放課後の美術室
油絵の具かニスかよくわからないが、ここにはいつも独特な匂いが漂っている。かと思えば、机には鉛筆で落書きされていたり、とある意味自由な空間だ。──美術室という場所は。
美術室は故あって、必ず学校の北側に設置されるらしい。故があるのは覚えているが、どんな故だったか思い出せないため、美好は難しい顔をしていた。
放課後。よほど朝早いか、日が傾くかしない限り、この部屋には日差しが入ってこない。匂いはあれだが、その点では目に優しいように思う。
そんな美術室に美好がいるのは、美好が美術部だとか、美術担当教師に呼ばれているからだとか、そういう理由ではない。まあ、待ち合わせなので、呼び出しでも間違いではないが。
やがて、がらがらと美術室の入口が開く。そこから入ってきたのは、髪を肩口で結わえた、口元のほくろが印象的な女子生徒。
「おせぇぞ。呼び出したのはそっちなのに、待たせるとはどういう了見だ」
「あら、女の子は待ち合わせは待たせるものと相場が決まっていてよ」
「そりゃリア充の話だろうが」
「なぁるほど、リアルが充実していないみーくんは、女の子一人待つ余裕も持てない悲しい男の子なのね」
「うるせ」
どうせ彼女いない歴と年齢がイコールで結ばれていますよー、だ、なんて子どもっぽい返しをする美好。こんな美人を前にもったいない。
だが、彼女はまあ、気心の知れた仲だ。簡単に言うと、幼なじみである。園崎花隣、朝、半澤との会話に出てきた人物である。
「っていうか、その鼻の絆創膏は何? また転んだの?」
「悪いかよ?」
「悪いとは言っていないわ。あーいつもより風情のある絵が描けそー」
「心がこもっていないこと甚だしいな」
花隣の棒読みに美好がそう突っ込むと、花隣はむっとした様子で返す。
「絵には心を込めますよーだ」
「絵にしか心こもってないんじゃねぇの」
「むごいこと言うわね。でも私はそれでいいの」
キャンバスをセッティングする花隣。彼女が美術部なのだ。美好はそれに付き合っているという形である。
花隣は絵を描くのが好きで、得意だった。小学生の頃から、美術系の賞をよく採っていたように思う。確かに、花隣は絵が上手い。技巧とか、そういう専門的なところはよくわからないが、そこいらの子どもが描くより、ちゃんと形になっている絵だと美好は思う。
そんな絵描きの彼女の信念を復唱する。
「写真はありのままを写すもの、絵は心を写すもの、だっけか?」
「よく覚えておいでで」
「耳にタコができるくらい俺に口酸っぱく教え込んだのはどこのどいつだよ」
ギッと適当な席の椅子を引き、座る。机に頬杖をついて、美好は気のない様子で花隣を見た。
「で? 今日はどうすればいい?」
「その格好いいわね。そのポーズでお願い」
「園崎のお嬢様は頬杖が地味に痛いことをご存知ないのか」
「ご存知も何も、みーくんが勝手にそのポーズになったんじゃない」
「へいへいあたしが悪ぅござんした」
剽軽に美好が肩を竦めると、花隣も肩を竦め返して、キャンバスの前に陣取った。
筆を握るとその瞬間、花隣の雰囲気は変わる。具体的にどう変わるのかというのは説明しづらいが、先程のようなおふざけの会話ができなくなるくらいに真剣味を帯びている。美好は黙って、ふいっと花隣から目線を外した。
話し相手になるわけでもないのだから、顔を見ていても仕方ないだろう。美好は浅くても長い付き合いだ。こうなった花隣がほとんど口を聞かず、黙々と絵描きに没頭するのを知っていた。
美好は別に一人でじっと黙っていることなんてできない! というようなたんぱら持ちではない。目付きは三白眼なので、あまり友達が寄りつくことはない。かといって、クラスから爪弾きにされているわけでもない、不思議な存在だった。美好自身はずっとそういうスタイルで生きてきたので、特に不思議とも思わないが。
こんな男を黙々と描いて、何が楽しいんだか、と美好は常々思っている。確か、こういう風に、放課後の美術室で絵のモデルになり始めたのは中学に入ってからだ。三年と少しのこと。慣れはするが、疑問は絶えない。幼なじみだから身近ではあるが、見た目で言ったら、美好より優良物件なやつなどたくさんいるだろう。ちなみに、美好には面食いの姉がいるのだが、その姉曰く、美好の顔は中の下らしい。
