対面
虚空にて、王が異変に気づいたのは、虚空というただ黒いだけの空間に亀裂が入ったことがきっかけだった。
虚空はどんな世界にも属さない。王とサイだけの秘密の王国だった。王とサイ以外は、誰も出入りすることができない。サイが作って送り込む人形という例外はあるが、虚空で生まれてあの世界に送り込まれる者は少ない。
ということは、虚空というこの空間に何か仕掛けられるのは、王かサイだけである。王は何もしていない。となれば、自動的に誰がやったかはわかる。
「サイ……! そこまでして俺の存在を拒むか」
虚空はループ世界を作る際に生まれた、異空間である。王は絵の世界であるループに行くことはできない。その仕組みをサイはわかっていなかったようだが、王──二十歳を過ぎて自ら死を選んだ青年、海道美好にはわかった。
ループ世界には紫の目の少年がいる。サイはそれを自分の分身と思っている。それはあながち間違いではない。だが、サイは覚えていないのであろう、もう一つの側面がかの少年にはある。
黒髪に、紫の意志の強そうな目を持つ少年はかつて半澤通が美好をキャラクター化したものだ。サイの姿は半澤が自らをキャラクター化したものだ。このことに何の意味もないはずはない。自分が美好であるならば、もう一人の美好と言えるあの少年と同じ世界に足を踏み入れたならば、同じ人物が世界に二人存在することになる。
迷信かもしれないがこんな都市伝説を聞いたことがある。ドッペルゲンガーというものだ。世の中には自分と同じ姿の人間が三人いて、その同じ姿の人間と出会すと死ぬ、といった感じの迷信が。美好と少年は同じ姿ではないが、同じ人物である。同じ人物が二人同時に存在したら、世界に大きな矛盾が発生する。片や、ただでさえ世界の絶対的矛盾を抱えているというのに、これ以上矛盾という負荷を世界に与えたら、世界はどうなってしまうか。……崩壊、の文字は免れないだろう。
美好にとって、世界が崩壊するのはかまわなかった。世界が崩壊すれば、同時にあの少年も崩壊に巻き込まれるかもしれないのだから、邪魔者を排除するにはうってつけだ。
だが、崩壊するのがあの世界だけとは限らない。サイと王、主に王の存在によって保たれている虚空までもが崩壊する可能性もあった。自ら王という尊大な名を名乗りながら、虚空の存在なしには存在できない、そんなか弱い存在であることを王は知っていた。これ以上自分の居場所をなくすわけにはいかない。
だから、サイの策を頼りに、あの少年が幸福なあの世界に馴染み、やがて世界の人形になるという未来を王は高見の見物とするつもりだった。
もちろん、王である美好は、現実世界に戻る前はあの紫の瞳の少年だったため、そのときの記憶を持っている。最後には王はサイに裏切られ、世界からも虚空からも、そして世界が消えたことによって生まれたこの空白の世界──ブランクからも消される運命だということは知っていた。今こうして、ブランクの地に立つのも、以前見た通り。──所詮未来は変えられないということか。
だが、無駄な足掻きだとしても、王は諦めようとはしなかった。自分は知っている。この紫の瞳の少年は、王である自分を消した後、現実世界の海道美好に戻って、半澤通が死んだという残酷な真実を告げられ、挙げ句には生きる意味を見失い、死から救われた命を投げ出して、死を司る王となる道を選ぶことになるのだ。この先の美好には何がどうあっても救いはない。美好が昏睡している最中には、もう唯一無二の存在は死しているのだから。
現実に戻っても、絶望を味わうくらいなら、いっそ、この世界で終わらせて、死なせきってしまった方が、海道美好にとって救いとなる。そう断じたから、自分は王として、今ここに立っているのだ。
「いよいよラスボスか」
不敵に笑う少年は、真っ直ぐな紫の瞳をしていた。彼は王を敵と見なしている。だから、ラスボスなんて言葉が出てくるのだろう。
王も負けじと返した。
「お前さえいなければ、全ては幸福の下にあったというのに。よくも邪魔してくれたな」
少年はその言葉に肩を竦める。
「そんな俺がいなければ、世界の安寧も守れなかったくせに、よく言う」
──少年の言う通りだ。
幸福な世界の実現のためには、幸福の定義をより明確にするための「不幸な存在」が必要だった。影なくして光の存在を肯定できないように、不幸なくして幸福の存在を肯定することはできない。その不幸を全部担うのが、今目の前で不敵に笑う少年、王にとっては、過去の自分だった。
