世界の向こう側
「そういえばさ」
旅は順調。今日も日の光が眩しく、絶好の大道芸日和だ。日はほとんど真上に近い。そんな頃合いに、ふと少年は林檎をかじりながら疑問を口にした。
「いつか言ってた、クラウンを育てた人ってどこにいるの? クラウンが今、物乞いをやっているってことはさ、その人はもう傍にいるわけじゃないよな」
「ん」
すると、クラウンは少し、物寂しげな笑みを浮かべた。聞くべきではなかったか、と少年は後悔するが、出た言葉は返らず、後悔は決して先に立たない。
クラウンは物寂しげな笑みを打ち消すように、明るい声音で喋った。
「サイはね、世界の向こう側に消えてっちゃった」
「世界の……向こう側?」
ちらりと少年の脳裏をリエラがよぎる。世界の向こう側。まるで、異世界のような。
……いや、違うだろう。そんなにほいほい世界の向こう側とやらに行けるのなら、クラウンはこんなに寂しげな表情はしないだろう。
少年はそっと話の方向を逸らすことにした。
「サイって、育ててくれた人の名前?」
「うん、とても感謝してる。サイくらい優しい人は、見たことがないかな」
俺じゃ敵わないか、という思考がよぎった。がよく考えてみると、比べるべくもない。クラウンは家無し子だ。それを育てるなんて、並の人の好さでできることではない。つまり、張り合うような場面ではないのだ。
「サイはね、僕の目のこと、ずっと気にしてた」
クラウンが色のない右目に触れる。虹彩も瞳孔も白い瞳は、人間めいていない。人間らしい片方の青い目は存分に感情を物語っているというのに。
「僕のこれは、生まれつきなんだって教えてくれたのはサイ。生きるのに困らないように色んな芸を教えてくれたのもサイ。サイは最後まで、僕を見捨てたりしなかった。記憶にもない両親とは違って」
……そうか。
両親、という言葉で、少年はようやく知覚する。今、クラウンから聞いているのは、クラウンという人間の、人生の物語なのだ。クラウンは友達。だが、自分とは全くの別人で、冷たい言い方をすると、他人。そんな他人の物語を聞いているのだ、と思ったら、肌が粟立つような感覚がした。他人の領域に踏みいる。それがとんでもない大罪のような気がして。
けれど、クラウンは気にした風もなく、続ける。
「僕はね、サイに教わった通りに生きているよ。サイに見つけてもらわなかったら、僕は死んでいたかもしれない。そう考えたら、育ててくれた人に感謝以外、することなんてある? だから僕は、サイが世界の向こう側に消えちゃっても、サイのことを思い続けているよ」
それはその通りだろう。他人にこんなに明瞭に話せるくらい、クラウンの中のサイという存在は大きい。
やっぱり、少し悔しかった。一応、これでも、クラウンの友達をやっているのだ。勝手な焼きもちであることは承知済みだが、少年は見も知らぬサイという人物に嫉妬した。いつか、クラウンの中でサイくらいの存在になりたい、なんて欲を抱くほどに。
そこでふと、少年は疑問を抱いた。何故自分はこれほどまでに、クラウンという存在に執着するのだろう。友達であるということに拘るのだろう。
答えなんて、なかった。だが、ふと頭に思い浮かぶのは、いつか見たノイズの向こう側。聞いたあのときの会話。
空を見上げると、今日も青い。いつものことだ。当たり前だ。
だから、脳裏に蘇ったこの言葉も当たり前のことなのだろう、と呟く。
「空の青って、塵の乱反射らしいな」
すると、クラウンが目を丸くし、それから苦笑した。
「君がそんな夢のないことを言うなんてね。ああ、でも」
思い出したようにクラウンは付け加えた。
「いつだったか、サイもおんなじこと言ってたよ。この青い空は、ごみくずの乱反射なんだって」
「俺はごみくずとまでは言ってないぞ」
「同じ意味じゃん」
くすくすとクラウンが笑う。少年は不機嫌にぷいっと顔を逸らした。
クラウンは空を見上げた。少年は見ていないが、クラウンがそうしたのであろうことを察した。
「はあ、懐かしいな。僕も世界の向こう側に行けたらいいのに。そうしたらサイともう一度会って、君を友達だって」
紹介できる、とクラウンが言ったのを、少年はきちんと聞いていなかった。ものすごい違和感に気づいたのだ。それによって、紫はこれまでにないほど見開かれている。
クラウンは世界の向こう側に行くことと死ぬという言葉を別な言葉として表現していた。死んだサイに会いたいのだとしたら、今のクラウンの台詞は、サイに会いたいから早く死にたい、という解釈になる。だが、少年は知っている。クラウンが死を常日頃から望むような鬱屈した人間でないことを。
つまり、「世界の向こう側に行く」ことと「死ぬ」ことは全く異なる事象なのだ。クラウンはそれを知っている。
そうして、気づいた。
不思議そうに首を傾げ、こちらを見つめるクラウン。その右目は虹彩も瞳孔も白くて、人間めいていない。
必死に思い出す。そういえば、あのとき、リエラが落として、欠けたピエロ人形の目はどちら側だったかを。──確か、右目で、あのピエロ人形も青い目だったはず。
ポケットの中に、旅をするときに忍ばせていた欠片がある。青い欠片だ。ガラスのようなものでできた欠片。小瓶に入れて、持っている。
サイ。死んだのではなく、世界の向こう側に行った人物。クラウンとの出会い。──点と点が結ばれていくと、二人が出会ったこと自体がもはや偶然という言葉だけでは括れないものになってくるような気がする。
「……ねぇ、クラウン」
「なぁに?」
無邪気なクラウンの目が痛い。じくじくと胸に染みるような痛みをもたらす。
……やはり、自分の代名詞は痛みのようだ。
この問いを口にしたら、もう戻れない。そんな気がした。けれど、聞かなければ、何も進まない。そんな気もした。
変わらない、ループする世界。それをずっと続けることを自分は望むのか。
「……そのサイってやつは、今、どこにいるんだ?」
クラウンはきょとんとして、彼を見た。それから、にこりと笑った。
「サイのこと気にしてくれる人がいて、嬉しいな」
にこりと笑うと、クラウンは告げた。
「サイは世界の向こう側にいるんだよ」
「だから、世界の向こう側って──」
ザザッ。覚えのある、ノイズがした。
「どうやら、そのときが来たようだね」
その声に、少年は瞠目している。
いつか聞いた、自分の声と会話していたその声だ。
「塵なりに輝いている青なんだよ」
クラウンのような口振り。けれど、この声はクラウンのものではなく、唐突に、クラウンの後ろに開いた黒い空間から、現れた人物のものだった。
その人物は深緑色のローブを纏い、フードを目深に被った怪しさ満点の格好だった。
その人物は、フードから覗く口元を微笑ませていた。
「やあ」
その人物は、クラウンの隣に立ち、親しげに少年に手を挙げた。
「会いたかったよ」
「……会いたかった?」
そんな脇で、その人物の登場に気づいたクラウンが目をぱちくりとさせる。
「サイ……サイなの?」
「え、こいつが?」
思わず口にすると、クラウンが深く頷き、サイと示された人物が、恭しく頭を下げる。
「クラウンが世話になっているようだね。はじめまして。ボクはサイ」
頭を上げると、その人物の目がちらりと見えた。炎のような温かい色の瞳に、どくりと少年の鼓動が高まる。
なんだ、この感覚は。
「やっと会えたね」
「どういう……」
「ボクはね」
サイはなんでもないことのように告げた。
「この世界を作った一人だよ」




