小説家の一日の始まり
ここのところ続いている腹痛の原因は、きっと、自分の担当編集者である榊のせいだと僕は睨んでいた。
そんなことを考えながら、のろのろとした動きで自室のトイレから抜け出す。
自室はダンボールの山だった。
最近、引っ越したばかりでろくに荷解きもしていない。だから、部屋の中は殺風景で足場も狭い。
まさしく住人の面倒臭がりな性格を裏付けている。こんな生活感の無い景色に慣れてしまっている自分が怖い。
(……おっと、そろそろ執筆の時間だ)
痛む腹部を押さえて、机の上のデジタル時計を見た。
十時二十八分。
一日のスケジュールをこと細かく組み立てるほど忙しい身分でもない自分だが、執筆の時間だけは必ず『午前十時三十分から午後六時まで』と決めている。
そうでもしなければ、何かとルーズな自分は時間を持て余すだろう……と、僕ではなく担当の榊が取り決めをしたのだ。
おかげさまで納期には必ず間に合っている。
……が、その都度行われる担当の催促には、正直、うんざりとした心持ちだ。
榊自身が悪いのでは決してない。それは分かっている。けれども、やはりうんざりとしているのはたしかだ。
できるならば会いたくないが、わがままを言ってもあちらがやってくるのだから無意味なことは承知している。
ならば。
(よし、行くか)
それならば、僕からあっちへ出向くことにしよう。
どうせ会って新作の確認をしないといけないならば、社内の借りられる個室で打ち合わせがしたい。クーラー効いてるし。
ダンボールに囲まれた部屋を見回して、今一度、強く決心した。
「おーいミツコ、お出掛けだぞー」
背後にそう呼びかけると、荷物の山の一角からひょこりと――猫が顔を出す。
ペットのミツコだ。人見知りをする可愛い奴。
僕の足元までやってきたミツコを抱え込むと、今度こそ、僕は自室を後にした。
*
僕は小説家――菅生。
今まで恋愛小説に属する作品を中心に執筆してきた。
デビュー作がそういう内容だったために、現在に至るまで、僕は延長線として恋愛小説を書き続けてきた。
もちろん、恋愛なんてものを経験したことはない。悲しい話だが、全部、妄想だ。
だがしかし、そんな僕が書いた作品にも、一応、ファンはいる。
例を挙げて言うならば、彼だ。
「菅生先生、調子の方はどうですか。新作の続編、間に合いそうですか? ちょっと俺に見せてください、先生」
二十代半ばの冴えない顔をした青年が、テーブルを挟んだ向かいから威勢よく身を乗り出してきた。
そう、彼が僕の一ファンであり、担当編集者の榊だ。
……悪い奴ではないが、度が過ぎてうざい。
「今書いてるのは頼まれていた短編小説だよ。反吐が出るほど甘ったるい男女二人の青春ラブストーリー的な何か」
「いいですねーいいですねー。先生の書くボーイミーツガールには定評がありますからね……!」
「……そうらしいね」
彼の溢れ出る情熱に暑苦しささえ感じた僕は、部屋を借りてから十分も経たずにげんなりとしてしまう。
こうなると、膝元にうずくまる猫のミツコだけが救いだ。
ノートパソコンに向かいながら、淡々と文字を入力していく。
時おり、ミツコの腹を撫でる。そしてまた、淡々と文字を入力していく。
これが僕の執筆スタイルだ。
僕が再び筆を走らせていることに気付いた担当の榊は、「それでは、また来ます」と言い残して席を外してくれた。
室内を、キーボードの無機質な音と、クーラーの涼しげな風音だけが支配する。……たまに、のん気な鳴き声も加わった。
*
「はい、書き終えましたよ」
「おお、では今日中に拝見します」
担当のへこへこと頭を下げる動作を電話越しに感じながら、僕は不真面目にも大きなあくびをした。
「お疲れさまです、先生。……それでですね、新作の続きの方は順調ですか?」
「『半透明の生者』の続編だよね。……どうかなぁ」
「な、なんですって!?」
弱腰に呟く僕の言葉に、受話器の向こうから大きなリアクションが返ってきた。
「自分で言うのもなんだけど、僕が弱気なことを口にするのは毎度のことなんだから、慣れてくれよ」
「あ、すみません。俺、『半透明の生者』の続きが楽しみで仕方がなかったものでつい……」
世辞なら気も休まるものだが、担当の榊というこの男は、仕事の範疇を超えて僕の作品を支持してくる。
これが中々鬱陶しく、彼は文章の推敲に留まらず、ストーリーの展開や登場人物の過去や容姿にまでアドバイスを挟んでくる始末だ。
僕も一応はプロの小説家だ。『堪忍袋の緒が切れた!』と編集長に文句を言えば担当を替えてくれるはずだろう。
しかし実行に移せないのは、偏に、彼が担当したことによって販売部数が向上しているからに他ならない。
先ほど担当の口頭に挙がったサスペンス小説『半透明の生者』なんかは、発売当初からベストセラーのヒットを飛ばしたほどである。
去年の夏ごろ、初のサスペンス物に挑戦する僕に対して、担当は熱心な態度のまま夜更けまで付き合ってくれたものだ。
生真面目でどこか不器用だが、嫌な奴ではない。そう考えれば、なんとか担当との修羅場を潜り抜けられそうな気がしてきた。
「あ、例の雑誌からエッセイの依頼が来ていたのを忘れてました」
「……」
「あー締め切り近いですねー」
「おい、いい加減にしてくれよ、榊。絶交だ」
「え」
「食べられるキノコの資料でも集めてろ!」
ブチッ、と内線電話を切ってやった。これは締め切りとかそういう問題ではなく、精神的な問題だ。
怒りに任せて意味不明なことを口走った気がするけど、気のせいだろう。
すると、隣の個室から乱暴に壁を叩く音が聞こえてきた。
(いけない、悪ふざけが過ぎたか)
小説家という職業は、時間のほとんどを執筆に費やすことが仕事である。例外はあれど、そう大して変わらない。
それ故に身動きが取れず、結果、部屋に引き篭もりがちになってしまう小説家も少なくはないのだ。
おそらく、隣の個室で作業をしている小説家もその一人だろう。
自宅では集中力が持続しないという理由で、出版社に赴く小説家は数多い。僕もまたその一人だ。
というわけで、気分転換に、隣の方へ謝りにでも行くとするか。
印象アップを兼ねて、猫のミツコも連れて行くことにした。猫アレルギーではないことを願おう。
*
午後六時。僕の執筆の時間が終了した。
昼過ぎぐらいからほとんど書いていないようにも思えるが、明日の僕にバトンタッチすればいいと楽観する。
筆が進まなかったのは、隣の個室にいた小説家S氏と意外にも話が合い、行き付けの喫茶店に出掛けたのが原因だ。
小説家S氏は文だけではなく、話しも巧みな人だった。羨ましい限りである。
そういえば、彼と話している最中、料理を運んできたウェイターが無愛想だったのを思い出した。
僕は、あの喫茶店の常連を名乗るだけあって、従業員の顔は全員、覚えている。しかし、そのウェイターは知らない人だった。
だから、きっと新人の学生さんなんだろうな、と遠目に観察しつつ、同時になぜ、喫茶店側はこの子を採用したのだろうか、と気になっていたのだ。
今に思えば、自分の担当にも言えることだった。おそらく接客面は不得手ながらに、仕事はできる部類の人間なのだろう。
誰でも受け入れる心の広い喫茶店にますます好印象を覚えながら、僕はコンビニ袋を片手に帰路へ就いた。