王は少年の挑発をそよ風でも吹いたかのように受け流す。
「よく考えてから喋るんだな。見ろ、今やブランクと成り果てたお前のいた世界の現状を。
お前がいたから、世界は何度も何度も繰り返され、繰り返されることによって、耐えきれずに壊れたのだ。
つまり、世界が壊れたのはお前のせいなんだよ、少年」
少年はぎり、と歯を噛みしめた。王の言うことにも一理あったからだ。目を背けていた事実でもある。事実からはそう簡単には逃れられない。
だが、少年はきっと鋭い眼差しで王を睨み据えた。
「元はといえば、お前がサイに頼み込んで作らせた世界だ。ただの絵である世界は形あるものがいつか壊れるように壊れ逝く運命にあるものだった。サイがそれを、あんたのためにって、一所懸命に何度も何度も描き直して、この世界はずっと続いてきた。サイの手の施しようがなくなるまで、世界を徒に回し続けたのは王、あんたの業だ」
的を射たことを言う。だが、少年の言葉は、王には一切響かなかった。
王の中の目的は一つ。目の前の少年──昏睡から目覚める前の美好をここで取り殺して、完全に死なせるということだけだった。残酷な未来を、残酷な運命を辿らせないために。
だから、譲るわけにはいかなかった。
「だから貴様に何ができるというのだ? 世界は壊れた。我々がいた虚空も壊れた。ここは何もない空っぽの世界、ブランクだ。こんなところで貴様は何を成そうというのだ」
何もできはしまい──そうたかを括っていた王だが。
不意に、紫の閃光に、射抜かれる。力のある眼差し。それは決意に満ちていた。
「確かに、俺にできることなんて、ほとんどないよ」
でもな、と少年はゆらりと筆を持ち上げる。その筆は王も見たことがあった。サイが人形を作るときに使っていた筆であり、王の命により、必要ないものを塗り潰して世界から消し去るために用いていた筆だった。
少年がその筆を滑らせた瞬間、王は言い様のない危機感に襲われた。少年はその筆で何をしようとしているのか。それが、わからない。
少年は淡々と告げる。
「サイはこの筆を俺に託して消えた。けれど、最後にあるメッセージを残して消えたんだ。何かわかるか?」
皆目見当もつかない。
「俺に残したメッセージかもしれない。でも、あんたに残したメッセージであるのかもしれない。もうサイはいないから、その真偽のほどは、確かめようがない。だがな」
あんたには伝えておくべきだと思ったから言う、と少年は一言一句違うことなく告げた。
「Pain to the world──これがサイの残した言葉だ。俺はその言葉をこう解釈する」
一度筆を止め、少年は小さく息を吸い込むと、一気に言い切った。
「『王は二人もいらない』」
王は目を細めた。もちろん、この下りも経験済みだ。だが、何度聞いてもこう思う。
「自分が王だとでも言うつもりか? 傲岸不遜も甚だしい」
王は二人もいらない──それは、二人の美好のうち、王を名乗る彼はいらない、と暗にサイが告げているようで、王は胸が苦しくなった。サイをこんなにも思っているのは、自分の方なのに。サイを──半澤をなくして傷ついたのは自分だというのに、自分はまだ、傷つかねばならないのか、と、胸が締め付けられるような思いがした。
少年が続ける。
「俺が王だなんて、とんでもない。これはただの洒落だよ。……結局、あんたにはサイの思いは伝わらないんだな」
サイの思い? 自分を切り捨てる残酷な友人の思いなど、わかってたまるか。
そう睨み付けていると、やがて少年の絵は完成した。黒いローブを纏った、王の姿そのもの。
しかし、ここで完全ではなかった。少年は無慈悲に、冷酷に筆を振るった。
べしゃり、と王の絵が黒く塗り潰される。
王は、自分の手元と足元を見て、やはりな、と思うと同時、底知れぬ恐怖へと突き落とされた。……自分は、消えるのだ。消されるのだ。このブランクからも。
「これで、Pain to the worldだ」
そんな少年の声も掠れて聞こえた。
ああ、自分が消えていく。そしてあの少年は、過去の自分は、残酷な現実へ戻っていくのだろう。自分は止められなかった。何もできなかった。
こんな罪深い自分はこのあと一体どこへ飛ばされるのだろうか。
そんなことを考えた一瞬で、王はブランクから消滅した。
Pain to the worldの本当の意味も知らないまま。




