【三年前】
【三年前】
毎日が曇天のような日々だった。
天気や季節が移ろいゆく中で、“僕”だけが変わらず取り残されてしまったかのような、そんな紛い物の学生生活を送っていた。
おかしそうにけたけたと嗤う生徒達の肩がやけに大きく目に映った。
機嫌を損ねてはいけない、安易に視界に入ってはいけない、決められた枠から逸脱してはいけない。
突然、背後から笑い声が飛んでくる。呼吸さえ非難されているようで、僕の肩身は更に狭くなる。
愛読していた本が二階の男子トイレの便器に流される。
無残にも水に浸かったまま流されずに浮かぶそれを見て、また嗤い声が耳を衝いた。
震える僕の顔を、容赦なく冷たい感触が襲う。誰かに頭を掴まされて、便器の水の中に顔を押さえ付けられていた。
何度も上げては下げてを繰り返し、遠のく意識の中で、先生の声が聞こえた。
舌打ちとともに、解放される。
現れた先生の指導の下、今日も仲良く握手で終わり。
正午過ぎ、昼食の時間。
今日も机に落書きがあった。
『根暗メガネ』『恋愛小説読んでるとかキモ』『便器の水おいしい?』
一刻も早く机が落書きで埋まることを祈った。そうすれば、新しく落書きされるスペースは無くなるから。
鞄から弁当箱を取り出す。持ち上げた瞬間の軽さに、ああまたか、と思いながら弁当箱を開ける。
中身がなかった。
よくある悪戯。軽い悪戯。そこまで咎められない悪戯。
諦めの気持ちで読書でもしようと決める。
“菅生 明”の本を取り出そうと、鞄に手を差し入れた。
……指先を“ぐちゃり”とした感触が襲う。
歪な手触りのそれを持ち上げる。本の表紙の上に、弁当の中身がぶちまけられていた。
表紙だけに留まらず、栞を挟んだページからも嫌な音が聞こえてきた。
……本を開こうと力を加えたら、ページが破けてしまった。ご飯がこびり付いて離れなくなっているようだった。
背後から嗤い声が聞こえる。誰を嗤っているのか、僕には、はっきりと分かった。
頭が痛い。喉がひり付く。
僕は人の出入りが少ない三階の男子トイレへ向かった。
中に入ろうとすると、その男子トイレから複数の足音が聞こえてきた。
思わず踏み止まり、耳を澄ます。
「つーかなに普通に飯食ってんの、お前」
「い、いや……」
「邪魔だなぁ、さっさとどけよ」
「…………うん」
一人の足音が近付いてくる。だが、
「……ぁ!」
がしゃん、となにかが落ちる音が聞こえた。誰かが躓いた……らしい。
「おっと、気を付けろ」
「あーあ、弁当が台無しじゃん。ちゃんと掃除しとけよ?」
そんな冷たい言葉とともに、二人の生徒がトイレから出てきた。
嗤い声を上げながら、何事も無かったかのようにマンガの話題を楽しんでいた。
二人の背中が遠ざかっていく。
「…………」
僕はトイレの中に入った。
床に這い蹲って、引っ繰り返った弁当の中身を一生懸命拾い上げる生徒がいた。
目が合う。
彼は――笑っていた。
「ごめんね、邪魔だよね。すぐ終わるから」
笑顔で、せっせと中身を弁当箱に戻し続ける。
「…………別に」
喉からたったそれだけの言葉を振り絞って、僕は彼の隣を横ぎった。
トイレの一室に入る。
そして、右手に持っていた本の汚れやおかず、ご飯粒などを便器の中に落としていく。
落としていく。落としても、落としても、綺麗にはならなかった。
頭が痛い。喉がひり付く。
嗤い声が頭の中で反響する。けたけた。けたけた。
…………なぜ、こんな仕打ちを受けなくてはならないのか。
視界が霞み、不意に、涙が溢れそうになった。嗚咽を必死で飲み込もうとする。
「……大丈夫?」
後ろから声を掛けられた。振り返ると、先ほどの生徒がこちらを心配そうに覗いていた。
僕の手元を見て、「あ!」となにかに気付いたように反応する。
「それ、菅生明さんの作品だよね。俺、ファンなんだ」
「…………」
僕は黙ってその隣を通り過ぎようとした。
「その本、俺も持ってるよ。貸そうか」
天城という生徒だった。
彼はよく笑う生徒だった。本当によく笑う。必要以上に笑顔を作る生徒だった。
