明くる日
倒れた花隣とそれを抱き止める美好。その光景を遠目に見ている人物がいた。
「……園崎さん……」
美好が家から出た途端、かなりの速度で登ってきた車があった。美好は咄嗟にそれを避けるために横に転がろうとし、家のブロック塀に全身をぶつけた。自転車が反動でかしゃん、と倒れる。
「ぐ……」
呻くように息をこぼす。痛みは全身を鈍く覆う。参ったな、と口の中で呟いた。軽く目眩がするのが収まってから、自転車をからからと引いて坂を下り始める。
全身が軋むようだ。幸いと言ったらいいのか、美好の体がクッションになったことによって、自転車の歪みはない。自転車はいつもこんな思いをしているのか、なんて他人事のように考えた。
「はあ……けほ」
空咳が出る。ちょっと打ち身がひどいのかもしれない。
坂を下ればすぐ学校だ。ひどければ保健室で休むこともできる。
ただ、その朝は一つ、普段と違うところがあった。
「あれ、とーるがいない……」
いつも朝早く来て、花壇に水やりをしている半澤がいなかった。いつもならもう来ていておかしくない時間なのだが。
粗方、教室にでも行っているのだろう、と思って校舎に入る。幸いなことに、二人の教室は隣同士だ。話したければ教室に行けばいい。それが億劫になるほどの距離でもない。
だが、物事というのはいつも思い通りに運んではくれないものだ。遅く来たつもりはないが、美好の教室にはわやわやと人が溢れていた。別にそれだけなら気に留めることもなかった。何事でもないように知らんぷりを決めていればよかったのだ。
だが、状況はそうはさせてくれなかった。教室にたむろしていた女子の一人──記憶が正しければバスケ部の女子マネにこう声をかけられたのだ。
「かいとくん、そのちゃんのこと振ったんだって?」
美好は溜め息を吐きたい気分に駆られながら応じる。
「そんな情報、どこから?」
「ただの噂だよ。目撃によれば、そのちゃんとかいとくんが昨日二人一緒にいて、そのちゃんが泣いてたとかなんとか」
女子の噂とは恐ろしい、と思いながら軽く頷く。
「まあ、確かに俺はリンのことを振ったよ。昨日の話じゃねぇけどな」
「かいとぉっ!」
「がっ……」
左胸に強い衝撃。空気の塊を吐き出す。
見上げると、怒りに満ちた表情のバスケ部員。彼は頭に血を上らせたのがよくわかる表情で怒鳴った。
「殴らせろっ!」
「もう殴ってんじゃねぇか」
嘆息する。ずきずきと胸が痛い。
そんな美好の様子を気にした風もなく、そいつは言い放った。
「振るのが悪いたぁ言わねぇよ。なんで泣かした?」
泣かせたことを肯定したわけではないんだがな、と思いつつ、顔を上げる。まあ、泣かせたことは事実だからな。
「別に、泣かせたくて泣かせたわけじゃねぇよ」
「っ……!」
どす、と重い一撃が来る。今度は掌で受け止めた。受け止めた手がじんじんと痛む。
「お前が、お前がどうしてそんなに平気そうな顔してんだよ? なんで平然と振ったとか言えるんだよ!?」
バスケ部員の熱の上がりようとは対照的に、美好の頭は徐々に冷えていった。
「何故そんなにお前が怒るんだ? これは俺とリンの間の問題で、お前には関係ないはずだ。リンが誰を好きで、俺がリンにどう接しようと、お前には関係ないはずだ。それなのに何故そこまで怒る?」
煽り文句のようだ、と鼻で笑いたくなった。事実、煽っているのだが。
言葉に詰まるバスケ部員に対し、美好はとどめの一撃を入れる。
「まるで、お前がリンのこと、好きみたいだな?」
さぁ、と顔から血の気を引かせたのは、いつだったか、このバスケ部員を好きだと言っていた女子マネだ。美好の推理が当たっているなら、彼女の片想いは白日の下に晒される。それは美好しか知らないことであるが、知っているのに、こんな煽りを続けるのも酷か、とも思った。
