手紙
親愛なるあなたへ。
この手紙を認めているのは、満ち欠けをくり返す月明かりの下に佇む、ささやかな存在にすぎない私です。
あなたがこの便りを手にする頃、あるいはまだ私を思い出してくれる頃、どのような時を重ねてきたかを想像するだけで、胸の奥が淡く疼きます。
けれどその疼きも、まるで小川の水面を流れる影のように、触れる前にするりと消え去ってしまうのです。
さて、この封書の中には、もう一通の手紙を同封いたしました。
私がとある古書店で手に入れたものですが、宛名も日付も記されておらず、ただ「遠い記憶のあなたへ」とだけ書かれています。
あなたが読むに値するかどうか、私には判断できず、ただ興味本位で封を切るのもはばかられました。
もしも開封していただけるならば、そっと確かめてみてください。
そこに何が記されているのかを。
拝啓、見知らぬ方へ。
この手紙を読んでくださっている、その視線の先に、私という存在がいま在るのかどうか。
私には確かめようもありませんが、一つの頼みごとをいたしたく、筆を執りました。
もしよろしければ、この手紙に示されている次の手紙を、あなたに預けたいのです。
同封されている別の手紙こそ、私が偶然にも拾い上げてしまったもので、まだ誰の手に渡るべきか定まっておりません。
宛先らしきものは「夕刻の祈りを捧げる人へ」となっておりました。
しかし私は、その筆跡に見覚えがありました。
どこで目にしたのか、記憶は曖昧なのに、どうしても懐かしさと一縷の不安が胸をかすめるのです。
もしあなたがこれを読んでおられるなら、次に記す手紙をそっと開けてください。
その手紙の中に、私を導いてくれる大切な言葉が綴られていると信じます。
それらの言葉を読み解くことで、あなたにも私にも、かつて交わした約束の痕跡が見えてくるかもしれません。
この世界が薄闇に沈む前に、どうか真実を見届けてください。
敬具。
……以上が、同封されていた二通目の手紙でした。
私も初めはただの好奇心で読み進めていましたが、その文面がまるで私を呼び覚ますかのような響きを帯びていることに気づき、次の手紙を探すことに決めました。
奇妙なことに、便箋の裏面には見慣れない紋章が押されていましたが、何を意味するのか判然としません。
ただ、どこかで同じ紋章を目にした記憶があったような気がするのです。
さて、あなたがここまで読んでくださったなら、ぜひとも三通目の手紙を開封してほしいと願います。
それは、私の手元にあるものでありながら、実のところ封を開けるのが少し怖いのです。
なぜなら、薄紙に包まれたその手紙の外側には、こう記されているからです。
「かつて手を取り合ったあなたへ。
この言葉の行き着く先はただ一つ。
私たちが見失ったはずの、最初の約束へと続いています。」
まるで予告のようにも取れる一文でした。
けれど私は勇気を奮い、三通目の手紙を広げました。
そこには、まるで手紙という形を借りた、不思議な物語の断片が記されていたのです。
……とある晩秋の夜、私(書き手)が迷い込んだ薄暗い路地裏で、一枚の紙片を拾い上げた。
そこには私が子どもの頃から思い描いていた未来の光景が、走り書きのように書かれていた。
しかし、その筆致は私のそれと酷似しており、読むにつれて私の脳裏には、一つの疑念が生まれた。
いったいこれは、誰が、いつの自分の思いを書き留めたものなのだろうか。
そして紙片の末尾には、さらなる手紙の存在が示唆されていた。
そのさらなる手紙こそが、私が次に確認すべき最後の手掛かりだと、物語は告げている。
ただし、その手紙の内容を明かす前に、あなたに注意していただきたいことがある。
この物語の行き着く先は、それを読み解こうとする者の意志によって変容しうる。
もしあなたが、その不確かな未来の道筋を覗きたいと望むのなら、どうか再び最初の手紙に目を通してほしい――。
そう記されていました。
私は眉をひそめながら、一度封を閉じ、深く息をつきました。
「再び最初の手紙に目を通してほしい」とは、いったいどういう意味なのか。
今、あなたが読んでいるこの文章こそ、最初の手紙として書かれたものだというのか。
