嘘は吐けない
がしゃーん、とけたたましい音。久しぶりのような気がする。林側に倒れて、木の葉のマットに受け止められる。
「うわー、またこけた。最悪だ。……最悪? いや……」
手近の黄色い葉を拾う。扇形のそれをくるくると回しながら、青い空に翳す。
季節は秋。残暑がひどいかと思ったらそれほどでもなく、衣替えの時期になって、あっさりと冬服を引っ張り出すことになった。ブレザーが温かいということがなんとなく身に染みる。まあ、夏にひどく擦りむいたから、あの思い出から、素肌の保護されている感覚がそう感じさせるのだろう。
こけたが、気分はいい。いい気分ついでにぱしゃりと一枚。見上げた空を彩る銀杏。その黄色は若干逆光もあったが、太陽が微かに透けているのも乙なものだった。
自転車を立て直し、埃を払う。久しぶりの動作だ。なんとなくだが、前より嫌に感じない。
それから、坂を下りていく。ゆっくり踏みしめる一歩一歩が愛しかった。拾ったままの銀杏の葉を眺めながら、坂を下りきると、不意に吹いた風が、銀杏を美好の手から浚っていった。思わず小走りで追いかけると、その先には学校の花壇があった。
そこには当然のように彼がいた。
「よ、とーる」
「おはよう、うみくん」
彼の笑顔は今日も爽やかだった。
如雨露で花壇に水をやる手を止め、美好に向かって首を傾げる。
「今日は久しぶりに土まみれ?」
「ははっ、まあな」
半澤がくすくすと笑う。
それから。
「見つけた」
ぱしゃり──とはならなかった。空の手が宙で空振る。
「あ、カメラないんだった」
「おい、何撮ろうとしてんだよ?」
ぎろり、と美好があまりよろしくない目付きで半澤を睨む。半澤は軽く笑って受け流した。
「だって、うみくんの髪に」
「俺の髪に?」
くすりと笑う半澤は、何故か取って置きの秘密を披露する子どものようだった。
「葉っぱがついてるから」
「おーまーえーなー?」
半澤の頬をつねって引っ張る。
「なんで俺がこけたときばっか撮ろうとすんだよ? もっと色々あるだろ、綺麗なもの」
「いらい、いらい」
二、三回で勘弁してやる。半澤にもまだ言い分があるようだった。
少し目を伏せ、躊躇うようにしてから紡ぐ。
「うみくんは綺麗だよ。出会ったときからずっと。僕は写真が好きなんだ」
美好は半目だ。
「綺麗か? こけた俺が?」
「うん。だって、笑ってるんだもん」
「……そかな」
美好は少し照れたように頬を掻く。少し悩んでから、そっと言葉を舌に乗せる。
「お前の写真撮るときの笑顔の方が綺麗だよ」
「へっ」
意外なことに、半澤は頬を赤らめた。褒められることに慣れていない? まさか。あれだけさわくんさわくん騒がれているのに。
……ああ、でも半澤の写真を撮るときの笑顔を知る者は少ないのだったか。そもそも、半澤が写真を撮ると知っている者も少ない。
「……佳代さんに言われた。僕は父さんに似てるんだって」
「ああ、写真好きだったっていう? ま、似ててもおかしくないだろうな」
「それだけじゃなくて……写真を撮ってるときが一番幸せそうなところが似てるって」
なるほどな、と納得する。変かな、と半澤が疑問符を浮かべるのに対し、むしろ美好の方が疑問符まみれになった。
「お前、写真撮る以上に幸せなことってあるのかよ」
たっぷり一分考えた果て。
「ない、かも」
「だろ? そういうことだって」
それにな、と付け加える。
「お前が幸せそうに撮るから、撮られた方も、写真を見る方も幸せになれるんだ」
「そう、なのかな」
「なんで自信ねぇんだよ」
「でも、僕の写真は、先輩を傷つけたこともあるし……」
「あれは傷ついたんじゃなくて、ただの嫉妬だろ」
自信持てよ、と半澤の肩をぽん、と叩く。
「少なくとも俺は、幸せになってる」
それで充分じゃないか、というと、半澤は仄かにはにかんだ。
今日は朝礼があるから、体育館に行く必要がある。半澤も水やりを切り上げ、美好と共に校舎に入った。
美好は、自分が言ったことは正しいと思っている。半澤の写真は人を幸せにできるものだ、と信じていた。
だが。
