所管です。外交課長に回してください」


「でも、いつもレンツ局長を通して——」


「局長は不在です。規定どおり、所管部署に直接回してください」


一日に何度、同じ台詞を言うことか。この宮廷は、わたしという歯車が外れたことで、ようやく自分たちの足で歩く練習を始めている。


モニカが事務局に顔を出した。


「イルメラさん! お帰りなさい!」


「ただいま。使節団の手配はうまくいった?」


「はい! 課長と一緒に引き継ぎ資料を見ながらやりました。最初は大変でしたけど、二回目からはスムーズに」


「それでいいのよ。最初から完璧にできる人なんていない」


モニカの笑顔が眩しい。この子が自分の力で仕事をこなせるようになった。それだけでも、定時退勤を始めた意味があった。





午後、監査局の会議室でノルベルトと向かい合う。


テーブルの上には、わたしの業務記録の再現メモ、ゲオルク爺さんの副本、アーデルハイトの薬務室資料、そして旧保管庫から見つけた機密文書の写しが並んでいる。


「これだけの証拠が揃えば、正式な告発が可能です」


「告発の対象は」


「第一にレンツ局長。署名偽造と公金横領。第二に宮廷財務長官。予算の不正執行。第三に——侍従長」


「ただし、侍従長の署名はレンツ局長の偽造の可能性がある。本当に関与しているかは、まだ確定できていません」


「それを確定させるには、レンツ局長の証言が必要ですね」


「ええ。局長は長期休暇中で、出国差し止め命令は発行済みですが——すでに出発している可能性がある」


「昨日、ヨアヒム殿下と会いました」


ノルベルトの目が、一瞬だけ鋭くなった。


「王太子と?」


「殿下は婚約破棄の真相を話してくれました。侍従長の脅迫でやむなく、と」


「……王太子を信じるのですか」


その声に、感情が滲んでいた。心配か。それとも——別の何かか。


「信じるかどうかは、情報の裏を取ってから判断します。でも、使える手は全部使います」


「賢明ですね」


「ノルベルトさん。あなたの顔、今すごく不機嫌ですけど」


「不機嫌ではありません。業務上の懸念です」


「業務上」


「はい」


耳の先が赤い。夕焼けのせいではない。


「ヨアヒム殿下の勅命があれば、国境を越えた捜索が可能になります。殿下に協力を要請しましょう」


「……わかりました。王太子の情報も合わせて分析します。ただし——」


「気をつけます。侍従長の目がある。わかっています」


午後五時。定時退勤。


宮廷に戻った初日。やるべきことは山積みだが、定時は定時だ。


退勤前にノルベルトが事務局に顔を出した。


「イルメラさん。復帰初日のお仕事ぶりは」


「定時内にすべて片付きました。以前は毎日六時間残業していたのに」


「六時間の残業が不要だったということですね」


「不要だったのではなく、他人の仕事を引き受けていたからです。自分の担当だけなら、定時で十分に終わる」


「つまり、あなたの残業代は本来——」


「存在しないはずの業務に対して発生していた。その業務の裏で、レンツ局長が偽造を行っていた」


「社畜令嬢の残業は、不正の煙幕だった」


「その通りです。笑えない冗談ですけど」


「笑えません。でも——あなたがいなければ、その構造にすら気づけなかった」


ノルベルトの声が、いつもより柔らかい。


わたしは黙って荷物をまとめた。照れているのを悟られたくない。


退勤前に、ハンナが声をかけてきた。


「イルメラ。あなたがいない間、ひとつ気になることがあったの」


「何?」


「レンツ局長が休暇前にね、厨房に人を入れたの。臨時の調理補助だって」


「厨房に?」


「事務局を通さずに、局長が直接人事手続きをしたみたい。わたし、書類の控えを見つけたんだけど——」


胸騒ぎがした。


レンツ局長が休暇前に仕込んだ人間。


「その控え、まだある?」


「うん。わたしの机の引き出しに」


「見せて」


ハンナが書類を取り出した。臨時職員の採用手続き書。


名前を見て——記憶が反応した。三年前に事務局を去った元職員の名前だ。


「ハンナ、ありがとう。これ、大事な手がかりかもしれない」


「本当? よかった。何かの役に立てばと思って取っておいたの」


ハンナの笑顔。


この子はいつも、わたしの味方でいてくれた。


——だがこのとき、わたしはまだ知らなかった。この書類の裏に、もうひとつの真実が隠れていることを。


もう、この宮廷はわたしひとりでは動かない。


いや、正確には——わたしひとりで動かしていたこと自体が、異常だったのだ。


副局長が臨時で事務局を預かっているが、そもそもレンツ局長のイエスマンだったこの人に、判断力を求めるのは酷かもしれない。


「イルメラさん、この予算申請の承認は——」


「副局長にお願いしてください。局長代行の権限です」


「でも副局長は『わからない』って——」


「わからないなら、わたしの引き継ぎ資料を読んでください。手順が全部書いてあります」


一日に何度、同じ台詞を言うことか。


モニカだ。外交課の若い事務官。以前、使節団の手配について助言した子が、事務局にも顔を出すようになっていた。


「はい! 課長と一緒に引き継ぎ資料を見ながらやりました。二回目からはスムーズに」


「イルメラさんのおかげです。やり方を教えてくれたから」


モニカの笑顔が眩しい。


この子が自分の力で仕事をこなせるようになった。それだけでも、定時退勤を始めた意味があった。


門を出ると、夕焼けが広がっていた。


わたしはここに戻ってきた。もう、ひとりで全部を抱え込む社畜ではなく——仲間とともに、この国を正す女として。


——翌日から合同調査が本格化する。そしてレンツ局長の行方を追う日々が、わたしの新しい「残業なしの仕事」になる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