花隣は美好の隣のクラスだ。隣といえば、半澤と同じ。半澤は姉の判定によると上なのだそうだ。何故中から下は更に三段階に分かれているのに、上は上だけなのか。全くもって腑に落ちない。
だが、半澤の顔がいいのはわかる。通りすがっただけで女子が黄色い歓声を上げるのを何度聞いたことか。耳鳴りがして悩むくらいには聞いた。美好と半澤の仲がいいことが知れて、半澤目当てに美好に言い寄ってきた女子も数多くいる。美好が半澤を女泣かせという所以である。
その顔にあの爽やかさ。青い青い空をバックにあの笑顔を撮ったら、さぞかし映えることだろう。
趣味というほどではないが、美好は写真を撮る。世に言うガラパゴスケータイで。姉には旧時代の遺物と鼻で笑われたが。スマホでやっとこさ手振れなく撮れる姉に比べれば、上手いという自負はある。実際、半澤とはそれで意気投合したのだ。
半澤は写真を撮るのが好きだ。土日に会うと、必ず首からネックストラップでデジカメを吊っている。肩が凝らないのか、という的外れな疑問を抱いたが、それより今気になるのは、半澤が写真を撮るときに必ず言う「見つけた」という言葉と笑顔。あれ以上の半澤の笑顔を美好は知らない。
ただ姉に対抗心を燃やして撮っている美好とは大違いだ。──半澤は写真が好きなのだ。今、キャンバスにかじりついている花隣が絵が好きなのと同じくらいには。たぶん。
と、話は逸れたが。
どうして、そんな絵になる半澤がクラスメイトでありながら、花隣は半澤ではなく、自分を選ぶのか。美好は不思議で仕方なかった。
それと、もう一つ引っ掛かるのが、花隣の信念だ。何故頑なに絵と写真を区別するのか。写真みたいな絵を描いたりするくせに、写真には否定的なその理由がよくわからなかった。
小学生の頃、街の美術館だか何だかに、花隣の絵が展示されることになって、花隣と一緒に見に行ったことがあった。あのとき、絵画展と一緒に写真展もやっていたのでちらりと覗いた記憶がある。……いや、記憶がある程度では済まないか。あれは美好の瞼に今も鮮明に思い出せるほどに焼きついている。
小学生のうちはあまり着目されない写真部門で賞を採っている小学生がいた。名前は覚えていないが、その写真が美好の価値観を百八十度変えてしまうようなすごい作品だったことは覚えている。鳥肌が立つとはあのことだろう。
あったのは、白い菊一輪の写真だ。たった一輪の白い菊。けれど、そのたった一輪に心を揺さぶられた。
あの写真には感情がこもっていた。花隣が言うところの心だ。花隣の信念をなぞるなら、その写真に感情がこもっているのは異様なことだ。けれど、そこにある感情を誰も否定することなどできなかっただろう。だからこそ、最優秀賞としてあの美術館に飾られていたのだ。
あのときの興奮は未だに忘れられない。興奮のままに、花隣を引きずっていって、「ほらリン、すごい写真があるぞ」と見せた記憶がある。そのとき、花隣は確か──
「気持ち悪い。絵みたい」
確かにそう言った。よく覚えている。その言葉に美好は深く傷ついたのだから。
だが、考えてみれば、あの写真は花隣の好みにはそぐわないものだったのかもしれない。花隣の「写真はありのままを写すもの、絵は心を写すもの」という信念がいつからあったかは知らないが、小学生の頃にはその片鱗があったのかもしれない。だとしたら、絵のように心に訴えかけてくるあの絵を気持ち悪い、と侮蔑するのは仕方のないことだったのだろう。
花隣はもうそのときのことなんて覚えていないだろうな、と思う。ちら、と窓の外を見た。なだらかな坂に林がなっているそこからは空は覗けない。はあ、と溜め息をこぼす。
別に、絵みたいでもあの写真は美しい、それでいいと思うのだが……
考えてみれば、あのときから花隣は躍起になって絵を描くようになった。別に見せびらかすつもりもないので見せていないが、美好が撮った写真にも興味を示していなかったように思う。
まさか、あの写真に対抗心でも燃やしているのだろうか。
美好は花隣の方をちらと見た。真剣な眼差しがそこにある。
花隣がどう思って絵を描いているかなんて、考えてみれば、自分には一切関係のないことなのだ、と思い直した。見るところも見る理由もなくなったので、美好は花隣から教卓に目を移した。何の面白味もない、上下する黒板があるだけだ。
面白くもないその風景を数十分眺めて過ごした。