東郷夏彦の記憶「1号」
…気がつくと僕は真っ白なフカフカのバスタオルに包まれた赤ちゃんを抱いていた。
「わっ!」
思わず声を上げてしまうが、赤ちゃんを抱いている腕は微動だにせず、大事そうに赤ちゃんを抱き続けている。
そうか……。この赤ちゃんを抱いているのは僕じゃない。
おそらく、どこかの産科医で出産を終えたばかりの母親が、生まれたばかりの我が子を初めて抱いているところだと、僕は気が付く。なぜならこの母親は疲れ切っていたから…。なんとなくだが、僕にはこの母親の感情が伝わってきている。
『じゃあ、実際に体感してきなさい。自分の目で見て、触れて……。それで私が言いたかったことに気づくはずよ……。いってらっしゃい…』
僕の額に触れる前に女神が言っていたことを思い出し、僕は合点がゆく。
そうか…。僕は今、僕が手にかけた76人のうちの誰かの赤ちゃんだった頃に遭遇しているんだ。しかもその誰かの実の母親の目を通して…。
生まれたばかりのその赤ちゃんは男の子だった。
赤ちゃんを抱く母親のそばに寄り添っている男性がこの子の父親だろう。目にうっすら涙を浮かべて、嬉しそうに母親と赤ちゃんを交互に見つめていた。
おいおい、まさか僕にこの赤ちゃんが育っていく過程を見せるつもりなのか…。
僕はうんざりしてしまったが、どうにも逃れようのないこの状況に途方に暮れるしか無かった…。
しばらくして、この男の子の名前を知ることになる。
井上裕太。
僕は76人の名前や性別など基本的なことは全て覚えていた。この子のこともちゃんと覚えている。癌を患ってしまった母親のために、通っていた高校を休学して、治療費や生活費を稼ぐために『Z』に加担し、麻薬のバイヤーをしていた悪党だ。
母親のためであるとはいえ、他人を地獄に陥れる麻薬を売り捌き、被害者を広めていた極悪人である。どう考えても死を持って償って当然な人物だったと今でも思える。
数日後、井上裕太親子は無事に産科医を退院して自宅に戻ってきた。親子の家の様子を観察する。そんなに裕福には見えないが、生活苦という様子でもない。父親はどこにでもいるサラリーマンのようで、毎朝スーツを着て出勤していく。
若い夫婦にとって、この赤ちゃんは本当に宝物のような存在のようで、毎日、毎日、甲斐甲斐しく世話を焼いている。父親はかなりの子煩悩のようで、四六時中そばにいられる母親を羨ましがった。母親も育児は大変ではあるが、まんざらでもない様子で「いいでしょう〜」と父親をからかっている。
僕の父や母も、僕が生まれた頃はこの若い夫婦のようだったのだろうか?
ただただ母親の目を通して赤ちゃんを眺めることしかできない僕は、そんな他愛のないことを考えてしまう時間が増えてくる。
ふと幼少期の自分とその頃の父母のことを思い出してみる。
すぐに思い出されるのは、居間のダイニングテーブルで勉強をしている風景だ。母は僕のすぐ傍らにいて、いつも勉強をみてくれていた。父は仕事中なのでその場にはいない。居間には僕と母、そして僕が物心ついた頃からいた、お手伝いの杉田さんという中年の女性その3人だけの時間。僕の幼少期の思い出のほとんどはその時間だけだった。友達と遊んだ記憶は全くといっていいほど無い。
父とのことを思い出してみるが、僕の記憶にあるのは帰宅してキッチンで夕食を済ませるとすぐに自分の書斎にいってしまう父の後ろ姿しかほとんど思い出せない。母とも会話らしい会話もなく、僕を悲しげで寂しげな笑顔で一瞥するとすぐに書斎に向かってしまうそんな記憶しかない。
父とちゃんと向き合えるようになったのは母が亡くなってからだ、それまでの父はほとんど僕に話しかけるようなことはしなかったが、母の死以降は積極的に僕に話しかけるようになった。それまでの僕は父から遠ざけられいると幼心に悲しみを感じていたのだが、それが杞憂だったことがわかり、母が亡くなったというのに悲しいと感じることはほとんど無かったように思える……。
そうなのか……?
