第11話 王太子の告白
第2章スタートです!
王太子ヨアヒムは、わたしが知っている顔をしていなかった。
舞踏会の夜、あれほど傲慢に婚約破棄を宣言した男が、今は街角のベンチでうなだれている。
「話がある、と仰いましたね」
「ああ」
「では、手短にお願いします。定時までですので」
ヨアヒムが苦笑した。疲れ切った、自嘲のような笑みだ。
「お前らしいな。いつもそうだった。どんなときでも仕事の話をする」
「それしか取り柄がありませんので」
「——違う」
ヨアヒムの声が低くなった。
目を伏せて、しばらく黙っている。泉の水音だけが、二人の間を流れた。
「イルメラ。婚約破棄の件は、俺の意思じゃなかった」
「存じています。侍従長とアンブロス公爵家の意向だったのでしょう」
ヨアヒムが顔を上げた。驚いている。
「どこまで掴んでいる」
「予算の不正流用。署名の偽造。アンブロス領への資金の流れ。ゲオルク・シュタイナー氏の不審な死」
一つずつ並べるたびに、ヨアヒムの顔が白くなっていく。
「お前は——いつから」
「定時退勤を始めてからです。暇になると、色々と見えてくるものがありますので」
皮肉のつもりではなかった。でもヨアヒムは、まるで殴られたように顔を歪めた。
「俺が……お前を守れなかった」
「守る?」
「侍従長に脅されたんだ。婚約破棄しなければ、お前の身に危険が及ぶと。お前が処理していた書類の中に、連中の不正の痕跡がある。それに気づく前に、宮廷から遠ざけろと」
息を呑んだ。
婚約破棄はわたしを排除するためではなく——守るためだったと、ヨアヒムは言っている。
「具体的に聞かせてください。侍従長はいつ、あなたに接触したのですか」
「舞踏会の三日前だ。俺の部屋に来て、『イルメラ・ヴェストを宮廷から遠ざけなければ、彼女の命の保証はできない』と」
「三日前。わたしが三日間の徹夜に入った、まさにその日です。各領への交付金配分の最終調整——予算の流れを全部追える書類でした」
「つまり、お前がそれを精査する前に——」
「追い出す必要があった。そういう計算です」
ヨアヒムが、拳を握りしめた。
「俺は脅されて従った。情けない話だ」
「情けないかどうかは、これからの行動で決まります」
「信じてほしいとは言わない。ただ、事実だ」
「事実だとして。なぜ今、それを話すのですか」
「レンツが逃げようとしている。あいつがアンブロス領に渡れば、証拠は永遠に闇に消える。俺ひとりの力では止められない」
ヨアヒムが、まっすぐにわたしを見た。
「力を貸してくれ、イルメラ。俺に——もう一度、信じる機会をくれないか」
泉の水音。市場の雑踏。遠くで子供が笑う声。
七年間の婚約。一方的な破棄。あの夜の屈辱。全部覚えている。許したわけではない。
でも。
「条件があります」
「何だ」
「すべての情報を開示してください。隠し事は一つも許しません」
「……わかった」
「そしてもうひとつ。わたしの判断を、二度と勝手に奪わないでください。守るつもりだったとしても——わたしから選択肢を奪ったことに変わりはありません」
ヨアヒムが目を伏せた。長い沈黙のあと、小さく頷く。
「約束する」
「それと、最後に」
「……まだあるのか」
「定時退勤は絶対です。王太子の命令でも、残業はしません」
ヨアヒムが一瞬きょとんとして——それから、短く笑った。今度は本物の笑みだった。
「わかった。定時退勤は、尊重する」
「では、協力します。あくまで対等な立場で。あなたは王太子かもしれませんが、わたしの上司ではありません」
「お前は本当に変わらないな」
「変わりましたよ。定時に帰るようになりました」
「もうひとつ確認させてください。侍従長は、ゲオルク爺さんの死にも関わっていますか」
ヨアヒムの表情が曇った。
「断言はできない。だが侍従長は、不正に気づいた人間を排除してきた。旧財務長官の突然の退任も、侍従長の圧力だと聞いている」
「旧財務長官も——」
