一日目 1/2
【一日目】
ちくちくと突くような腹痛に、嫌々ながらも目を覚ます。
そうして寝惚けた頭で部屋を見回すと、相変わらず、ダンボールの山が無造作に置かれていた。
(まぁいいや)
この景色から窺える住人の生活力など皆無に等しいが、全く以って構わない。
寝床さえ確保できれば満足なので、この日もまた、整理しようという気は微塵も起こらなかった。
ペットのミチコが不満ならば片付けでもなんでもする所存だが、どうにもミチコは、この情趣に欠ける雰囲気がお気に入りらしい。
さて、と。
痛む腹部を押さえつつ、机の上のデジタル時計を見た。
六時十五分。
たまには朝焼けの景色を見るのも悪くないかな、と僕はよろよろとした足取りで窓辺まで歩き出す。
「……窓、西向きだった」
「……にゃー」
ミツコの、寝言のようなか細い声に励まされる。
そうだな、運動不足の解消も兼ねて、散歩でもしようか。
「お前は……休みたいのか、そうか」
腕に抱えて出かけようと思ったが、僕の敷布団の上にうずくまるミツコはどこか不本意そうだったので、散歩に連れて行くのは止めにした。
*
散歩に出掛けた後、執筆の時間まで余裕があったが、昨日のエッセイの件を思い出して、嫌々ながらも電話で榊に話を聞いた。
本当に締め切りが近いらしく、なぜ引き受ける前に僕に確認を入れなかったのか、などの忠告をくどくどと言い聞かせる。
いつもの電話越しの平謝りを華麗にスルーして、結局、僕は今日中に書き終える旨を伝えたのだった。
……彼の首は、僕の甘さのおかげで繋がっているんじゃないだろうか、と何度目かのため息を交えながら思った。
「……で、新作の方は……?」
「榊、キミは本当に懲りない奴だな」
僕はこめかみをゆるりと押さえて、そう言った。
午前十一時を過ぎた頃、昨日と同じ質素な個室を借りながら、僕は担当編集の榊と口論……もとい談話を弾ませていた。
その途中、彼の申し出により、前編の『半透明の生者』のおさらいをしようという話になった。
榊が言うには、
『前の続きである以上、流れを正確に把握して引き継がねばなりません。いかに著作した本人であっても、伏線を回収し忘れるなんてことはざらにあって……』ということらしい。
これも仕事である、と断られたからには、僕の一身上の都合で却下することもできず、やむなく了承したのだ。
さて、まず――『半透明の生者』は二千○○年に刊行されたサスペンス小説だ。
ストーリーの概容は、大学生である主人公“友樹”と、三年前の事件をきっかけに復讐を計画する少年“七夜”の物語を主体に、様々な登場人物の視点から現代の闇を描く群像劇である。
ある日、大学帰りの友樹の前に一通の手紙が届く。そこに書かれていたのは、三年前に起きたとある事件への追憶のメッセージ。
所々に入り混じる脅迫めいた文章に、しかし友樹は誰かの悪戯だと思い込み、まともに受け取ろうとはしなかった。
それから数日が経ち、友樹の周囲で不穏な事件が発生し始める。
時は三年前に巻き戻り、当時は高校生だった七夜の陰惨な学生生活が描かれる。
三年前に起こった生徒の死亡事件、そして現在に至っても尚、終わることのない負のスパイラル。
過去と現在を巡る七夜の復讐、その全貌が今、明らかに――!
「という内容ですよね。……前編はどの辺りで終わりましたっけ」
「友樹の親友が刺されて、七夜が次の復讐を仄めかしたところで終わったよ」
「このタイトルってどういう意味でしたっけ」
「…………七夜の友人だった宮代という生徒がクラスメイトの間で“いない者”扱いされていたことと、友樹の周囲で起こる事件の不可解さの二つに由来している」
この担当……本当に僕の担当編集者なのか?