いや違う…。僕は母の死を悲しいと感じたことは一度もなかった。それどころか僕は母の死にホッとしていた…。
なぜだろう?……今まで母の死をそんなふうに考えたことは無かったのに、今ではハッキリと思い出せる……。
『…僕は母の死を望んでいたっ!?』
その考えに至った途端に激しい頭痛と吐き気が僕を襲い、僕の持てる全ての気力を奪っていく。
ダメだ!そのことを考えてはいけない!そのことを思い出してはいけない!心の奥から警告が発せられる。
その一瞬のことで僕は激しい虚脱感に襲われ、思考を停止することになった。もうこれ以上なにも考えたくない…。
その出来事以来、僕は幼少期のことを思い出すことをやめた。ふと幼少期のことを考えてしまうこともあったが、無理やりそれ以上は考えないようにして過ごした。
しばらく漫然とした日々を過ごしていたが、時の経過が通常よりも早いことに僕は気が付いた。赤ちゃんだった井上裕太はいつの間にか歩くまでに成長していたからだ。
夜になり、僕が間借りしている母親が眠ると、僕も眠りにつく。そして母親が目覚めると僕も目が醒めるのだが、今朝起きてみると昨日まで寝返りさえできなかった井上裕太が、よちよち歩きで歩いていた。
『助かった…』
てっきり僕は井上裕太が死ぬまでの毎日をずっと見せられるのかと思っていた…。本当に良かった。僕は本来の世界でやり残したことが沢山あるんだ。こんな茶番、見せられる時間が少しでも短い方がいいに決まっている。
井上裕太が歩き出すと、父親が休日の度に家族全員で外出することが多くなった。今日は電車で二駅先にある自然公園まで遊びに出かけていた。その日はいい天気に恵まれ、青々とした芝生の上で親子3人でお弁当を広げていた。
裕太も離乳食を食べられるようになり、母親手作りのお弁当を美味しそうに食べている。
『母の手料理かぁ…』
無意識に幼少期の記憶を辿り出す僕…。先日襲われたあの苦痛を思い出し、慌てて記憶を辿るのをやめようと思うが、親子3人のあまりにも幸せそうな笑顔で頬張るお弁当が羨ましくて、どうしても母が作った手料理の記憶を引き出したくなり、止めることが出来ない。
『あれ…?母の手料理の記憶が無い……』
また、あの頭痛と吐き気が襲ってくるが、今回は僕の知りたいと思う気持ちの方が強いのか、先日ほどの苦痛は感じない。そんなことよりも僕は母の手料理を食べた記憶に辿り着けないことに苛立ちを覚え、あまりに悔しくて泣きそうな気持ちになる。
『ああ…そうだった…。一度だけ母に手作りのお弁当をお願いしたことがあったけ…、でも結局は杉田さんが作ったお弁当だった…』
今、ハッキリと思い出すことが出来た。
僕は一度も母の手料理を食べたことが無い…。
小学生時代、遠足や運動会などでクラスメートたちが美味しそうに食べていたお弁当。彼らは自分の母親の得意料理を自慢げに話していた。それが羨ましくて、次のお弁当持参の機会があった時に僕は母に手作りの弁当を一度だけねだったことがある。
その願いに母は「無理よ…」と一言、僕に告げただけだった…。
僕は食い下がりたかった、どうしても作って欲しいと懇願したかった。だけどできなかった…。その時の母の目がとても恐ろしかったから…。
いつもはとても優しい目で、僕を見てくれていたのに…。その時の母の目は別人のようだった…。その目を見た瞬間、僕の心は一瞬で凍りついたのを、まるで昨日のことのようにハッキリと思い出す…。
なぜ忘れていた?…。今ではその時の状況を鮮明に思い出せるのに…。
僕の落胆と共に幼少期のことを思い出したいと思う気持ちは萎え、代わりにあの頭痛と吐き気が強さを増してくる…。もうこれ以上思い出そうとするのは止めよう…。
いつものように感情を殺して、ただただ井上親子の仲睦まじい姿を見続ける…。なにも感じないように、ひたすら心を無にして…。
裕太がいきなり歩くようになってからのその後は、時間がジャンプすることもなく時間は通常通りに過ぎていく。最後に頭痛と吐き気に襲われてから4年。その4年間を僕はただひたすら裕太の成長を見続けた…。なのに井上裕太に対する僕の感情の変化は全く訪れない。
『こんなことになんの意味があるんだい?女神様………』
そろそろ痺れを切らす頃、そいつはいきなり現れる。
その日は、なんでも無い普段通りの朝のだった。
その日の朝も裕太は母親から「はい連絡帳よ、先生に必ず渡すのよ」と表紙に “のびのび保育園”と書かれてある連絡帳を手渡される。裕太は自分で保育園に通う準備をしていた。
「ねぇ、このランドセルで保育園に通っちゃいけないの?」
保育園用のバッグに荷物を詰め込みながら、裕太は懇願するように母親に尋ねる。
「ダメに決まってるでしょ!それは来年小学生になった時に使うものなのっ!。今ランドセル背負って保育園に行ってごらんなさい、裕太、みんなから笑われちゃうぞ〜!」
母親は裕太をくすぐりながら、ランドセルを取り上げようとする。
「キャハハハハっ!わかった、わかったよ〜」
「よしっ!素直でよろしい!」
渋々母親にランドセルを渡した裕太は、保育園用のバッグに荷物を入れていく。
「裕太、そんなにそのランドセル気に入ったのか?お父ちゃん奮発して良かったよ」
その様子を見て、鏡に向かってネクタイを結んでいた父親がニコニコしながらご機嫌な様子で裕太に話しかけている。
『そうか…裕太は来年小学生か…。僕は小学校から難関私立小学校のお受験組だったから、通学はランドセルじゃなかったなぁ…………』
受験???…………
…まただ!また僕の中から疑念が湧いてくる。
僕が通っていた小学校は全国でも屈指の名門校だ。ちょっとやそっと勉強したところで合格なんてできるはずもない、そんな超難関校を受験したはずなのに、受験勉強をした記憶が全く無かった…。それどころか……
なぜだ!なぜ今まで気づかなかった!