「領地に隠棲したと言われているが、実際は脅されて逃げたらしい」
ノルベルトとわたしの仮説は正しかった。
「殿下。レンツ局長の正体を知っていましたか」
「正体?」
「あの男は無能な上司ではなかった。侍従長と財務長官の署名を偽造できるほどの技術を持っていた」
ヨアヒムが目を見開いた。
「署名の偽造……? それは知らなかった」
「わたしが十年間、毎晩残業していたのは——レンツ局長の不正を覆い隠す煙幕に使われていたんです」
「……そんなことが」
「ええ。だから——あなたが本気でこの不正を正す気があるなら、わたしはそれに懸けます」
◇
ヨアヒムが去ったあと、しばらく泉の前に座っていた。
信じていいのだろうか。婚約破棄はわたしを守るためだったという言葉を。
あの夜の舞踏会を思い出す。
ヨアヒムの顔には申し訳なさの欠片もなかった——そう思っていた。でも今思い返すと、あれは「感情を殺していた」顔だったのかもしれない。
わからない。
わからないが、真実を知るためには前に進むしかない。
市場の時計台が、午後四時を告げている。
あと一時間で定時だ。定時退勤を始めてから、時間の感覚が変わった。
以前のわたしは、時計を見る暇もなく働いていた。
今は、一日の終わりを意識して動ける。それだけで、頭の使い方が全然違う。
宿舎への帰り道、パン屋の前を通りかかった。
あの日——定時退勤を始めた最初の日に見た、夕暮れの市場の景色。あれからまだ数週間しか経っていないのに、わたしの世界はすっかり変わってしまった。
婚約破棄されて、定時に帰り始めて、宮廷の不正を知って、停職されて、そして今——元婚約者から協力を求められている。
人生は、予測できない。
でも、予測できないからこそ面白いのかもしれない。
あの三日間の徹夜明けに、「明日、定時に帰ろう」と決めたわたしは、よくやったと思う。
あの小さな決断が、すべての始まりだった。
宿舎に戻ると、ノルベルトに手紙を書いた。ヨアヒムとの会話の内容を、一字一句漏らさず記録する。
ペンを走らせながら、ふと思う。
ヨアヒムの言葉が本当なら、侍従長はわたしの存在を脅威と認識していたことになる。
わたしが処理していた書類に、不正の痕跡がある。それは——わたしの記憶の中にも、痕跡があるということだ。
十年分の記憶を、もう一度精査する必要がある。何かを見落としているはずだ。
そのとき、ドアが叩かれた。
「イルメラさん。ノルベルト・ゲーアハルトです」
こんな時間に?
扉を開けると、ノルベルトが立っていた。私服だ。いつもの藍色の外套ではなく、地味な地味なの上着。
「停職処分の件です。無効が認められました」
「本当ですか」
「監査局長が正式に人事部に通達を出しました。明日から、復帰できます」
足の力が、一瞬だけ抜けた。
「……ありがとうございます」
「わたしの力ではありません。あなたが見つけた条文と、あなた自身の実績です」
ノルベルトの声は淡々としていた。でも、唇の端がわずかに上がっている。
この人なりの、笑顔だ。
「明日、宮廷でお会いしましょう」
「はい。——定時までに、できることをすべてやります」
「定時までで結構です」
「ノルベルトさん。ヨアヒム殿下のことですが」
「……聞いています。廊下で殿下とすれ違いましたので」
「すれ違った?」
「ええ。殿下はわたしに一礼して通り過ぎました。王太子が監査官に頭を下げるのは、おそらく建国以来初めてでしょう」
「それは——殿下も本気だということでは」
「あるいは、本気に見せかけているか」
ノルベルトの声に、かすかな棘がある。
「ノルベルトさん。もしかして、嫉妬していますか」
「業務上の懸念です」
「耳が赤いですよ」
「夕焼けの反射です」
夜だった。夕焼けはとっくに沈んでいる。
指摘しようかと思ったが、やめておいた。
——翌日から、わたしは宮廷に戻る。社畜令嬢としてではなく、この国を正す調査官として。




