第10話 王宮を去る者、残る者
第一章完結となります!
わたしの十年間は嘘だった。
そう思い知らされたのは、宮廷の地下で、震える手で文書をめくっていたときだった。
鍵の正体を突き止めたのは、アーデルハイトだ。
「この鍵、見覚えがある。薬務室の旧保管庫の鍵よ」
「旧保管庫?」
「地下にあるの。五年前に閉鎖されて、誰も近づかなくなった場所。ゲオルク爺さんが文書整理を手伝ってくれたことがあって、存在を知っていたはず」
ゲオルク爺さんは、誰も見向きもしない場所に、切り札を隠した。
この人らしい。大事なものは棚の奥に隠せ、と言っていた人だ。
「停職中のわたしは宮廷に入れません」
「わたしが案内する。薬務室の管轄だから、入室権限はわたしにある」
「アーデルハイトさん、危険です」
「危険なのはお互い様でしょう。もたもたしてる場合じゃないわ。レンツ局長が長期休暇を取ったなら、次は証拠隠滅よ」
迷っている暇はない。
夕方、アーデルハイトの手引きで裏門から宮廷に忍び込んだ。
薬務室の地下階段を降りる。
湿った空気。古い薬草の匂い。壁のランプが揺れて、二人の影を不規則に伸ばす。
突き当たりの古びた扉に、鍵を差し込む。
かちり。
回った瞬間、ゲオルク爺さんの顔が浮かんだ。
——お嬢ちゃん、大事なものは奥に隠せ。
小さな部屋。棚には古い薬瓶が並んでいる。
その奥に、布に包まれた束があった。
布を開く。
文書の束。宮廷の公式印が押された、機密文書。
予算の流れを示す詳細な記録。各部署から削られた金がどこに消えたのか、一目でわかる一覧。
「イルメラさん、何が書いてあるの」
「宮廷財務長官だけじゃない。顧問官、軍務次官——そして、宮廷侍従長」
「侍従長って……王太子の側近じゃない」
「ええ」
ページをめくり続ける。
手が止まった。
最後のページに、ゲオルク爺さんの直筆のメモが挟まっていた。
「この文書を見つけた者へ。以下は、わたしが目撃した事実である。——財務長官室から出てきた人物は、侍従長ではなかった。侍従長の印を使って決裁書類に署名していたのは、別の人間だった」
名前が書いてある。
読んだ。
二度、読んだ。
血の気が引いた。
「イルメラさん? どうしたの、顔が真っ青よ」
「……アーデルハイトさん。これを見て」
メモを見せた。
アーデルハイトの目が見開かれる。
「嘘……これ、本当なの」
「ゲオルク爺さんが嘘を書く理由がない。しかも——」
文書の束をもう一度確認する。
侍従長の署名がある書類と、財務長官の署名がある書類。並べて見ると——
「筆跡が同じだ」
「え?」
「侍従長の署名と、財務長官の署名。別人のはずなのに、字の癖が同じです。特にこの『承認』の崩し方。左に流れる独特の筆運び」
わたしは十年間、毎日文書を見てきた。
筆跡の違いは、わたしにとってインクの色の違いと同じくらい明確だ。
「つまり、侍従長の名義を使って署名していたのは、財務長官本人……?」
「いいえ。逆です」
声が震える。
「財務長官の名義で署名していたのも、侍従長の名義で署名していたのも、同一人物。そしてその人物は——」
ゲオルク爺さんのメモに書かれた名前を、もう一度見た。
「レンツ局長です」
沈黙が落ちた。
レンツ局長。わたしの直属の上司。
十年間、わたしの仕事を奪い、成果を横取りし、都合のいい道具として使い続けた男。
あの男は末端ではなかった。
侍従長と財務長官の間を取り持つ小役人ではなく——両者の署名を偽造できる立場にいた。
「待って。それなら、侍従長や財務長官は——」
「知らなかった可能性がある。少なくとも一部の決裁については、レンツ局長が独断で署名を偽造していた」
「でも、お金の流れは確実に上層部に——」
「ええ。全部が偽造とは限らない。本物の決裁と偽造が混在している。だからこそ、外からは見分けがつかなかった」
頭が回転する。
十年間の記憶が、猛烈な速度で再構成されていく。
レンツ局長は無能な上司だと思っていた。
部下の仕事を横取りし、自分は何もしない小役人だと。
違った。
あの男は宮廷の中枢の署名を偽造できるほどの技術を持っていた。わたしに膨大な雑務を押しつけることで、自分の「本当の仕事」を隠していたのだ。
わたしが毎晩残業していたのは、レンツ局長の不正を覆い隠す煙幕だった。
「ゲオルク爺さんは、これに気づいた」
