坂の上から
──果てしなく続く空は、どこまでもどこまでも青かった──
青い絵の具をぶちまけたような胸の透く快晴の空。その中でからからと自転車の車輪が空回りする音が聞こえた。これはこれで、なかなか風情があるんじゃなかろうか。
果てしなく続く空とはよく聞くフレーズだが、現在、地面に仰向けに倒れている少年の視界に映る空はおよそ二十センチ程度。本当は車が通るために幅が左右百五十センチほど取られ、三メートル、心ばかりの歩道から横に五十センチずつ取られ、木が植えられているため、木々の合間は実質四メートルほど開いている。そこから見える空の幅は四メートルということになるわけだが、遠近法により、十五センチ定規より少し長いくらいの幅にしか見えない。それではとても、広大な空とは形容できなかった。
「あー、またこけた。最悪だ」
少年とて、別に好きで地面に大の字になっているわけではない。転んだのだ。自転車を引きながら。
むくりと起き上がり、木々の方へ盛大に転がっていた愛車──自転車の方に向かう。少し籠が歪になっていたが、異常はそれくらいだ。少し申し訳なくなりながら、少年は自転車を起こした。それから溜め息を吐く。
「最近多いよなぁ、坂道の暴走車」
制服の土埃を払いつつ、少年は呟いた。
彼の名前は海道美好。長い坂の中腹辺りに家がある。そこから坂の麓にある高校に通っている。
不機嫌そうなのはいつものこと。何の因果か、彼は毎日毎日何かしらの理由で転ぶ。毎日転んでいたら、機嫌もあまりいいものではないだろう。しかも、自分が原因でないならば尚更。
最近は坂道でアクセル全開の車が多く、それを避けようとして、ガードレールのない木の方に倒れるのである。制限速度は確か、法律では時速六十キロ、この坂の標識では時速四十キロだったはずである。車を運転したことがないのでわからないが、最近の車は飛ばしすぎの気がする。
それにこの坂道、一応とばかりに白線が引いてあるが、白線から外側のコンクリートは十センチほどしかない。そこをどうやって歩けというのか。
だが、坂道で交通量もそこそこある。工事もやりにくいのだろうというのはわかるが、改善を求めたいところだ。
歩き出す前に空をもう一度見上げる。美好の憂鬱など知らないように空は青く透き通っている。はあ、と溜め息を吐いて、美好は歩き出した。鼻の頭が痛い気がする。
やがて高校が見えてくる。今日はあいつに会わなくて済んだな、と思いながら、学校の方に曲がる。すぐに花壇が見えてきた。黄色とオレンジのマリーゴールド。ほとんど季節を問わずに咲き誇るその花は少々眩しく感じた。
と、そこにさらさらと雨が降り注ぐ。正確に言うと、雨ではない。如雨露の水だ。
美好は顔を上げて、如雨露の持ち主を見た。
「よ、半澤」
「あ、海道くん。おはよう」
空に負けないくらい爽やかな笑みを浮かべるカーディガンの少年。名を半澤通という。美好とはクラスが隣で、ひょんなことから知り合って、友達みたいな関係になっている。
半澤は花が好きらしく、毎朝早くに登校して、花に水をやっている。小学校の頃から続けていて、もはや癖のようなもので、毎日やるのは苦ではないらしい。
「今日も早いな」
「海道くんこそ。って、どうしたの? その鼻」
指摘され、ああやっぱり怪我しているのか、と思い、おざなりに答える。
「こけた」
「絆創膏貼らないと」
「いいって」
半澤は聞かず、ポケットなんかを探って絆創膏を探す。ないなあ、と困ったような表情をする半澤に苦笑して、美好はポケットから絆創膏を出した。
「どの辺だ?」
「僕が貼るよ」
ぴ、と美好の手から絆創膏を抜き取る。それから、如雨露を置き、美好に近づいてくる。距離感が特殊な半澤は鼻がつくほどまで近づいても気にしない。たかだか鼻に絆創膏を貼るくらいでそこまで詰め寄られると、少し気にしてしまう。半澤は女子人気が高い。その端正な顔が近くにあるのが、なんだか気恥ずかしかった。男同士ではあるが。
「貼れた」
「そ」
「痛くない?」
「痛いも痒いも最近正直わかんねぇよ」
美好は幼い頃からとにかく一日一回はこけるのだ。怪我をしないこともあるが、怪我があることの方が多いように思う。そんなにやんちゃなつもりはないのだが。
故に、あまり痛いだの怪我しただのと喚くことはなかった。いつものことなのだから、仕方ない程度の認識だ。
そんな美好を半澤は案じる。
「そうやって痛覚が鈍くなっていったら、きっと大怪我するまでわからなくなっちゃうんだから、気をつけてよ」
「お前は俺のおかんか」
だが、半澤の言うことはわかる。痛覚が鈍くなっている自覚はある。鈍くなっているというよりは、痛みに耐えることに慣れてしまったという方が正しいだろう。毎日のように痛い思いをしているのだから、仕方ない。気をつけるといっても、何をどう気をつければいいのか。転ばないようになら、いつも気をつけているのだが。
「暴走車はどうしようもないよなぁ」
「え、暴走車? そんなの出るの?」
「ああ。危ないったらありゃしねぇ」
「警察とかに言ったら?」
美好は苦笑いする。美好の父は警察官だ。坂の暴走車の話は当然話題に挙がった。
「一台じゃないからな。ネズミ取りでもしないと捕まえられないよ」
「ネズミ取り? ええと……トリモチとか?」
半澤の発想に思わず噴き出す。半澤はきょどきょどした。
美好が笑いながら説明する。
「ネズミ取りってのは、警察がシートベルト着用義務違反とか、速度違反とかを取り締まるために、道端に隠れて違反車を張り込みで探すことを言うんだよ。トリモチくらいじゃ、車は止まんねぇだろ」
「……それもそうか」
車がトリモチを轢いたらどうなるのか、それはそれで気になるが。
「しかし、トリモチな。トリモチか。あははっ」
「そ、そんなに笑わないでよ。知らなかったんだから」
「わりぃ」
笑いを引っ込めようとするも、口角が吊り上がったままなのを抑えられない。
半澤はそれにむっとしたようで、美好を見上げながら、頬をむにっとつつく。
「おい、何すんだよ?」
「仕返し」
「随分可愛い仕返しがあったもんだな」
「五月蝿いやい」
ご機嫌は斜めのようだったが、満足したのか、半澤は手を離し、如雨露の方に戻った。
「車に轢かれないようにね」
「おう」
車に轢かれないために、歩行者や自転車の方から気を遣ってやらなければならない世の中というのも、嘆かわしいことだ。
「園崎さんとか心配するでしょ」
「リンが? あいつは面白がってるようにしか見えないが」
「鈍いなあ」
美好は首を傾げる。痛覚以外は鈍いつもりなんてない。
「ま、僕は鈍かろうがなんだろうが、海道くんのことは好きだけどね」
「お、おう」
「他意はないよ」
「そう付け足されると他意があるように聞こえるんだが」
「ないってば。友達として好きなんだよ。だから心配もする」
心配ね、と呟く。こうして思いやってくれることは嬉しい。友達として、半澤のことが好きなのは、美好も同じだ。
ただ、半澤の言い様があまりにも紛らわしく聞こえたので、一つケチをつけておく。
「お前って絶対女泣かせだよな」
「海道くんには言われたくないよ」
即座に返ってきた言葉に美好は苦笑する。
半澤とこうして笑い合っていられれば、美好はそれでよかった。