××の慟哭
美好は笑んでいた。その笑みには感情が乗っておらず、時間が止まってしまったような錯覚までをも抱かせるところがあった。
実際、美好は時間が止まったような感覚がしていた。花隣が言ったことを理解しようとはしていなかった。理解を頭が拒んでいた。
だから残酷な質問をもう一度、繰り返す。
「とーるは?」
花隣は美好を真っ直ぐには見られず、目を背けた状態で答えた。
「五年前に死んだ」
「嘘だ」
即座に美好は斬って捨てる。
「嘘だ。俺はとーるの身代わりになった。とーるが林の方に転げていくのを見た。とーるは無事だったはずだ」
「ねぇ、みーくん」
はっとした。花隣はいつの間にかこちらに向き直っていて、美好の手を握っていた。手から伝わってくる花隣の温もりは、嘘なんかじゃない。
花隣は口を開く。
「ねぇ、みーくん。みーくんは車に轢かれた。でも、傷痕一つなく、検査でも異常はなかった。おかしいと思わなかった?」
……目を背けていた傷口をつつかれたような気分だった。
そう、美好は薄々気づいていたのだ。車に轢かれたにも拘らず、傷痕一つない体。怪我が治っている体。
傷痕一つ残すことなく、怪我を治す方法を美好は一つだけ知っている。だが、それは美好と半澤の間だけの秘密のような扱いだったはずだ。何故花隣が知っているのだろうか。
答えは簡単だ。美好が遭った事故の現場には事故に巻き込まれることは免れたが、美好が車に轢かれたのを間近で見た人物がいる。記憶の最後にぱしゃりとシャッターを切る音があったのも覚えている。
「でも、とーるのあの包帯は、傷を治すだけで、とーるの死と何の関係が」
呟く美好に、花隣が鞄から何やら取り出す。それは一冊のノートだった。名前記入欄には「半澤通」と書かれている。
「さわくんの日記よ。信じがたいことが書いてあるけどね、それ以外説明のしようがないことなの」
美好は恐る恐る受け取る。ぺら、とページを開くと、その日記は半澤が新田家に引き取られた日から始まっていた。
父が死んで悲しいこと、新しい家族が怖いこと、カメラを大切にしていることなどが書いてあった。
読み進めていくうちに、やがてある事件へと辿り着く。中学時代、先輩たちとの騒動のことだ。
悲しい悲しい悲しい悲しい、といくつも「悲しい」という言葉が綴られた果てに半澤は、もう自分には生きている意味も価値もない、といった趣旨のことを書いていた。だが、そこから数行の行間を持って、驚くべきことが書かれていたのだ。
「僕の血から、包帯ができた」
本人も最初は信じられなかったようで、何度も何度も死にたいと願いながら、手首を切り裂いた、というようなことが書いてあった。だが、何度やっても同じように血から包帯ができて、リストカット痕すらをも消し去ってしまうのだという。
現実逃避をしたかったのか、それともただの好奇心か、しばらくはその自分からできた不思議な包帯についての実験録が書いてあった。まとめるとこうだ。包帯は半澤の血から生まれ、切り傷に限らず、怪我であればどんなものでもあっという間に治してしまう摩訶不思議としか言い様のない能力を持つものだということ。
そのどんな怪我でもあっという間に治してしまう不思議な包帯を美好は何度か目にしたことがあった。自分に使われたことがあっただけで、まさか半澤の血からできているものだなんて思いもしなかった。
ここで、一旦脇に置いていた現実に目を戻す。半澤は死んだ。美好は生き延びた。車に二回も轢かれたにも拘らず、傷一つ残っていない。──半澤がどのような行動を採ったのか見えてくる気がする。
つまり。
「……とーるは、俺のために」
美好の怪我を治すために包帯を使ったと考えるのが妥当だ。そうとしか考えられない。
だが、どれだけ包帯を持っていようと、全身に怪我を負っていたであろう美好に巻きつけるには足りなくなるのではないだろうか。
