四日目 2/2
「……先生、クーラーの設定温度下げすぎです。いくら夏だからって、これじゃ体を壊しますよ?」
「そうみたいだね」
コーヒーを飲み直して落ち着いた僕は、担当の榊を招いて仕事の打ち合わせを始めた。
と言っても、今来ている依頼はペット雑誌のコラムぐらいなものなのだが。自分からグイグイ仕事に食いつくタイプでもないので当然といえば当然か。
いないペットの記事を書くなんて、あまり気乗りしないものだ。
「それで、一昨日の件は順調ですか?」
ややため息交じりに尋ねられたことが不愉快だったが、ここはグッと堪えようじゃないか。
ミツコのためだ、ミツコのため、ミツコのため……
「あ、ああ、順調だよ。バットエンド、というのも中々悪くない」
「それを決めるのはあくまで俺ですからね、とにかく明日ですよ、締め切り。先生ご自身が無茶なことを言ってるって自覚はありますか」
「も、もちろんだとも。明日までに書ききってみせるさ」
「はぁ、ちゃんとデータは分けといてくださいね? 後で無しになっても原案から書き進められるように」
「バックアップは取ってあるから……」
やや厳しい口調で言われて、僕はたじろぎながらもそう返答した。
……そうだ、この際、はっきりと聞いてみたらどうだろうか。
なにを? ……例えば、僕が置かれている現状とか、僕をこんな風に追い込んだ相手が捕まった場合に課せられる刑罰とか。
“七夜”から他言無用だと念を押されたのを思い出す。……執筆に必要な情報ということにするか。
僕は世間話を装って、何気なく担当に質問してみた。
「あのさ、ペットを誘拐して飼い主を脅迫する場合、その犯人にはどんな罪状が言い渡されるの?」
「はい? ……えっと、いきなりなんの話ですか?」
うわっ、さりげなく聞いたつもりなのに、なぜか凄く怪しまれているぞ!?
こいつ……ここ数日でやたらに勘の鋭い男になったな。……いやそれとも、これが普通の反応、か?
僕は、あくまで創作の一環として尋ねている旨を伝えると、彼はすぐに警戒を解き、ネットを介して情報を集めだした。
「そういえば、ペットを殺したら器物損壊罪なんて聞いたりしますけど……今では古いんですかね……」
こいつ、なんか恐ろしいことを呟きながらスマホの画面を覗いてるぞ。
そんなこと言うの止めてくれ、縁起でもない……
「うーん、刑法のことはもうちょっと詳しく調べないと分かりませんけど、ネットの情報をパッと見た感じじゃ、ペットを殺害しない限り、恐喝罪になるんじゃないですかねー」
そう結論付けて、榊はスマホから視線を離した。
ふむふむなるほど……恐喝罪か……
………………いや、まぁ、それを聞いたところでどうにかなる問題じゃないが。
少しでも相手の弱みみたいなものを掴んでおこうかな、と勇んでみただけであって、やはり“七夜”の命令を逸脱するような行動は取れそうになかった。
ミツコの安否を危惧しているのも理由の一つだが、そもそも、相手の所在を掴めていないのが現実である。自分一人ではどうしようもない。
やっぱり、黙々と筆を動かし続ける他に道はないのか……
「それじゃ、俺はそろそろ失礼しますね」
「ああ、コーヒーありがとう」
短い挨拶の後、榊が入り口に向かう途中で、
「あ、そうそう。東尾さんが顔を見せていたんで先生の居場所を伝えておきましたよ」
「余計なことを教えるなアアア!!!」
と、声の限りに怒鳴り散らかしてしまった。
それから数分後、甘い匂いを嗅ぎ付けてきた害虫の如き小説家H氏が、切磋琢磨を偽り妨害工作を謀りにやってきた。
「あぁれぇ? ここはやけに涼しいですねぇ! 大先生は執筆環境からして格が違いましたか」
きっと意味の通らない戯言のような嫌味をほざいているだろうがスルー。耳栓を完備しているのでどんな大声だって漏れ聞くことはない。
しかし直後、それは誤った選択なのだと痛感する。
「…………」
とんとん。
「………………」
とんとんとん。
「…………………………」
とんとんとんとん。とんとんとんとんとん。
振り向かない僕の半肩を、叩くような揺するような衝撃が幾度も幾度も繰り返される。
決して反応してはならないと過去の僕が戒めるが、その間も、
とんとんとんとん。とんとんとんとんとん。ととととととんっ!
段々とリズムを乗せて、
ととんととんとんとんとんととん! とととんとととんとととととん!!
「う゛んがあ゛あああああ!!!!! あ゛あ゛あああああ!!!!!!」
ブオゥン!!
背後に佇む野郎を目掛けて、思い切り肘を引く。
だが、その感触は敵の腹部を捉えることができず、音を立てて空を切った。
「そんな動きじゃまだまだですよぉ? 私に当てたかったら脇を締めてもっと機敏に!」
(うぜえええええコイツ超うぜええええええええ)
僕が堪らず耳栓を放り投げると、なにを勘違いしたのか、東尾はひょろりとした外見でファイティングポーズを取り始めた。
どうやら、こいつはとことん僕の邪魔がしたいらしい。どう受け取ったって好意的に解釈できない。
「ほらほら、掛かってきてください。鈍った体には丁度良い活って奴ですよ?」
この世の何よりも無駄に整った顔を意地悪く歪めた東尾を見て、僕は、
「ぎえええええあああああああああ!!!!!!!」
殺気を滾らせながら疾走した。
狭い室内を縦横無尽に立ち回り、東尾との間合いを一息に詰める。
「そのていd」
喋ろうと口を開いた東尾の顔面を目掛けて炸裂するパンチ。
瞬間、紅い飛沫が宙を舞う。
「こ、これぐr」
続けざまに繰り広げられる強烈なボディーブロー。
ねじ込むように打ち付けると、東尾の口から圧迫された肺の空気が零れだす。
「ちょ、ちょっt」
パンチ、パンチ、パンチ、パンチ。無我夢中でパンチ。
トドメと言わんばかりに“股間”を狙って膝蹴りをかます。
力強く、最大限の力を以ってして、且つ俊敏に!!
「う、うごっ……」
白目を見せたが最後、彼は弱々しく膝を突くと――――
「ひきょぅ…………だ……」
――そんな呟きを残して、無残にもKOされたのだった。
あまりにも、弱すぎる。
「………………」
起き上がる気配はなかった。
自分から構えを取っておいてこうも戦い甲斐のない相手だと、その弱さに少しだけ同情の気持ちが湧いてきた。
一ミリぐらい湧いてきて、二秒で消えた。
…………今日はもう、帰ろう。
冷静な自分を取り戻した僕は、作家の骸を背後に個室を出た。
午後の七時十六分。
クーラーと個室の明かりを同時に消して、何事もなかったかのように退社した。
帰り際に、東尾の担当編集さんから東尾の所在を尋ねられたが、「知らない」と答えた。
(ついに締め切りは明日に迫ったか。明後日にはどうなるのやら……)
コンビニの弁当を持ち帰りながら、そんなことを考えた。東尾? 誰なんだそいつは……