否定された者の反抗
「ただいま」
家族が帰ってきた。ちゃんと留守番してた? と問いかけてくる母に、サイはもちろんだよ、と答えた。
「旅行に行ってたんでしょう。お土産は」
「取れたての柑橘だって。これからお日さまの光を当てると、その力で甘くなるんだってよ。すごいでしょう」
サイは確か、柑橘好きだったわよね、と母が聞いてくる。サイは元気よくうん、と答えた。
サイが夕食を食べていないのはわかっていたようで、母は台所に立ち、夕食の準備を始めてくれる。
だが、サイには母の料理など食べる気は一切なかった。
「ねぇねぇ、そんなことよりお母さん、ぼくの部屋に来てほしいんだ」
「お母さんは今忙しいの」
「とっても大事なお話なんだ」
仕方ない、といった様子で、優しい母はサイについてきた。サイの表情はずっと俯いていたので窺うことはできなかった。
やがて着いたのは、サイの部屋。見てほしいものがあるんだ、とサイは部屋の扉を開けた。母が息を飲む。
それもそうだろう。部屋は散らかっていたのだから。絵が塗り潰されて、八つ裂きにされて。無惨としか言い様のない状況だった。
「どうしたの、サイ。サイはこんなに部屋を散らかすような子じゃないでしょう」
母が震える声で言うと、サイはこれまでに聞いたことがないくらい暗い声で告げた。
「じゃあ、逆に聞くけど、母さんはどうしてこんなに散らかしたの」
ひゅっと母が息を飲む音が聞こえた。それはサイの指摘が図星であることを示していた。面白くもない真実だ。
サイの部屋を荒らすという凶行に走ったのは、旅行で出かけていたはずの母だ。当然のように今帰ってきた風を装っていたが、母はもう少し早く帰ってきていた。戸締まりをすれば外に出てもいいという言い付けの通り、サイが戸締まりをして家を出るであろうことを見越して、行動を起こした。やり方は簡単だ。サイが鍵を持っていて、母である彼女が家の鍵を持っていないわけがない。だから彼女はサイが出払っている隙に堂々と鍵を開けて家に入り、サイの部屋に侵入し、サイの絵を滅茶苦茶にしたのだ。まるでサイが絵を描くことを否定するかのように。──まるで、ではなく、本当に母はサイが絵を描くことを否定したかったのだろう。周りから指される後ろ指に耐えきれなかったのだろう。理由があることくらいは、サイにもわかった。
だが、理由をわかることと、その行動を受け入れることは違う。サイはずたずたにされた自分の大切な絵たちを見て、とても傷ついたのだ。自分の絵はこの世にあってはならないもので、抹消されなければならないものなのだとさえ思った。そのことが涙も出ないくらい悲しかった。……いいや、何より悲しかったのは、いつも自分の味方だと思っていた母が自分の絵を塗り潰して、引き裂いて、否定したことだ。……サイは最後の砦にさえ見放された。そういうことなのだ。
不思議と、涙は出なかった。悲しくて仕方ないはずなのに。……でも、心のどこかでは感づいていたのかもしれない。いつか自分は誰かに見放されると。自分の味方なんて、百八十度決まりきった世界では誰もいないなんてこと、とっくの昔に気づいていたのだ。
それでも、母は自分を庇ってくれたから、庇い続けてくれたから、もしかしたら、最後まで味方でいてくれるかもしれないなんて幻想を抱いてしまったのだ。
サイは絶望した。この世界に僕の味方は一人もいない。この家にはもういない。
──だが。
「ぼくは、この家を出ていくよ。ぼくはいらない子なんでしょう? だったらぼく一人がいなくなったって、何の支障もないはずだ。ここはそういう家なんだ」
「それならサイ、お前はどこへ行くというの」
母の言葉にシニカルな笑みを浮かべて、サイは言い放った。
「ぼくのたった一人の味方になってくれる、王様のところだよ」
母の絶望したような顔をサイが見ることはなかった。
絵をずたずたに、しかも家族に引き裂かれ、心の拠り所を失ったサイは、もう王の元に行って、王に、譬、利用されるだけだとしても、絵を描くことが許されるのなら、もうそれでいいや、と思っていた。
「おう、サイ。別れの挨拶は済んだのか」
「うん。……する必要すらなかったけどね」
そう告げたサイの筆には、もう迷いなどなかった。
サイは絵を描くための意義さえあればよかった。それが悪事に利用されようとも、絵を描くことが意味を持つのなら、それ以上に意味のあることなどないのだ。
そうして、サイは王の指示のままに世界の絵を一心不乱に描いた。
そうして、一つの世界は出来上がった。
描いた世界から、一つずつ不幸な事柄を見つけて、塗り潰して、なかったことにする。それが世界を描き出したサイに課された役割だった。
幸福なこの世界。誰もが幸せで、誰も幸せを疑わない。まさか筆先一つで簡単に操られているとは知らずに過ごしていく。
王が言うのだから、それが幸せなのだろう、とサイは思っていた。
だが、サイはあるとき、自分が今幸福を感じているのは何故か、という疑問にぶち当たったのだ。
王に才能を見出だされたから幸福? 幸福な世界を作っているから幸福? ──なんだかどれも違うような気がした。
いつしか、本当の幸福とは何なのだろう、と悩むようになった。
そして、ある日、唐突に気づいたのだ。
サイは母に絵をずたずたにされた。あのときの自分は不幸以外の何者でもなかった。
けれど。
そこで不幸を感じなければ、こうして王に拾われて生活している今を幸せと感じることができなかったのではないか。
そんなことに気づいてしまったのである。
それが自分が描き出した幸福な世界への違和感へとなり、やがて増大していく。
そうして、矛盾に気づいてしまった体は耐えきれず、二つに引き裂かれてしまった。
何の違和感もなく絵を描き続ける自分と、世界の矛盾を抱えた自分と。
新しく生まれた自分の分身は自分に容姿はそっくりだが、色違いだった。性格もまるで違う。
かくして、サイの抱いた世界への疑念から、一人の少年が生まれたのだ。
「……それが、俺」
「そうだよ」
一つ笑むと、サイはフードを取った。少年ははっと息を飲む。
フードの下から現れた顔は、確かに自分と瓜二つの顔だった。ただ、少年と髪の色と目の色が違う。サイは白い髪で、目は炎のような赤だった。それ以外の目鼻立ちなどは全く同じだ。
分身、と言われた意味が肌で感じ取ることができた。
「なんで……」
「わからない。でも、ごめんね。ボクのせいでキミをこんなことに巻き込むことになった。矛盾を全部背負わせることになった」
謝っても謝りきれない過ちだよ、とサイは言った。
「だからね、ボクはせめてもの償いに、このくそったれな世界を壊してしまおうと思うんだ。そうして、王が間違っているっていうことを言い聞かせるんだよ」
「そ、う……」
抱えているものが想像以上に重くて、軽々しく声をかけることができなくなった。
「そのために、協力してほしい。チャンスは一度きり。ボクができる限りのお膳立てをするから」
「わかった」
少年のあっさりとした答えに、サイがきょとんとする。
「いいの? そんなにあっさり了承して」
「ああ。俺もお前も、思うところは一緒だって、わかったからな」
この世界は、間違っている。
その過ちを正すためならば、どんなことだってしてやろう。
……結局、サイの分身なだけあって、彼の思考はサイによく似ていた。
自分を受け入れてくれない世界をぶっ壊してやろう、という。