──では、足りなくなった分はどうするのか。
「さわくんの死因は出血性ショック死。つまり、血を流しすぎて死んだ。おじ様によれば、手首は酷い有り様だったそうよ。切り刻まれて、骨が見えていたとか」
「そんな……」
罪悪感が美好の心を満たす。つまり、美好が半澤を殺したようなものだ。守ろうと思っていた存在に救われた……その虚しさは計り知れない。
「うぐっああっ……うあああああっ……」
美好は泣き叫んだ。
その声を窓の外、綺麗に映った星空が飲み込んだ。
美好が泣き叫ぶ声を聞きつけた看護師が、花隣を部屋から追い出した。余計なお世話も甚だしい。花隣がいた方が、まだ気が楽だったのに。
一人、取り残された気分が強い。看護師は花隣が原因を持ちかけて、美好を泣かせたと思っているのだろう。
確かに、美好に泣く原因を持ちかけたのは花隣だが、花隣は何も悪くない。死んだ友達の話をしただけだ。そもそも、半澤がどうしているか聞いたのは美好だ。花隣に罪はない。
けれど、涙はこらえられなかった。他の入院患者に迷惑になるだろうと頭を冷やし、声を圧し殺して泣いている。
涙が枕を濡らし続ける中、美好はふと瞬いた。涙が収まったわけではないが、ふとあることを思い出したのだ。瞼の裏に浮かんだ、不思議な世界のことを──思い出したのだ。
そこは、自分一人だけが痛みを感じる世界で、何度も何度も繰り返す世界だった。ループに疲れた美好──の心が乗り移った少年の前に現れたのは、クラウンという赤髪の道化師とサイという半澤によく似た声を持つ少年だ。サイは世界を作ったと言っていた。
何故、今まで不思議に思わなかったのだろう。サイの姿は半澤がいつか趣味で書いたものだと紹介してくれた半澤のキャラクター化したイラストと同じ姿をしていた。自分がなっていたのも、半澤がキャラクター化したものだった。クラウンはわからないが……
そう、リエラも、半澤が花隣をキャラクター化したイラストにそっくりだったではないか。
あの世界は、一体何回繰り返されたのか。途中から数えていなかったが……
美好は五年間眠っていたという。一八二六日を一回のループと換算すると……なるほど、ループを体感した回数はそれくらいかな、と感じられる。
日にちやループの回数は関係ない。まず、重要なのは、何故自分があの世界にいて、キャラクター化された花隣や半澤と出会ったか。キャラクター化された半澤……サイが、何のために美好の魂が宿った少年を救おうとしたのか。
自分はあのとき、紫色の目をしていた。紫は「し」とも読む。つまり「死」。美好のキャラクターは美好が死に瀕していることを示していたのではないか。
対して、クラウンは青い瞳をしていた。青は「せい」とも読む。つまり「生」だ。クラウンを美好のキャラクターに接触させることで、美好を死から遠ざけようとしていたのではないだろうか。
だが、それだけでは足りなかった。だから半澤のキャラクターであるサイが消えたのだ。簡単な色の三原色の話である。紫は青と何を混ぜればできるのか。──答えは赤だ。
つまり紫から赤を抜けば青になるということ。……だからサイの目は赤く、サイは自ら消える道を選んだのだ。美好を生かすために。
「でもよ、とーる……」
美好は窓の縁に寄りかかり、呟いた。
「お前がいない世界なんて、俺には意味がない。張り合いがない。お前がいないのに──お前を犠牲にして生きる未来に、意味なんてあるのかな」
美好は静かに窓を開けた。夏にしては乾いた風が吹き抜ける。まさに今の美好の心のようだ。
半澤のいない世界は、色が褪せたように見えた。
美好は一人呟き、窓から飛び出した。
自由落下に身を任せ、なるべく頭から落ちるように──堕ちていく。
「俺はそんな世界、嫌だな」