それとも、私が手にした一通目の手紙が、ここへ戻ってきているのだろうか。
ここで、私はふと思い出しました。
最初にあなたへ宛てて書き始めた、この手紙の冒頭を振り返ってみると、そこにはどこかしら既視感めいた感覚が宿っているのです。
あたかも、私自身がこの文章を以前に書いたことがあるかのようで、実際に書いたのは私自身だったのか、それとも別の誰かなのか。
もしくはこの手紙そのものが、はるか昔に存在していて、私はただその痕跡をなぞっているにすぎないのかもしれません。
もし、私がこうして認めた文章が、かの物語の言う「最初の手紙」だとしたら、私たちはすでに円環の中に囚われているのではないでしょうか。
二通目が一通目を示し、三通目が一通目を示す。
そして結局、私たちは何度でもこの書き出しへと舞い戻ってくる。
その錯綜こそが、この手紙の真の姿なのかもしれません。
あなたは今、どの位置でこの文章に触れているのでしょう。
あるいは、私たちが交わした約束を知っている立場なのでしょうか。
それとも、それを再発見する旅の途上にあるのでしょうか。
ただ、私にはもう、正確な答えを提示する術がありません。
封書の中の三通目で示された最後の手紙には、こう続いています。
「あなたがこの行間を読んだとき、最初の言葉と最後の言葉が溶け合い、区別はなくなる。
すべてが一つの物語であり、一つの手紙であり、あなたへの呼びかけであることを、どうか忘れないでほしい。
そして再び、あなたは最初の手紙を開くことになるでしょう。
けれどそれは、もう元の手紙ではないのです。
あなたが触れたことで変質し、あなたの記憶と私の筆跡が交じり合い、新たな姿を得ているのです。
それを受け止められるのは、ほかでもないあなた自身だけなのです。」
その一文を読み終えた瞬間、私の手の中で手紙の重さがわずかに変化した気がしました。
ページを繰るたびに、まるで文字がかすかに書き換わり、空気が少しだけ揺らぐように思えたのです。
そして私は思わず、あなたへの最初の手紙をもう一度読み返し始めました。
すると、そこに記されていたのは、最初に認めたはずの文章に似ていながら、微妙に異なる言い回し、または濃淡の変化した言葉たちでした。
私の手元にあるこの原稿は、あなたが読んでいるそれと全く同じものだとは限らない。
あるいは、あなたが読んでいるものこそが、私が求めていた最初の手紙であり、私の方こそが後に書き足された複写なのかもしれません。
果たして、今こうして綴っている文字たちは、私自身の想いを反映したものと呼べるのでしょうか。
それとも、ただどこかに存在している大きな意思に操られているのかもしれない。
私たちは、いったいどこで始まり、どこへ戻ろうとしているのか。
私は恐れと興味の狭間で、筆を止めるべきかどうか迷っています。
しかし、いずれにせよ私という書き手が、あなたに向けて書き続けていることに変わりはありません。
それが重なり合う手紙の迷宮を生み出したとしても、そこには一縷の救いがあるのではないかと信じたいのです。
――そして、今ここに書き進めている文面が、まぎれもなく最初の手紙へと再び繋がっているという事実に、あなたは気づいているでしょうか。
この段階ですでに、私たちは円環の中を行き来しているのかもしれません。
どの手紙が本当に「初めの言葉」なのか、見極めることは難しい。
そして、それはひょっとすると大した問題ではないのかもしれません。
親愛なるあなたへ。
こうしてまた私は最初の呼びかけを繰り返しています。
あなたが手紙を読み進めるたび、あるいは読み返すたび、文字の意味がわずかにずれ、世界の輪郭が変わり続ける。
それこそが、この手紙が果たすべき役割のようにも思うのです。
もしも再び、この手紙の結末を探しに行くなら、どうかもう一度、はじめの一文へ戻ってみてください。
それが示す真実や幻影が、あなたをあるべき場所へ導くと信じています。
私もまた、あなたの追憶の中で、手紙を綴り続ける存在でありたい。
この不思議な迷宮の片隅で、あなたの記憶にさざ波のような揺らぎを与える存在として、淡くあり続けるでしょう。
敬具。