二日目
【二日目】
次の日、担当の榊が僕の部屋にやってきた。
陽気な顔で、ずかずかと入り込んでくるものだから嫌気が差してしまう。
昨日の夜にあんなことが起きたばかりの僕には、その楽天的な表情を受け入れるほどの余裕はない。
「あれ、先生の部屋って猫を飼ってましたよね、ちょっと不細工な顔の」
ピキピキ、と血管の浮き出る音が聞こえてきた。僕のこめかみ辺りからだろうか。
とりあえず怒りを抑えて、現状を悟られまいと言葉を濁す。
「ミツコはちょっと体調が芳しくなくてね……動物病院の方に預けているんだ」
「えぇーマジですか? 早く良くなるといいですね……」
「ああ……」
気に掛けてくれるのは嬉しいのだが、反面、なんだか申し訳ない気持ちでもある。
体調が良くなかったのは本当だし、動物病院に預けているというのもあながち間違いではない、はずだ。
――もしも榊に真実を伝えればどうなるのか。まだ犯人の動きが掴めない以上、下手に動いてミツコの身に危険が及ぶのだけは避けたかった。
だから僕は、昨日のことを誰にも相談しないと決めた。
「しっかし、いつ見ても先生の部屋ってダンボールしかないですねー」
……そもそも、こいつに話したところでどうにかなるとは思えないが。
「それじゃ早速、昨晩の電話でお伺いした新作の用件について話し合いましょうか」
「ああ」
申し訳程度に置かれた机を挟んで、僕達は腰を下ろす。
――『ハッピーエンドに、変えろ』
ふと気を緩めた瞬間に“七夜”の声が蘇る。
ああ、分かっているさ。ミツコのためだ、覚悟は決めた。
――『出版用と俺用の二つに書き分けるのは無しだ。俺の指示した通りの物語を、世に出せ』
――『先生が早くしないと猫の方が持ち堪えられないかもな』
ミツコっ……!
「それで、どんな用件なんでしょうか。……もしや、続編の原稿が完成したとか!?」
榊が期待に目を光らせる。
いいや、全然違う。むしろ僕は、真逆のことを言おうとしている。
「実はね……」
緊張で喉が強張っていく。こんな相談を担当に持ちかけたことなど一度もなかった。
どんな反応が返ってくるかなど、想像に難くない。
「は、はい……!」
僕の張り詰めた雰囲気が伝わってきたのか、榊もまた、緊張しているようだった。
……僕は今、作家人生における、最大の難関に挑もうとしている。
カウントダウンはとっくのとうに始まっていた。後戻りなどできはしない。
「実は……『半透明の生者』のエンドを……」
一拍置いて、はっきりとそれを言葉にする。
「“バッドエンド”に変えたいんだ」
「…………………………え」
――はい、終わった。
担当の顔を覗く。
そこには、小さな驚きが張り付いていた。
だがそれは、見る見るうちに大きな驚愕へと変貌していった。
「……な、な、な、」
「なんですって!!!!!??」
狭い部屋の中を、榊の絶叫が飛んだり跳ねたりを繰り返した。
ここまでは予想通りの反応だ。場数を踏んだ編集者ならば、こうも驚きはしないのだろう。
「頭でも打ちましたか!? まさか、鬱病なのでは!? バットエンドってなにを言い出すんですか!? なにかの暗喩ですか!?」
(すごく混乱してるなぁ)
僕が黙っていると、今にも頭を振り乱しながら掴み掛かってくる勢いだ。というか既に襟首を掴まれている。
とりあえず、冷静になるように説得するか……
「落ち着いてくれ、ちゃんと案はあるんだ」
「あ、ああぁん??」
こいつ、混乱しすぎてチンピラみたいになってるぞ。
「かぁーらぁーだぁーを揺らすーぅなぁー!」
ついに発狂してしまった榊に、僕は縦に横にと力強く揺さぶられる。
怖い。担当をここまで狂わせてしまうとは予想外だ。それとも、榊のメンタルが特別に弱いのか。
「ちゃんと説明するから、さっ! とりあえずっ、襟首から手をっ離せっ!」
「うおおおおおおおおおおおお!!!」
そうして鬼と化した担当を沈め……もとい鎮めるのに、丸々一時間は掛かった……
*
「つまり、“七夜”の結末を少し変える、という認識でよろしいですか」
不平不満を隠さない語調とやや強気の姿勢で、榊は言った。
「あぁいやー、どうかなー」
「どうかなって、先生が言い出したんじゃないですか!?」
「うん……」
普段、相手の言動に突っ込みを入れる立場が逆なだけに、慣れない非難を受けて尻込みしそうになる。
しかし、僕だって言いたくて言っているわけじゃないし……などと弱音は吐けないのだ。覚悟を決めなければならない。
問題はどう、担当編集者を納得させるか、だろう。
この際、新作の整合性など端から無視しよう。作家人生など投げ捨てて構うものか、ミツコさえ無事に帰ってくれればそれでいい。
要は……あの誘拐犯、または殺人の疑いがある犯人の要求を通過し、厳しい編集の目さえも潜り抜けるバットエンドを作ればいいんだよな。
思わず納得させるほどの衝撃的なオチが無難だろうか。どんなオチなのかはさっぱりだが。
(おいおい榊よ……そんな目で見ないでくれ……僕も混乱してるんだよ……)
考え込む僕の横で、疑わしい目つきを向けてくる榊がどっしりと正座していた。
榊のいつもの頼りなく感じる言動は、彼なりのコミュニケーションの一環であったことを、今、まざまざと思い知らされた。
榊は今に限らず生真面目な男だった。
ただ、不器用だし、価値観だって他よりズレている節がある。場合によってはひょうきん者に見えるかもしれない。
……だが根は生真面目な男だ!! 生真面目すぎるくらいに!!