記憶が無い!小学校に上がる前の記憶が全く無い!
まるで、道路が途中で崩落してその先の道がすっかりなくなっているように…。ぽっかりと大きな真っ黒な穴が空いていて、ほんの小さな記憶の欠片すら見当たらない!
『とうとう俺のところまで辿り着きやがったかぁ…』
突然、僕の耳元で囁くような声が響く!
間違いないこの声は僕に向かって話しかけている!
『誰だ!?』
『誰だぁ?そりゃ俺はお前だよとしか言いようがないなぁ…。分かり難いだろうから、“1号”とでも名乗っておくかぁ。なぁ“2号”?』
『……なにを言っているんだ?…俺はお前?…1号?…そして僕は2号?』
『わかんなそうな顔をしちゃいるが、なんとなく理解してんだろ?なぁ2号?』
『………………………………』
『面倒くさいから教えてやんよ。俺はお前が小学校に入る前のお前だ!?…んっ?なんだか自分で言っていておかしな感じかがするなぁ…まあいい!それで大体見当つくんだろぉ?』
『………あぁ…大体見当はついたよ…。君が話しかけてきた瞬間にそうじゃ無いかなとも思ってもいた…。それに君…僕がトラックに轢かれそうになって、初めてゲートを発現することになるちょっと前に、僕の頭に直接声をかけてきただろう?』
『なんだよぉ!気付いてたのかよ!それならそうと早くいえよなっ!』
『頭で理解しても、それを素直に心が受け入れるかどうかは別の話しだろ…』
『ああ…それもそうだな…。でも、お前は小学校入学前の自分をどうしても知りたくて俺のところまでたどり着いたんだろ?…俺としては知らない方がお前のためだとは思うけど…』
『ああ、知りたいね!どうしても知りたい!』
『まぁそう言うだろうなってことはわかっていたよ…。だけど、しらねぇぞ後でどうなっても…』
『ああ、どうなっても構わない!僕は平気だ!』
…僕が2号だって?それじゃ僕は後から出てきた紛い物だって言うのか?冗談じゃない。僕は初めから僕だ。聞いてやるよ小学校入学前のことを。
1号と名乗った僕の片割れは、心底心配そうにしながら、入学前の出来事を語り始めた……………。
『オエッ!ゲェぇぇぇぇぇ』
1号の話を全て聞き終えた僕は、想像以上にあまりにも壮絶だった過去の出来事に、我慢できず嘔吐した…。
『だから言っただろう、聞かない方がいいって…大丈夫か?』
『はぁっはぁっ…………。大丈夫……。僕は平気だよ…』
『そうは見えねぇが…』
『いや、本当に大丈夫だよ。おかげでスッキリしたぐらいだ』
『いやいや、スッキリって………』
『なんだろう…。例えて言うと、前の僕は学校の中でいつも上履きを片方しか履いていなかった…だけど、君の話を聞き終えて、やっと両方揃って履いているって感じかな…』
『ハハハっ…それは妙な例えだなぁ…でもわかるような気がするぞ!』
『君は学校に通ったことがないんだろ…上履きなんて履いたことも無いんじゃないのかい……』
『それが履いたことがあるんだなぁ…。ていうかお前が履けば、俺も履いているっていえばいいのかな。お前の体験したことは、全て俺も体験できてるんだぜ。そうだな…五感は全て共有できていると言った方がいいのかな…。ただ俺の思い通りに動けなかっただけでな』
『それは気の毒だったね…』
『そうでもねぇよ。それなりに楽しかったぜ!…ただ…お前の起こした事件は別だけどな…』
『君は…君までも…僕がやったことは間違っているって言うのか?』
『まあ、そうなるわな…気持ちは分からんでも無いがやりすぎだろ?…俺と出会って昔の自分を知って、それでもお前の考えは変わらなのか?』
『それが…よく分からなくなってきてるんだ…』
『じゃぁ、わかるまで続きを見ようぜ。裕太の人生…。それから多分だけど裕太以外の残りの75人の人生も…』
『そうだね…。やっぱり君も女神様から76人全ての人生を見せられると思っているんだね?』
『ああ、間違い無いだろぉよ。それから女神さんがお前には伝えてないことも俺は知っている…』
『えっ!?なんだい、その僕には伝えて無いことって…』
『それは、追い追いな…。今は話せない…。お前の考えがはっきりすれば、その時に話すよ。俺の考えも一緒にな…』
『………わかった。それに君もなにやら考えているんだね…。そうだね…僕の考えがはっきりした時に聞かせてもらうよ……』
思いがけず、僕は相棒を得ることとなった。
今は不思議と落ち着いている。もう記憶を辿っても頭痛や吐き気は襲ってこないと根拠は無いけど確信もある。
見届けよう、僕が殺めた76人の短い人生を…
たった今、生まれた決意のようなものに僕は従おう………