榊はその答えで思い出したのか、納得したようにしきりに頷いている。
(はぁ、ミツコ……お前に会いたいよ……)
重みのない膝元に寂しさを覚える。
出掛ける際、ペットのミツコは今朝と同様に気だるそうに横たわっていたので、身の回りの世話だけをやって部屋に残してきたのだ。
何かの病気に掛かっていたりしなければいいのだが……
「あ、そういえば先生。昨日頼まれた食べられるキノコの資料、持ってきましたよ」
「…………」
午後六時。僕の執筆の時間が終了した。
帰り際に顔を見せにきた榊が『隣に東尾さんが来てますよ』と冷やかしを入れてきたが、無視した。
……どうも編集部の間では、僕と東尾の仲に確執があるという根も葉もない噂が立っているようだ。
たしかに、先輩と新人といえば何かと対立の多い間柄ではある。
しかし、彼と僕では扱う作品の趣きも読者層も違うのだ。そうそう険悪な関係にはならないはず――
「この前に差し上げた私の作品、読みましたか? 菅生大先生」
「…………」
「そうだ、新作『深淵の鼓膜』の解説は、是非とも菅生大先生にお願いしたいと思ってるんですよねぇ」
「…………」
「あ、何なら紹介文でも書いてみます? あんまり妬むような文章は書かないでくださいねぇ」
「…………」
「スランプの方は抜け出せたそうですねー、いやぁスランプってどんな感じなんだろ、分かんないなー」
「…………」
部屋に入ってから数十秒が経ち、僕は家へ帰ることにした。
*
「ただいまー、ミツコー帰ったぞー」
変わらないコンビニ飯を侘しく手に提げて、愛猫のミツコを呼んだ。
しかし、無反応。
いつもならば玄関に入った瞬間、僕の帰りを待っていたかのようにやってくるのだが……
(今朝から調子が悪そうだったし、もしかして……)
もしかして、病気なんじゃ……!?
「み、み、ミツコォォーー!!!」
逸る気持ちを抑えきれず、靴を脱ぐことも忘れて居間へと急いだ。
キョロキョロと辺りを探すも、ミツコの愛くるしい姿は見つからない。
出掛ける前、ミツコが寝そべっていたシーツを引っぺがすも、出てくるのは細かくて小さいミツコの毛だけだ。
ダンボールの山を掻き分け、クロゼットの中を確認し、トイレの便器の裏を覗いた。
「……いない?」
まさか、まさかそんな……!
(家出……したのか!?)
「――ハッ!」
最悪のシナリオが脳裏を過ぎる。それと同時に、己の過失も思い出した。
(鍵を閉め忘れていたのかぁぁぁ!!!)
玄関に入る前に気付くべきことだった。万が一、物色中の空き巣狙いと鉢合わせなんてことになったらどうするつもりか!
……いや、そこじゃない! ミツコだ、ミツコはどこへ行った!
「ミツコォォォ!!!」
愛娘の失踪に慟哭する父親の心持で、僕はその名を虚空に投げ掛けた。
――すると、叫び、慌てふためく僕の後ろで、スマホの着信音が鳴った。
その妙なタイミングに胸騒ぎを覚えながら、恐る恐るスマホを手に取る。
「……もしもし?」
「………………」
相手は無言だった。
数秒が経ち、息遣いさえ聞こえてこない電話に思わず緊張が走る。
何が目的なのか。
非常に疑わしいものの、これ以上、沈黙の通話を続けてやる理由はなかった。
スマホをそっと耳のそばから離そうとした――その時、
「…………にゃー!」
鼓膜を震わせるほどに甲高い鳴き声に、一瞬だけ思考が止まった。
この特徴ある透き通った鳴き声は――まさか!
「み、み、ミツコなのか!!?」
感極まって声を荒げてしまう。いかんいかん、あいつは大声を上げられるのが苦手なんだった。
しかし良かった、ミツコの方から連絡してくれるなんて、捜索願を出す手間が省けたじゃないか。
今はどこら辺をほっつき歩いてるんだ。あんまり心配させるなよ。
そりゃ、部屋の鍵を掛け忘れていた僕にも非はあるけど。でもお前さん、外に出るのを嫌がってたじゃないか。
まったく…………、…………
…………それにしても、ミツコって電話掛けられるっけ。
「――菅生、先生だな」
「え……」
突然、電話の向こうからミツコの声とは違う、僕と同じ霊長目ヒト科の声が聞こえてきた。
嫌な予感がする。
「……お前は誰なんだ」
「………………」
最悪なシナリオを超えた極悪なシナリオが、脳裏を越えて、尚、全身を支配する。
なぜ黙るんだ。なにか言ってくれ。
「…………先生の愛猫、ミツコ」
もったいぶった言葉にイライラを隠せず、動悸が激しくなっていく。
ああ、なんてことだ。その先を口にするというのか。止めてくれ。
僕の気持ちなどお構いなく――電話の相手は告げた。
「……その身柄は俺が預かった。要求に従わなけねば、この猫に命はない」
――地獄の七日間が始まろうとしていた。