一日目 2/2
人質ならぬ、猫質。
電話越しに聞こえてくるミツコの悲しい声に、胸が締め付けられる思いだった。
「……ただの脅しではない」
誘拐犯の声は、まるで無機質な人形のような冷たさを帯びていた。
無感動な声音のせいで老けて聞こえるが、おそらく、歳は僕よりも若い。若いのだが……
金目当てではない。そんな意思が声から伝わってくる。
「なにが目的だ」
「……『半透明の生者』」
「……は?」
いきなり告げられた自身の著作名に、変に上擦った声で聞き返してしまった。
「……読んだ。面白かったぞ」
「は、はあ……ありがとう?」
(……って、なにを素直に言い返しているんだ、僕は)
素直に賛辞を呈してくるこの誘拐犯も、どうかと思うけど。
「……その本に“七夜”という少年がいるな」
「いるけど……それがなにか?」
「七夜の結末を教えろ」
「え、ああ、いいよ」
予想に反して、その要求は容易いものであった。
もしかして、それがミツコを誘拐してまで果たしたい目的だというのか。
そういえば、担当の榊から聞いた話の中にもこんなことがあった気がする。直接、作家本人に続編の結末を尋ねる読者がいるんだとか。
この状況下でその類に当たったとなれば、不幸中の幸いと考えるべきだろう。……なんで電話番号を知っているのかはともかくして。
「ちょっと待っててくれ」
ミツコの無事を祈りながら、鞄の中から原稿用紙を数枚取り出した。
一応、全体の構想は既に決定している。箱書きと言えるのかは微妙だが、重要なシーンの要点だけは書き留めてある。
その中に書かれていた七夜の結末を、余すところもなく誘拐犯に伝えた。
「えっと、最後の復讐に友樹と相対して、宮代の死の真実を知った七夜はフェンスからその身を投げて――」
「駄目だ!」
「……あ、あ?」
それは、はっきりとした“拒絶”の言葉だった。
怒りさえ含んだ声に、僕はしばらく戸惑い、口をぽっかりと開け続けた。
すると、やけに感情的な態度を見せたと思った電話の相手は、先ほどとは打って変わり、
「……変えろ」
と、やはり機械的な声でそう告げたのだ。
……なるほど、そういうタイプの読者ときたか。
前言撤回、この状況下でその類、作家人生における最低なケースとみた。
担当の榊から聞いた話の中にさえこんな傍迷惑な奴はいなかった。直接、作家本人に結末を“変えろ”と命令してくる読者なんて。
「七夜のエンドを……どう変えろと?」
「ハッピーエンドに、変えろ」
「そ、そんな無茶な! こいつには哀れな過去こそあれど、物語の中じゃ悪役に位置するんだぞ。それじゃ“バッドエンド”だ!」
そう抗議した途端、
「……いいか、よく聞け。……俺はこの電話以降、“七夜”と名乗る。なぜか分かるか?」
声を潜めるように言った。
その響きに、相手を脅しかけるような攻撃性はない。だというのに、僕は得体の知れない恐怖に背筋を寒くせざるを得なかった。
「……俺は現在、七夜と同じように、復讐相手を一人ずつ手に掛けてきた。……同じような理由でな」
「て、て、手に、掛ける……?」
「……どういう意味か…………物書きである先生ならば、その程度は分かって頂きたい」
ひどく落ち着いた口調で、こいつは一体、なにを白状しているのか。
混乱する頭の中で、歪む視界の中で、一匹の猫の鳴き声が聞こえてくる。
ふわふわとしていた現実味が、隅の方で縮こまっていた良くない可能性が、愛猫の鳴き声によって次々と形を作っていく。
(ああ、そんなまさか……)
小説家の僕でさえ、こんな非道な筋書きを書いたことはなかった。
殺人鬼を名乗る男に、愛するミツコを誘拐されて、あまつさえ作家人生を棒に振れと脅されているのだ。
「……ぁ、ぁ……」
あまりの絶望にスマホを落としそうになった時、“七夜”は冷めた声で話を続けた。
「当然だが、このことを警察やその他の人間に口外するな。外出先も制限させてもらう。出版社と例の喫茶店以外には出歩くな」
「もしも、この制約を破れば、先生の可愛い猫に命はないと思え。……中身だけくり貫き、剥製にして玄関に飾られたくなければ、命令通りに動け」
「ぁ、ああ分かったっ」
「……今から指定するメールアドレスに、原稿を書き終え次第、添付して送信しろ。……いいか、七夜のハッピーエンドを書くんだ」
「そ、そうするよっ」
やや遅れて口にされるメールアドレスを、僕は必死の思いでメモ用紙に書きなぐる。
「……それと、出版用と俺用の二つに書き分けるのは無しだ。俺の指示した通りの物語を、世に出せ」
図星を指されてぎくりとした。
やはりこいつはそういう意図で要求してくるのか。
「っ、それは無理な話だ まず担当や編集長に却下され――」
「俺は。動物の世話が得意な方ではない。書き終えるまでの期限はあえて決めないが……先生が早くしないと猫の方が持ち堪えられないかもな」
「んなっ! おい、ふざけ――」
「以上だ。妙な気は起こすなよ、お前の行動は全て筒抜けになっている。……では」
「あ、待っ――」
……ブツッ!
こちらの意見などまるで聞く耳持たずで電話を切られてしまった。
せめて最後に、ミツコの安否確認として鳴き声だけでも聞きたかったというのに。
「クソッ、好き放題命令してくれる。……ぁあ、ミツコ……」
スマホの通話画面をそのままに、僕はただひたすらミツコを想った。
誘拐犯――忌々しくも“七夜”を名乗る男の氷のような声が、いやに耳元を離れなかった。
これから僕は……どうすればいいのだろうか……