そんな彼と僕は、あの日から、ある一人の作家の著作について語り合う仲になった。
きっかけだなんて言える出会いではなかった。だけど僕らはあの日に初めて、お互いを知った。
孤独な学生生活に、たった一人の友人ができた。
天城は生まれた時から身体の弱い、虚弱体質だった。
運動や喧嘩のできない彼にとって、その場を繕う為に笑顔を作ることは必然のように思えた。
それが虐めを受ける理由。
僕はどうだろう。なにが原因で虐めを受けているのか。
性格、容姿、趣味。問題を挙げていけば切りがない。
不条理な世界だ。……本当に、不条理な世界だった。
彼と友達になった数日後。それは唐突に訪れた。
教室に戻る廊下の途中で、通り掛かった教室の中から叫び声が聞こえた。
悲痛に満ちた叫び声だった。
肉体的な痛みではなく、精神的な痛みによる狂声。
僕は耳を疑った。
その声が、たった一人の友達の声そのものだったから。
なにが起きたのか、教室を覗こうと引き違いの扉の前まで歩む。
しかし、
「っ……!」
突然飛び出てきた誰かに押し退けられて、思わず後ろに倒れこんだ。
振り返るとすでに、その誰かは走り去っていった。だが、その後姿には見覚えがあった。
動き慣れていない走り方……軽くて空ろな足音……男にしては細すぎる背中……
恐る恐る、教室の中を覗いた。
――教室にいた生徒全員が、驚愕や恐怖に顔を引き攣らせていた。
異常な事態に、誰もが言葉を失っている。
その様子は正しく、開けてはいけない箱を開けてしまった時の絶望に似ていて、どこか絵画的だった。
いくつかの視線が教壇の下に集まっていた。だが、そこにはなにもない。
僕も状況に付いていけず、先生が駆け付けてくるまで、呆然とその場に立ち尽くしていた。
聞いた話では、生徒の一人が天城の私物をうっかり(……)踏み潰してしまったそうだった。
その私物というのがなにかのお守りだったらしく、踏み潰したのを切欠に、彼は豹変した。
ヒステリックな叫び声を上げると、血走った目をして、踏み潰した生徒グループの顔を順番に睨み付けた。
そして誰かの名前をぶつぶつと呟いた後、いきなり血相を変えて教室を飛び出したという。
――その日を境に、彼は数日間ほど行方を眩ます。
後に分かったことだが、彼は幼い頃に、事故で妹を亡くしていた。そのお守りが妹と関係していたらしい。
テレビの報道番組ではPTSDがどうとか学校側の不注意がどうとかの話が続いている。
まだ、天城は見つかっていない。
……僕の唯一の友人が、行方を眩ました。
だというのに、僕は涙の一つも流さなかった。
本当は、なにが発端で彼が失踪したのか、なぜ僕が孤独になってしまったのか、未だに理解できずにいた。
だって、それはあまりに突然だったから。
そんな言い訳を盾にして、僕は考えることを止めた。
行方不明になってから十日が過ぎた頃。
居間を流れるニュースの中に、殺人事件の報道があった。
胸騒ぎのする僕をよそにして、アナウンサーは決まりごとを繰り返すように言葉を紡いだ。
『昨夜、××県の××高校の生徒等三名が刃物で刺し殺される事件で、殺人の疑いで逮捕されたのは同じ高校に通う同級生の少年――』
プルルルル。
突然、そんな感じの、腑抜けた着信音が鳴り響いた。
事件を聞いて真っ白になった頭の中とは別に切り離された意識が、受話器を掴む。
「もしもし、こちらは××警察署の者ですが」
天城が殺人事件の犯人であること。犯行を終えると自殺したということ。最後に、僕に宛てた遺書が見つかったこと。
たった三つのことを告げられて、僕は受話器を置いた。
力なく、その場にうなだれる。
たった一人の友人は――早くにこの世を去った。笑顔とは無縁の終わり方で。
あまりに唐突に思える。だけど、彼にとっては――
『ごめんね、一足先に俺は行くことにした。
君と語り合った菅生先生の新作が読めないことも心残りだ。さようなら、――。』
*
「なぜ、このような犯行に及んだ?」
「…………」
「黙っていると、君の立場はいよいよ危うくなるよ」
「友人への」
「……ん? 友人への、なんだ?」
「友人への手向けです」




