許嫁(いいなずけ)
『高宮』というのは、私の許嫁のことだ。
だから、高宮の名を出してハヅキが平然としていることが、悲しい。ハヅキの心が私にはないと改めて思い知らされるから、泣きたくなる。
初めから、わかっていたことなのにね。
私ばっかりが、好きだってことは。
「お嬢様、行ってらっしゃいませ」
「行ってきます、岡崎さん」
人の良さそうな白髪の運転手の岡崎さんに軽く会釈をして、歩き出す。
私の通う学校は、いわゆる『お金持ちの通う学校』で、玄関に横付けするために車の列ができる。その列に加わる前に、無理を言って、私は降ろしてもらうことにしていた。
岡崎さんは申し訳なく思っているようで、本当にここでよろしいのですか、と毎日飽きもせず聞いてくる。
そのたびに私は苦笑して、はいと答える。
非効率的なのだ。
待つ時間も長いし、一度列に入ってしまったら二十分は抜けられない。徒歩で行ったら七分で着くのに、と思った私は入学式の翌日からはそうすることにしたのだ。
黒光りする車の中から、好機な目で不躾に見られることにも慣れた。
それに、歩くのは健康にもいいし。
「よっ」
ド派手な、ナンセンスな飾り付けを施した車も多い。一方で、一見質素な、しかし一目で格が違うと分かる車から降りてきた人物に声をかけられた。
高宮だった。
相変わらず、背だけはひょろりと高い、華奢な体だと思う。
「『よっ』じゃない。ちゃんと食べてるの?」
高宮と並んで歩く。
手が触れそうな距離だったが、この男は相手に警戒心を抱かせることがない。
すべてが自然で、スマートだった。
「食べてるよ」
にゃはっ、と効果音がしそうな人を食ったような顔で、ごくたまに高宮は笑う。
これが高宮の嘘をつく時の癖だった。
「…まぁ、いいけど」
今日の夕飯は、これでもかってくらい食べさせよう、と密かに心に決めた。