半澤と写真と
花隣の絵のモデルから解放されて、家路に着く。ちょっとぼろっとした自転車に……チェーンがかかっていた。
「しまった」
鍵をかけるのを忘れていた。こうして鍵をかけないでおくと、どこぞの有象無象が自転車泥棒をしていくため、鍵がかかっていない自転車にはこうしてチェーンがぐるぐる巻きにされ、おまけに南京錠で固定される。
面倒なことになった、と思い、職員室に向かう。確か、チェーンの鍵を持っているのは生徒指導部の職員だったはず。
職員室に行くと、なんと空振り。生徒指導部でも、チェーンの鍵を持つ教員は今、生徒指導室にいるという。ただでさえ快いことではないのに、生徒指導室という、職員室より尚更気が重くなる場所に向かわなければならない。はあ、と本日何度目かの溜め息を吐いた。
しかし、生徒指導部の教師が生徒指導室にいるというのは一体どういうことだろうか。生徒指導室は読んで字のごとく、生徒を指導する部屋だ。何かやらかした生徒がいるのだろう。そんな中に入っていくのは尚更気が進まない。
が、用もないのに学校に居残るのも嫌だ。それに海道家の胃袋は美好によって管理されている。姉は料理が下手で、母はいちいち味が濃いのである。父は帰りの時間が一定ではない。
さっさと帰って夕飯の支度をしないと母のしょっぱい味噌汁を飲む羽目になる。
意を決して、美好は生徒指導室の戸を叩──こうとした。
「今は、持っていません」
そんな声がした。いや、その言葉だけだったなら、そんなに驚かないだろう。美好が驚いたのは、その声が半澤のものだったからだ。
「聞いた話によると、持ってきていたようだが」
「それは確かです。でも、先輩方から注意を受けたので、それから持ってきていません」
「……隠し持っている可能性がある。鞄を確認させてもらうぞ」
何のことかはわかった。先輩に注意されたと半澤は言っていた。きっと、ネックストラップでぶら下げていたデジカメのことだろう。
写真部でもないのにカメラを持ってくるのは校則違反になるのだろう。だが、暴行ついでに注意されて、挙げ句、カメラまで取り上げられるなんて……体の奥の方からかっとなってくるのがわかる。美好は躊躇いなく、ばん、と生徒指導室の戸を開けた。
「なんだ」
「一年の海道美好です。自転車チェーンの鍵を借りに来ました」
教師の動揺は僅かだった。それより遥かに動揺していたのは半澤だった。何故自分を庇うようなタイミングで美好が入ってきたのかわからないようだった。
美好はじっと生徒指導の教師を見つめた。敢えて半澤に目配せはしない。ここで目配せなんてしたら、庇っているのが明らかになってしまう。それは好ましくなかった。
「鍵をかけ忘れてすみませんでした。以後気をつけます」
「……いいぞ。気をつけてくれ。鍵がかかっていても盗まれる時代なんだから、鍵をかけておくに越したことはない」
「随分不穏なことを言いますね」
「ほら、帰れ。半澤も、もういい」
顔には出さないが、美好はしめた、と思った。半澤のことも水に流してくれるらしい。有難いことだ。
もう一度教師に頭を下げてから、半澤と一緒に廊下に出る。一年でクラスが隣だから、下駄箱も近い。
廊下を歩く無機質なこつこつという足音だけが、しばらく響く。放課後とあって、校舎内にいる生徒は少ない。というかいない。今廊下を歩いているのは二人だけだ。
階段を降りるため、角を曲がったところで、半澤が口を開く。
「あの、海道くん、どうして……」
「別に、お前が校則違反していると思ってるわけじゃねぇけど」
美好は不機嫌面で答えた。半澤の前を歩いているので、不機嫌面を見られていないのが幸いだ。
「もし仮に、お前がデジカメを持っていたとして、取り上げられたら、目も当てられないな、と思っただけだ」
複数人による半澤に対する暴行に関して、こちらはボイコットしていないというのに、卑怯なやつらめ、と思う。