(くっ……!)
こいつは厄介な担当だな……と、日頃とは別の意味をもって事新しく実感した。
最初の難関が今、目の前にいる……
「……それで? どう変えるんですか」
「そこはまだ詳しく決まってないんだけど……」
「そうですか。ではこうしましょう。それは一時の気の迷いだった、と。今まで通りに進めましょう」
「ま、待ってくれ。頼む、変えさせてくれ、いや変えさせろ!」
「嫌です!! おとこわりします!!」
おとこわり……男割りってなんだよ、クソっ!
相手のペースに飲まれてはいけない。ミツコのためにも勝つんだ。
僕は、意地でも納得させてやろうと食い下がった。
「どうしても七夜を生身のままで、加えれば報われるような形で終わらせてあげたいんだ!」
「そんな終わり方は不自然すぎますよ! 前編の流れやキャラの動き、ガン無視じゃないですか!!」
「いいや、まだ間に合う。今なら不自然に思える流れを修正して、七夜のエンドを優先させられる!!」
「いいや、それは許されない。許されない!!」
「許される!!」
「許されない!!」
「許せ!!!!」
「許さん!!!!」
「うおおおおおおおおお!!!」
「おおおおおおおおおう!!!」
闘牛も驚きの速度で取っ組み合い、僕らは互いの意見を譲ろうとはしなかった。
申し訳程度に置かれた机をひっくり返し、乱闘は激しさを増す……!
「僕は作家だぞおおおお!!!!」
「俺はその担当だあああああ!!!!」
辺り一面のダンボールをものともせずに、暴力を伴った主張を押し付け合う。
相手が負けを認めるまで、この戦いを終えることはできない!
肩をぶつけながら、両手を掴み合いながら、揺るがぬ視線を衝突させながら……!
「認めろおおお!!!! 今なら昇給するように上に掛け合ってやってもいいぞ!!!」
「だが断る!!!!」
アパートの二階であることをすっかり忘れて、乱闘を続ける。
隣の部屋や玄関のドアから抗議の声が聞こえてきたが、一心不乱に戦い続ける。
そして……
「………………分かりました。はい、すみませんでした」
大家さんの警告を聞き届けた後、深々と頭を下げる。
話し終えた大家さんが出て行き、ゆっくりと閉まっていく扉を確認して、ようやっと頭を上げることができた。
つい先ほど、隣の住人や大家さんを無視して乱闘を続けた結果――この次も今みたいに騒ぐようならば家賃を上げるぞ、と説き伏せられていたのだ。
奥の方で座して待つ担当の榊も、心なしか、顔を青ざめさせているようだった。
転がる机を元に戻して、榊の向かい側に座った。
「僕はまだ諦めていないぞ。……そうだ、勝負をしよう。ババ抜きとか、腕相撲でもいい」
「いいえ、勝負はしません。……変更の件は分かりましたから」
「なに、本当かい! それならば早速、取り掛か――」
「ですが……条件があります」
「じょ、条件?」
榊の両目がスッと細められる。
その言いようのない気迫を前に、実はこいつ、担当編集としてはそこそこ有能なのでは……と思った。こんな事態でなければ素直に評価できたというのに、歯がゆい限りだ。
「“三日後”までに俺が納得のいく結末を考えてこなければ、この変更は無しです!」
「み、三日後……!」
三日後……三日後………………なんとかいけそう、か?
僕はすぐにアイデアを閃かせるタイプではないし、速筆というわけでもない。
しかしだ、囚われたミツコのことを思えば、少しでも早く“七夜”の要求に答えることが、単純ながらにベストだと判断している。
ここは耐え忍び、己のためにも了承の意思を見せるべきだ。
「分かった……必ず納得のいく結末を用意しよう」
電話の向こうから発せられる冷たい声に従い、相手のシナリオ通りに動かざるを得ない状況に不快感を覚えつつ……
僕は担当の榊を見据えたまま、しっかりと頷いた。
*
榊が部屋を後にしてしばらくが経っても、僕は気抜けしたまま座り込んでいた。
ミツコの安全を確かめたい、と頭の中で何度繰り返し願ったところで、現状では“七夜”と連絡する手段がなかった。
――昨晩に掛かってきた電話は、当然、非通知から掛けられてきたものである。
せめて、双方向に連絡が可能ならば……と、ついつい気掛かりと不服を募らせてしまう。
あいつは作家のモチベーションというものを理解していない。こんな状況下で、満足にいくものが作れるわけがないのだ。
「……絶対、あの電話の男は眼鏡を掛けた根暗な奴だ。ああいう喋り方は眼鏡で根暗だと相場が決まってるんだ」
もちろん、無根拠に湧いてきた偏見だが。
「はぁ……僕はなにをやってるんだろう」
天井を仰ぎ見て、深いため息を吐く。
そう思うと、突然、疲れがどっと溢れ出てきた。体を横たえれば、まるで、地面に虫ピンで固定されたかのような錯覚に陥った。
……今日はもう休むことにしよう。気疲れでどうにかなってしまわない内に。
瞼をゆっくりと閉じる。ダンボールの山を視界の端に捉えながら……
……そういえば、なぜ“七夜”はこんな要求をしてくるのか。
ただ単に『半透明の生者』のファンというわけでもなさそうだし、登場人物である七夜のファンという風でもなかった。
あの声を聞いて、そのどちらでもないと直感が告げる。……あの声からは熱狂者特有の“思い”が感じられなかったのだ。
考えれば考えるほど、相手が何者なのか、分からなくなっていく。
意識は螺旋に広がる思考の底へと落ちていった……