王の思い
黒い黒いこの世界に、空なんてない。もう死を受け入れてしまった者たちに希望など存在しないように。
自ら死を選んだ彼らの魂は、黄泉でも地獄でもなく、ここ、虚空に縛りつけられていた。……といっても、それを知っているのは王のみ。サイは自分が一度、「現実世界」で死んでいるとは知らない。自分が過ごしていた世界が「架空世界」であったことも知らないはずだ。
王は知っていた。知っているからこそここにいる。この物語の結末を知っていても、彼には諦めることはできなかったのだ。世界征服を──ではなく。
ただ、ままならない、と思っていた。
「……サイ、やはり俺を裏切る気か」
王はこの物語の結末を知っている。王の腹心であるはずのサイは幸福なあの世界への疑問とあの世界で唯一塗り潰せない世界の絶対的矛盾の少年を救うために、王を見捨てるのだ。この虚空にあの少年を遣わして、自らは消える。
そんな物語に救いなどあるものか、と王は結末を知りながらも立ち向かうことを決めていた。自らの幸せのためとも言えるし、サイのためとも言えた。
「あいつがいない世界なんて、何の意味もありはしない」
そう確信しているからこそ、王は行動していた。
「あいつはこのまま紫に染まってしまった方が幸せなんだ」
王は知っている。何しろ彼は一度、サイに救われて、望まぬ世界に帰ったことがある──海道美好なのだから。
今なら王が、少年とクラウンが幸せになることを望まなかった理由もわかる。俺はとーると引き裂かれてしまったのに、何故お前らばかり幸せになれるんだ。そう思ったからだ。
けれど、サイはあちらの肩を持つ。美好を紫から掬い上げるために。美好を死なせないために。
この世界は生と死の境界にある場所なのだ。まだ完全に死んだわけではない。だから、戻そうと思えば、生ある世界に美好を戻すことができる。サイがそれを望むのは当然と言えた。サイが半澤通なら。
半澤は「キミハシナナイデ」と残した。美好に死んでほしくなかったのだろう。自分の身代わりなんかになられるのは嫌だ。それは美好だからこそわかる。身代わりになったつもりが、逆に死なせてしまう結果となった虚しさ、悔しさが。
そんな感情の結晶が集って、死を選んだ美好に「王」という器を与えた。そうなのだろうと思う。
王は思っていた。きっと、あの少年をそのまま死なせてしまえば、自分という器は矛盾を孕んだ存在となり、ただでは済むまい、と。ただ、王としての自分が消えることに特に感情を抱くことはない。むしろ、死にきってしまった方が自分は幸せだったと思うのだ。
蘇って絶望を知るくらいなら、何も知らぬままいっそ……
考えていると、サイが入ってくる。珍しくフードを外していた。ループの中で生きる紫の目の少年とそっくりそのままの顔形。自分でも思ったことがあるが、まさしく色違いだった。
いつか見せてもらった、キャラクター化した自分たち。それがこの世界に反映されているのは、半澤だったサイがこの世界を作る核となっているからだろう。描いた絵を具現化させるという異端の能力。それがこの世界を作り出しているのだ。
サイらしい、と思う。異能力や超能力なんて、大抵が戦うためにあるような物騒なものだ。──絵を具現化させるなんて、平和なことこの上ない。「見つけた」と言って写真を撮っていた半澤らしい。
サイの描く絵にリアリティーがあり、現実に実体を持ってしまうほどの質を持つのは、半澤だった頃、半澤は風景をよく見て、ここぞというときにシャッターチャンスを逃さずに写真を撮れていたからだろう。
半澤が残したメッセージ「キミハシナナイデ」の写真はどれも美好が撮ったものだった。半澤ほどの煌めきはない。まあ、敵うはずもないだろう。
ただ、あのキバナコスモスだけは違って見えた。二人の一番の思い出だからだろうか。
「王」
そう微笑むサイの目は赤い。赤いはずなのに時折、あのキバナコスモスのように温かいオレンジ色を灯すことがある。
それが切ない。
俺はどこにその温かさを置いてきてしまったのだろう。サイに裏切られて終わる。そんな結末の見えた世界は、王にとっては寒くて寒くて仕方がない。
「王、いかがなさいましたか」
「……なんでもない。下がれ」
「はい」
サイが出ていったのを確認すると、王は唇を噛み、苦しげに呻く。
「もう、俺を裏切らないでくれ……」
サイはループを眺めていた。
画面に映る少年は、熱心に絵を描いていた。サイが「才能があるんじゃない」と言ったら、それを鵜呑みにして描き始めたのだ。
当然、サイは何の考えもなしにそんなことを言ったわけではない。この世界を終わらせる一手だ。
それに、少年に絵の才能があるのは当然だ。少年はサイから剥がれた分身なのだから。絵に一所懸命になっていたサイの技能が表面に出てきていても、何らおかしいことはない。
サイが思い描く通りに事が進むのを眺めていると、サイの隣に王が立った。
「何をしている」
「ループを眺めていたんですよ」
「そうじゃない。あの少年のことだ」
サイは目を丸くし、それからにっこりと笑った。
「わかりませんか? 絵ですよ、絵。絵を描いているんです」
王は画面を見つめたまま、ぼそぼそとわからんな、と呟いた。
「悪いが、俗世には疎い」
「ああ、そうでございましたか。申し訳ございません。ボクがいかんせん、俗物なものでして」
おかしい、とサイは思った。王はサイが絵を描くのが好きであることを知っているはずだ。知っていてこの世界に引き込んだのではなかったのか。
サイは王を見つめるが、その表情は黒いフードに阻まれて読めない。そういえば、王の素顔というのを見たことがないな、とサイはふと思った。
だが、突然フードを取っ払うというのも不敬というものだろう、とサイは思い止まった。
画面に照らされた白い横顔の輪郭が見える。それ以外は黒に覆われていて、まるで王はこの虚空という場所の一部であるかのように思えた。……考えすぎだろうか。
見つめていると、不意に王が口を開いた。
「もうすぐ、終わるな」
サイは表情を悟られないように、すぐさま画面に目を向け、艶然と微笑み、同意する。
「ええ、もうすぐです」
アナタが望む終わりではないでしょうが。
そう思いながら、ふと違和感を覚えた。
何故、王はもう終わりだとわかるのだろうか。サイはまだ何も言っていない。画面の中の少年はひたすらに絵を描いているだけだ。
もしかして、王は──
一つの可能性がサイの脳裏をよぎる。
「王……」
思わず呼ぶと、王からは低い声でなんだ、と返ってきた。どこか不機嫌にも聞こえるその声にサイは、いえ、と口をつぐんだ。
王が何を目論んでいようとサイの成すべきことは一つ。
あの終わりがなく、救いのない世界から──自分が作ってしまった間違った世界から、彼を救い出すことだ。
彼を助けるために、サイは今、ここに立っているのだから。
……王を裏切ることにはなるが。
「本当にそれでいいの」
どこからか自分の声が問いかけてくる。サイはそれを振り払うように頭を振った。
これでいいんだ。僕はあの少年を救えれば、それで。
だが、声は何度も問いかけてくる。本当にそれで、それだけでいいのか、と。
サイは顔を歪める。これでいいんだ、これでいいんだ、と自らに言い聞かせる。
お前に何がわかるというんだ。二人が一緒に助かることなんて、もうできないんだ。だから、彼にできることは、これだけなんだ。
「本当にそれだけなのかな」
そんな自分の声が頭の中でただただ反芻されていく。




