夕立に混ざって。
その昔に書いたやつを供養のために。
また、光った。
数秒遅れて、雷鳴が轟く。
少しずつ遠ざかっているようだが、健やかに育った夏の雷雲は、まだまだ雷雨を落としたりないらしい。
俺は、鉛色の空を見上げるのを止めて、振り返った。
視線の先には、ツタのはった東屋の屋根の下、ベンチで小さくなる小柄な少女。その姿は濡れ鼠で、髪からは水がしたたり、白シャツは張り付いて肌色がうっすらと透けている。
俺は黙ってその隣に腰掛けた。
ベンチは三人分の幅があるのに、敢えて詰めて。肩が触れる近さまで。
濡れたズボンや張り付くシャツの気持ち悪さも今は気にならなかった。「きもい」と思われるとか、そんな不安も頭から抜け落ちていた。
彼女が、震えているから。
それが、寒さだけが理由でないことを、俺は知っている。
「雨、まだ止まないな」
「……」
話しかけても、彼女はなにも言わない。ベンチの上で体育座りをして、顔も上げない。ただ、肩を震わせるだけだ。
小さく、いまにも砕けて崩れてしまいそうなその身体。憐憫と情欲がふつふつと沸き上がり、気づけばその背中を壊れ物を扱うように優しくなでていた。
――ああ、華奢な身体が冷え切っている。
次の瞬間には、『可愛い』と心から漏れ出しそうになり、喉奥がひりついた。もしかしたら、自覚がないだけで呟いたかもしれない。
儚げで、今にも壊れそうで、それでいて美しい。何故こんなにも愛らしいのか、守りたいと思わせるのか。そして同時に、壊したいと思わせるのか……彼女がただただ、愛おしい。
「これだけうるさいと……雨や雷で何も聞こえないだろうな」
俺は昂ぶる心を理性で押さえつけ、言葉を続けた。
彼女が、やっと顔を上げて俺を見てくれた。震えは治っていた。
大きな目は少し赤くなっていて、髪から滴る水に混じって、幾筋もの滴が少女の頬を滑っていく。
場違いにも俺は、『綺麗だ』と思った。少女のやつれた顔は、それはとても魅力的で扇情的で。
最近、部活で日に焼けてよかった。これだけ赤ければ、赤面は目立たないだろう。
俺は、彼女の背をなでるのを止める。
「……ありがとう」
と、彼女はそっと頷き、微笑んでくれた。そしてゆっくりと腰を上げ、ふらふらと夕立の中に歩み出ていった。
彼女は雨に打たれ、天を仰ぐ。
少女の慟哭が、夕立に混ざった。その存在をかき消すように雷雲が吠えた。
少女が叫ぶと、張り合うように雷鳴も鳴り響き、雨足が強まった。
人目につかない土手にある、東屋の前。彼女の姿を見ているのは、俺だけ。
咽び泣く彼女を独占する。そんな優越感に浸ると同時に、彼女をここまで掻き乱すあんたに俺は嫉妬している。
俺もそうでありたい。
彼女は、心を乱してくれるだろうか。俺の言葉に一喜一憂し、苦しんでくれるだろうか。泣いてくれるだろうか。
俺もふらりと夕立の中に出る。ばたばたと大粒の雨が身体を叩いて鬱陶しい。
目の前には小さな背中がある。
今なら何をしてもいいのではないか。
彼女の乱れた心の隙間に、そっと入り込めるんじゃないだろうか。
今なら、どんなことも夕立に混ざって、かき消され、洗い流してもらえるんじゃないだろうか。
そっと手を伸ばす。あと、少し。
――はたと気づいた。
ばたばたと鬱陶しかった雨粒が、弱々しくなっていく。
伸ばした手を戻すのと、彼女が振り返るのはほとんど同時だった。
「……雨ってさ。思い切り濡れてやると、いっそ清々しいね」
彼女は笑った。
弱々しいが、その笑顔にはいつもの彼女が感じられた。
「夕立に混ざって、色々などろどろが流れていった気がする」
肯定するように俺は笑みを返す。
彼女はずるい。自分だけすっきりしてしまった。俺のどろどろは、夕立に混ざっても流れなかったのに。
少しでも流れ落ちてくれたら、俺も楽になるのだろうか。なら今度はもっと長く、夕立の中で立ってみよう。そうしたら、少しは水に溶け出してくれるかもしれない。
この、あまりに粘度の高い感情が。
彼女は顔の滴を拭い払うと、同じくずぶ濡れの自転車に跨り、「帰ろうか」と問いかけてくる。
俺もまた、自転車に跨った。
読んでくれてありがとう。