こちらが事を荒立てないでいれば、と呆れもした。だが、些末なことだ。済んだことは済んだ。それでいい。
俯いているであろう半澤に、美好は何気なく言う。
「今日、うち来ないか? こないだ、姉貴すげぇ喜んでたし。母さんも歓迎すると思うし」
「えっ、いや、そんな、急に行ったら迷惑じゃ」
「迷惑だったら言わねぇっての。あ、新田さんには自分で連絡しろよ」
「あ、え、うん」
相棒の携帯電話を取り出す。期せずして、半澤も取り出した。同じ型の携帯電話だ。示し合わせたわけでもないのに、お揃いのようで、美好は柔らかく笑いながら、家の電話を呼び出した。
その一瞬。
「見つけた」
ぱしゃり。
半澤の笑顔とフラッシュが重なって見えた。
携帯電話にも、当然のようにカメラ機能が搭載されているのだ。それはわかったが、美好は狐につままれたような心地になった。
運悪く、そのタイミングで姉が電話に出る。呆けてる美好を苛立つように何度も呼んだ。呼ばれた美好は切るよと脅しがかかったところでようやく我に返り、半澤が家に来る旨を伝えた。予想に違わず、姉は大層喜んだ。母を台所に立たせないように見張っておくよう厳命する。
電話が終わると、半澤が苦笑いしていた。
「ごめんね。びっくりさせちゃったよね」
「わかってるなら気をつけろよ」
「うん」
そう言いはしたが、きっと、半澤の写真の出来映えを見たら、何も言えなくなるのだろうな、と思う。
写真を撮るのに神様がいるのだとしたら、きっとその神様は半澤のことが大好きなのだろう。だから、半澤の直感に語りかけて、今だ、とシャッターチャンスを教えるのだろう。それがあの「見つけた」なのだ。
至高の作品が撮れたなら、それは当然嬉しいことだろう。だから、半澤はシャッターチャンスのとき、あんなに笑顔でシャッターを押すのだと思う。
こうして考えてみると、随分芸術家質の写真家だ。天啓で写真を撮っている。写真の神様に愛されているという推測もあながち間違いではないのかもしれない。
「気にすんな。いい加減もう慣れた」
「そ、それならいいんだけど」
「それより、ほら、電話。俺は自転車持ってくるから」
「うん」
駐輪場に向かいながら思う。
俺は、写真が好きで、半澤の撮る写真が好きだ。だから、あいつからカメラが奪われるのを見たくない。
それに、先程色々言い訳を並べ立てたが、結局のところ、美好が半澤を家に誘ったのは半澤の写真が見たいからだ。前もそんな理由で連れていった。
庭はまだ白詰草でいっぱいだ。まだ日暮れには間に合うだろう。また庭の中を駆け回りながら、「見つけた」を連呼して、写真を撮る半澤を眺めていたかった。
確かめてはいないが、半澤がきっとあの白い菊の写真を撮った人物なのだろう、と思う。
半澤の写真はあの写真によく似ている。花隣が言うところでの心がこもっている。注ぎ込まれているといっても過言ではない。……そんな半澤が過去に一体どんなひどい写真を撮ったのかは知らないが、半澤はまだ、現実と写真の境界線がわからないのだと思う。そういう不安定な心だからこそ、全てが無造作なまでに注がれてすごい写真になるのだろう。
半澤と坂を上りながら思う。不安定な半澤の傍にいたい、できるなら、半澤を守りたい、と。
口にするのは気恥ずかしいから、ただ彼が写真を撮るのを見るだけ。それだけで美好の欲求は満たされる。
「半澤、笑ってくれ」
半澤が笑っていると安心するから。半澤らしいなって、こちらも無邪気に笑うことができるから。
「あ、綺麗な夕陽だね。こないだとはまた違った感じ」
「そうなのか」
「うん。……見つけた」
携帯電話のカメラが瞬いて、この景色を切り取る。
花隣は認めないが、美好は感情のこもった半澤の写真が好きだ。花隣の信念云々は関係なく。それを見るためだったら、今日のように生徒指導室にだって、飛び込んでみせるだろう。
──半澤との日常が好きだった。