「だから——」
「殺されたのかもしれない」
二人の声が重なった。
文書の写しを取る手が震えていたが、一文字も間違えなかった。
十年分の怒りが、ペンを走らせた。
◇
翌日。中央市場の泉のそばで、ノルベルトに写しとメモを渡した。
ノルベルトが文書を読む目が、一行ごとに鋭さを増していく。
メモのページに達したとき、初めてこの人が感情を隠せなくなるのを見た。
「……署名の偽造。レンツ局長が、侍従長と財務長官の名義を——」
「ゲオルク爺さんが目撃し、文書で裏を取ったんです」
ノルベルトが目を閉じた。
長い沈黙のあと、静かに口を開く。
「構図が変わります。レンツ局長は末端ではなく、偽造の実行犯だった。しかし——」
「動機ですね」
「ええ。局長級の給与で十分な生活ができるはず。横領した金の流れ先を、もう一度確認する必要がある」
「ベアーテさんからの情報で、レンツ局長の休暇先はアンブロス領でした」
「アンブロス公爵家は、三年前に大規模な領地開発を行っています。財源は不明とされていた」
横領された金の行き先。アンブロス公爵家。
ヨアヒムの新しい婚約者の実家。
「わたしの婚約破棄は——」
「計画的な排除だった可能性が高い」
わかっていた。心のどこかでは、とっくに。
でも証拠と論理で突きつけられると、違う痛みがある。
「つらいなら——」
「つらくありません。腹が立っているだけです」
嘘だ。でも立ち止まるわけにはいかない。
「では、次の一手を。今朝、監査局長に報告を上げました。レンツ局長の出国を差し止める命令が、明日付で発行されます」
「監査局長は——協力してくれたんですか」
「証拠を見せた瞬間、顔色が変わりました」
信頼したいと言っていた上司が、味方になってくれた。
ノルベルトの肩から力が抜けたのが見えた。
「それと、もうひとつ。匿名の手紙——ゲオルク氏の死因に疑問を呈した一通目の差出人が判明しました」
「誰ですか」
ノルベルトが、一拍の間を置いた。
「グレーテ・アンブロス嬢です」
世界が、止まった。
「グレーテ嬢が……?」
「アンブロス公爵家の内情を知る立場にいた。父親の不正に気づいていたが、声を上げる手段がなかった」
市場でのグレーテ嬢の言葉が蘇る。
——わたしの父が、殿下側近との話し合いで決めたことだと聞いた。
——ヨアヒム殿下は、あなたのことを何とも思っていなかったわけじゃない。
あの言葉の裏に、こんな真実が隠れていた。
「敵だと思っていた人物が、味方だった——」
「ええ。彼女もまた、この不正の被害者です」
「会わなければ。グレーテ嬢に」
「近いうちに。ただし慎重に。アンブロス公爵の目がある」
ノルベルトが立ち上がった。
「あなたの停職処分ですが——弁明の機会が与えられていないことを根拠に、無効を申し立てます。行政法の第十七条」
あの古本屋で買った、一枚銅貨の本。あの条文だ。
「知っています」
「さすがですね」
ノルベルトが微笑んだ。
笑顔を見るたびに、胸の奥がほんの少しだけ温かくなる。
「停職が解除されれば、あなたは宮廷に戻れます。そのとき——」
「わたしの記憶が、最大の武器になる」
「ええ。十年分の記憶は、どんな文書よりも雄弁です」
泉の水音が、二人を包んでいる。
わたしは深く息を吸った。
十年間、「国のため」に働いてきた。
その「国のため」が嘘だったと知った今——本当の意味でこの国のために働く番だ。
ノルベルトが去ったあと、泉の縁に腰かけて空を見上げた。
高い空に、鳥が飛んでいる。
——そのとき、背後から声がした。
「久しぶりだな、イルメラ」
振り返った。
そこに立っていたのは、ヨアヒムだった。
王太子の正装ではなく、質素な外套を纏い、護衛もつけず、ひとりで。
その顔には、舞踏会の夜にはなかった疲労と、後悔が刻まれていた。
「話がある。——全部、話す」
わたしの口から出た言葉は、自分でも意外なものだった。
「定時までなら、お聞きします」
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
第1完結となります!
もし、この物語を少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや★評価などの形で応援をいただけますと、大変励みになります!!