そのとき、美好に左ストレートが飛んでくる。美好は堪らず、避けた。避ける以外の選択肢は存在しない。
少々くたびれた顔になっていたのではないかと思う。実際、美好はくたびれていた。
「悪い、今日は一回全身打ってんだ。これ以上は付き合いきれねぇ。保健室に行く」
「う、うん」
女子マネがぎこちなく頷きながら、不安そうに美好を見る。美好はふらつきながら教室を出た。
体が言うことを聞かない。真っ直ぐに歩けている気がしなかった。階段まで、なんとか辿り着くが、一段ずつ、慎重に降りていく。幼稚園児の遊びみたいな降り方をしたのは、果たしていつ以来だろうか。
そう思っていると、一段踏み外した。「あ」という声が空気の中に取り残されるように響く。転ぶじゃ済まない。階段から転がり落ちる。足の骨でも折るんじゃないか、と他人事のように考えていると、落下するのが急にがくんと止まった。
「大丈夫? うみくん」
「……とーる」
思わず泣くかと思った。気づかれないように、ぎゅ、と腕を背中に回し、確かに掴まった。
大丈夫ではない。けれど、たった今、大丈夫になったような気がした。……ああ、俺はこんなにもとーるに救われているんだな、と思ったら、涙が溢れそうになった。花隣の指摘した通り、美好は半澤に依存している。自分で認識しているより、ずっと。
いつだったか、半澤が美好に、敵わないな、なんて言ったことがあったが、それはお互い様だ。美好も半澤には敵わない。到底敵いそうにない。
保健室まで付き添ってもらって、軽く事情を説明した。それからニヒルに言ってみせる。
「お前も、殴っていいんだぜ? 俺のこと」
「え? 僕が? うみくんを? 殴る? あり得ないよ」
そうだろうとは思った。そもそも、半澤が人に危害を加えるところが想像できなかった。虫も殺せなさそうだ。
だが、半澤にもちゃんと理由があった。
「僕がうみくんにこのことで殴ったりなんてしたら、ただの振られた八つ当たりでしょ? それに、言ったはずだよ。園崎さんには、告白できただけで充分だってね」
「欲のないやつ」
「……園崎さんを困らせたいわけではないし、うみくんを困らせたいわけでもないんだよ」
「そ……か」
仄かに笑みが零れる。
「うみくん、事情はかいつまんで先生に伝えておくから、今日は保健室で休んだ方がいいよ」
「おう、さんきゅ」
保健室を出ていく半澤。す、と扉を閉める。
それから、半澤は保健室の脇の壁に寄りかかり、頭を抱えた。
耐えるのが、大変だった。美好の前で泣いてはいけないと思った。美好の前で泣いたら、美好に責任を抱かせてしまう。
「う……ぁ」
半澤の頬を涙がつたっていく。顔を覆った手が、微かに塩を孕んだ水に濡らされていく。
園崎さんはやっぱりうみくんのことが好きだった。そして、僕が渡したあの写真は、決して園崎さんの力になりはしなかった。むしろ、傷つけていたのだ。だから、昨日、園崎さんは泣いていた。悔しくて。
──半澤は会話の全てを聞いていたわけではない。だが、花隣の思いそうなことは、手に取るようにわかる。
結局のところ、花隣も半澤も、そう変わらない位置に立っているのだ。要するに、二人共、美好のことが好きなのだ。好きという言葉の方向性の違いこそあれど。
「……ごめん、ごめんなさい、園崎さん……」
本当に花隣を泣かせたのは自分だった。美好は殴られるべきではなかった。
けれど、そんなことを他者が知る由はない。言わなければ何もわからないのだ。
半澤は水道の水を掬い、乱雑に顔を洗った。秋の気配に応じてか、水が少し、冷たくなっているような気がする。
頭が冷えた。職員室に行って、教室に行って。あとは何事もなかったかのように過ごせばいい。花隣と同じ空気の中で、半澤は今日も息をひそめて過ごす。




