サウナー、都会の商人を黙らせる
夕暮れ時、俺は商人エリアスを「陽だまりのととのい処」へと案内した。
彼はまだ、どこか鑑定士のような目で、物珍しそうに建物を吟味している。
「ほう、これはこれは。村の建物にしては、なかなかしっかりした造りですな。木材も上質だ」
「まあな。村最高の職人たちが、魂を込めて作ったからな」
俺は平然と返し、彼にサウナ用の腰布を手渡した。
エリアスは、ためらいがちに服を脱ぎ、サウナ室の扉を開ける。
その瞬間、むわりとした熱気が彼の顔を撫で、思わず「うっ」と息を詰まらせた。
「……こ、これは……ただ熱いだけではない。木の香りと……何か、心地よい薬草の香りがする……」
(ほう、この香りが秘密か? 街では手に入らん希少な香木か薬草……? それなら確かに商売になる……)
「セイル特製のブレンドだ。まずは一番下の段にでも座って、ゆっくり体を慣らすといい」
俺が言うと、エリアスは言われた通りに下段に腰を下ろした。
彼の頭の中では、まだ損得勘定が高速で回転しているのが見て取れるようだ。
最初は緊張で強張っていた彼の体が、じわじかいと染み渡る熱によって、少しずつ、少しずつ解きほぐされていく。
額に、首筋に、玉のような汗が浮かび始めた。
「……不思議な感覚だ。体の芯から、何かが温められていく……。街の浴場とは、全く違う……」
俺は何も言わず、ストーブの前に立った。
今日は、俺の最高のパフォーマンスを見せる必要はない。このサウナが持つ、ありのままの実力だけで十分だ。
柄杓でそっと水をすくい、熱されたサウナストーンにかける。
シュワァァ……
優しく立ち上った蒸気が、室内を満たす。
エリアスの肩が、びくりと震えた。
「なっ……! 今のは……!?」
「ロウリュだ。熱した石に水をかけて蒸気を発生させる。」
熱と蒸気に包まれ、エリアスの額からは、滝のような汗が流れ落ち始めた。
(駄目だ……! 頭が働かん……! 思考が……熱で溶けていく……!)
普段、頭の中で常に計算を続けているであろう彼の顔から、商人の仮面が少しずつ剥がれ落ちていく。
「……も、もう、限界だ……!」
数分後、彼は弱音を吐き、よろよろとサウナ室から這い出してきた。
俺は黙って、月明かりに照らされた水風呂を指差す。
「さあ、次はあそこだ」
「なっ……! あんな冷たい水に、入れるわけが……! 体に毒だ!」
エリアスは理屈で拒絶したが、火照りきった体は本能的に冷たさを求めていた。
彼は意を決して、水風呂に足を入れる。
「ひっ……!」
そして、肩まで浸かった瞬間。
「…………っっ!!」
声にならない叫びが、彼の喉から漏れた。
驚きと、衝撃と、そして未知の快感。
彼の目が、大きく、大きく見開かれる。
頭の中にあった雑念、計算、駆け引き、その全てが、この絶対的な冷たさの前で強制的にシャットダウンされていく。
水から上がったエリアスは、生まれたての子鹿のように震えながら、俺に促されるままインフィニティチェアに体を預けた。
背もたれが滑らかに倒れ、彼の体は無重力空間へと誘われる。
「あ……ああ……」
彼の口から、ただ感嘆のため息だけが漏れた。
夕暮れの涼しい風が、火照った肌を優しく撫でる。
川のせせらぎが、遠くに聞こえる。
空には、一番星が瞬き始めていた。
これまで彼が見てきたどんな宝石よりも、どんな金貨よりも美しい光景が、そこには広がっていた。
利益も損失もない、ただ、自分が「生きている」という感覚だけがあった。
どれくらいの時間が経っただろうか。
エリアスは、まるで全てのエネルギーを使い果たしたかのように、椅子の上でぐったりとしていた。
だが、その表情は、村に来た時とは比べ物にならないほど、穏やかで、澄み切っていた。
やがて、彼はゆっくりと体を起こし、俺の方を向いた。
その目にはもう、侮りの色も、値踏みするような光もない。ただ、純粋な感動と、少しばかりの戸惑いが浮かんでいた。
「……サウナー殿」
彼の声は、震えていた。
「……完敗だ。私は、この村の“宝”の価値を、全く理解していなかったようだ」
「分かったか?」
俺は、サドリを一つ手渡しながら、ニヤリと笑った。
「金じゃ買えない豊かさが、この世にはあるんだ。この村には、それがある」
エリアスは、黙ってサドリを一口飲んだ。
その甘酸っぱさが、空っぽになった体に染み渡っていくのが分かった。
「……サウナー殿。一つ、商談を持ちかけてもよろしいかな?」
彼の目が、再び商人のものに戻る。
だがその輝きは、以前とは全く違う、本物の熱を帯びていた。
「この“ととのい”という素晴らしい文化を、私はぜひ、街に……いや、この国中に広めたい。これは、どんな宝石よりも価値がある。どうか、私に力を貸してはいただけないだろうか」
外の世界との扉が、今、静かに、しかし確かに開かれようとしていた。
俺は、彼の真剣な目を見つめ返しながら、これから始まるであろう新しい物語の予感に、胸を高鳴らせていた。




