交錯する思い
少年は糸の切れたマリオネットのように崩れ落ちるクラウンを受け止めた。
マリオネット。操り人形のことを言う。サイはこの世界の少年以外の人間は全て人形だと言った。塗り潰せば簡単に消えてしまう、脆い存在。世界を幸福たらしめんためだけに存在する、まさに操り人形。そんな操り人形の世界が果たして幸福と呼べるだろうか。
サイは答えをわかっている様子だった。答えをわかっているからこそ、疑問を抱いたのだろう。そうして少年が生まれたというが……肝心要な部分を話さずに消えていったため、少年はむっすりと顔をしかめた。
結局、サイというこの世界の黒幕の一人に会うことはできたが、物事が前に進んだ気がしない。すっきりしない。世界はまたループするのだろうか。だとしたら、今の邂逅に一体何の意味があったのだろうか。
考えてもきりがない。というか、少年には結論が出せない。サイが肝心要なことを言わずに立ち去ってしまったから、少年はもやもやとしたまま、またループまで過ごさなければならない。世の中とは、ままならないものである。自分が世界の命運を左右するなんだか大がかりな存在であることはわかったが、だからどうしろというのだ。少年は少年でしかない。サイが言っていた通り、リエラの言っていたことが真実ならば、少年は世界を壊せる。そして、先程のサイの言動から鑑みるに、世界を壊すことこそがサイの目的であるようにさえ思えてくる。
このままサイの提案に乗って、この繰り返すばかりのくそったれな世界を壊すことには興味をそそられたが、いかんせん、サイのいいように扱われているような気がして、気分がよくない。やるなら自分の意志で成し遂げたいものだ。
意志、か、と少年はまた空を見上げる。空を見上げるのは、最近癖になっているような気がする。考え事をするとき、空は寛大にその考えを受け止めているように見えるし、自分には関係のないことだ、と淡々と時間を流していっているようにも見える。空は物を語ることはない。だから、少年にとってそれは気楽なことだった。
などと考えていると、倒れていたクラウンが、んん、と声をこぼして、ゆらりとその瞳を開いた。左目は空のような青、右目は瞳孔も虹彩もない白。少し眠たそうな眼差しが、少年を見上げてきた。
「あれ、僕、寝ちゃってた? ごめん」
ずきん、と胸が痛む。ついさっき、サイが目の前に現れたことをクラウンは覚えていないようだった。サイがクラウンをそのように描き替えたのか、人形のクラウンと人間のクラウンの意識が二重人格のように異なるものなのかはわからない。だから、さっき、サイに会ったよ、と伝えるべきか否か、少年は悩んだ。
不思議そうに見つめてくるクラウンの目が胸を打つ。いちいち主張するように、少年に痛みをもたらす。
「キミがクラウンを望む限り、クラウンはきっと、消えたりしないよ」
サイが残した言葉が蘇る。
サイの思惑の全てが先の対話でわかったわけではない。ただ、確実なのは、サイは少年の意志を蔑ろにするつもりはないということだ。
言葉を曲解するなら、少年がクラウンにいてほしいと思う限り、クラウンはずっと少年の傍にいてくれる。世界がまたループしても、また現れて友達になってくれる。そういうことなのではないかと思う。
サイの思惑も、その更に黒幕の王の思惑も少年にはまだ見えない。
ただ一つ、確かな少年の意志として存在しているのは、クラウンと離れたくない、ということだ。
クラウンと一緒に旅をしていて、少年は楽しくて仕方なかった。家で勉強机にかじりついて、この世界の常識を植え付けられるより、遥かに自由を感じた。その自由は少年に、満ち足りる、という感情を覚えさせた。
自由を得て、満ち足りる世界。その世界こそ、本当に幸福と呼べる世界なのではないだろうか。もちろん、友達ができた、たったそれだけのことで満ち足りるまでには少年には数多の困難があった。人に理解されない痛みという概念、異端と世界に見放されたこと……少年は不幸を負ってこそ、今、クラウンと過ごす日々が幸福だと感じられる。
サイの考えはわからない。だが、少年は少年なりに考えた。サイが間違いを伝えたい王という存在に、不幸のない幸福な世界を間違っていると伝える方法を。
それは、この世の不幸な言葉を全て背負った彼が、幸福になる、ということだ。矛盾、相対するものがあってこその幸福。その理論を証明してみせれば、王はそう簡単に口出しできなくなる。世界を見直してくれるかもしれない。
それなら、俺は。
「突然倒れたんだ。体の調子が悪いんじゃないか? 今日は休もうぜ。食糧はあるし、一日くらい休んだって、支障はないだろ」
「……それもそうだね」
こうやって、クラウンと過ごす毎日を、いつか幸福に辿り着けると信じて歩んでいく道を選ぶ。
クラウンは、なんとなく、わかっていた。
少年に、自分の重大な秘密がばれてしまったことを。……どうやってわかったと言われると、勘としか答えようがないので、なんとも言えないが。
クラウンは自分の存在がどのようなものであるか、自覚していない。当然だ。クラウンはサイの最高傑作の人間なのだから。
マリオネットが操られていることを知らないで、人間として生きる世界。それがこの世界だ。無論、クラウンは知らないことだが。
彼が世界の鍵であることは彼自身も知らない。彼はこの世界の誰よりも、人形でありながら、人間として生きている人形だから。サイがそのように作って、記憶まで植え付けたのだから、間違いはない。
ただ、クラウンは一つだけ嫌なことがあった。それは、少年と引き離されることだった。
彼は片目を失い、異端として、後ろ指を指されて生きてきた。サイに守られていたとはいえ、そういう悪意を感じ取る心は持っていた。
そんなクラウンに、何の偏見もなく、友達になってくれた少年には感謝が尽きない。大道芸人としては、少年はまだ道半ばだ。それでも必死に芸を覚え、共に旅をしてくれる。そんな少年の存在は、物乞いとして一人で旅をしていたときより、心がぽかぽかして、手放しがたくて、クラウンは彼に依存していた。
……彼のいない世界なんて、考えられない。そう思うほどに。
この世界は真ん丸くて小さい。だからいつか、やがて、世界の果てに着くだろう。夢のない話をすれば、少年がいた町に戻ることになるだろう。そう遠い未来ではない。
故郷に帰ったとき、少年はそれでも、クラウンの傍に居続けてくれるだろうか。クラウンの傍にいたいと言ってくれるだろうか。
そう考えると、気が重くなった。自分も知らない自分の秘密を知って、彼は何を思っているのだろうか。クラウンを……見放してしまうのだろうか。
不安の波が一気に押し寄せて、クラウンは寒気を感じた。久しぶりに感じる。世界がまるで、自分ひとりぼっちになってしまったかのような寂しさ。
それを少年に打ち明けることはできない。それを打ち明けてしまったら、少年は責任感を感じて、打ちのめされてしまうはずだ。そんな思いはさせたくない。
喉まで競り上がってきた苦いものをクラウンは飲み下した。友達のために。友達のためになると信じて。
交錯する思い。
それをサイは虚空から監視していた。
満足げに頷く。
「さすがはボクの最高傑作。人形でありながらにして、感情を抱き始めたか。クラウンにとっては苦しいことになるだろう。けれど、幸せはいつだって、苦しみの先にあるんだ。
──苦しみの先にある、本当の幸せを、見つけてほしい」
そこから先の言葉は、サイが頭の中で紡いだので、誰も知らない。
かつて僕が「見つけた」と言って、幸せな写真を撮っていたように。