放課後。久しぶりに美術室に顔を出す美好。別に花隣から呼び出しを受けたからではない。美好が自主的に訪れたのだ。
そこには予想通り、花隣がいた。
「よ、リン」
「みーくん」
呼んでいないのに来た美好の姿に花隣は少し驚いたらしい。だが、美好は少し不満げな顔で応じる。
「スランプ脱出したんなら、教えてくれりゃいいのに。水臭ぇなぁ」
「ぁ、えと……」
今朝の朝礼で賞状伝達があった。そこで花隣が呼ばれたのだ。あれだけ悩み苦しんでいたコンクールの絵で、賞を獲ったらしい。
だが、花隣の表情は浮かない。美好の頭に疑問符が浮かぶ。
「受賞した割に、嬉しくなさそうだな」
「……そんなわけじゃ、ないけど」
言葉を濁す花隣。何故だか気まずい空気が流れる。美好はあー、と意味もなく前置き、それから話題をどうにか変えようと切り出した。
「じゃあ、あれだ。どんな絵描いたんだよ?」
すると、花隣の手がびくん、と震えた。何かに怯えるように。
花隣は浅く息を吸うと、美好にぎこちない笑顔を向ける。
「それね、今日から学校に飾られるんだ。ついてきて」
勿体ぶるなぁ、と思いながらついていく。職員室の脇の掲示板まで連れて行かれた。
普段ならよくわからない広告やポスターが貼られているそこには。
オレンジ色の花畑の中で、微かに笑う少年の姿。──どこかで見た光景だ。
オレンジ色の花は無数にあるけれど、どれ一つとして同じオレンジはない。時折黄色も混ざっている。日の光を受けていっそう煌めく花畑の中で、その煌めきに負けないくらいの微笑みを浮かべているのは──美好にとっては俄に信じ難いことだったが、確かに美好だった。
花畑で一発目、半澤に写真を撮られたとき、半澤は言っていた。美好が笑っているから撮るんだ、と。
「俺、こんな顔して笑ってんのか」
呆気に取られている美好の傍らで、ぶるぶると肩と拳を震わせ、俯いてそこに立っている花隣がいた。彼女が醸し出すオーラに美好は何事かと思う。
「許せ、なかった……」
絞り出された声は、掠れて聞き取りづらかった。
花隣はそれをわかっているのかいないのか、繰り返す。
「許せなかったのよ!」
花隣はその意志の強い両の目で、自らが描いた絵を睨み据えた。
「みーくんなら、これのモデルが何か、わかるでしょ?」
「……半澤の写真?」
「そうよ」
あっさり、衝撃的な事実を明かされる。
半澤は写真を現像しないのではなかったか。けれど、写真を現像しないと、絵のモデルになどできようはずもない。
花隣は徐に、ポケットから丁寧に折り畳まれた紙を取り出す。折り目がついた以外は綺麗で保存状態がいい。そのため、色も鮮やかで、目の前の絵とほとんど遜色ないような構図がそこに広がっていた。その写真は、間違いなく、半澤が撮ったものだとわかる。半澤でなければ、一体誰が、これほどの写真を撮ることができるのだろうか。美好はそう思った。
半澤の写真と花隣の絵。それを見比べる美好の傍らで花隣はぽつりぽつりと独白していく。
「悔しかった。悲しかった。さわくんはずるいって思った。だって、私が何年描いたって辿り着けなかったみーくんの笑顔を意図も簡単に写真の中に収めちゃうんだもの。それも、一枚じゃないのよ? 何枚も、何枚もよ。なんでみーくんは私の前では笑ってくれなくて、さわくんの前でばっかりあんなに笑うの!? ……私はさわくんが許せなかった。
けどね。……何より許せないのは、そんなさわくんの写真に勝てない自分。
ねぇ、みーくん。その写真と、私の絵、みーくんならどっちを選ぶ?」
絵と写真だ。花隣の信念に則るなら、比べるべきものではない。
だが、選ぶとしたら……
一拍の間を置いて、美好は写真を花隣の前に出した。それを見た花隣は、惰性のような力ない笑みを浮かべた。
「やっぱり。私はさわくんに勝てない」
「でも、ジャンルが違うだろ」
「違わないわ!」
花隣は強く首を横に振った。
「さわくんの写真はいつだってそう。私の信念を打ち砕く、心まで写す写真なのよ。心がこもっているから、惹き付けられて、みーくんはさわくんを選ぶんだわ」
「そんなこと、リンの絵だって、俺は」
「それなら」
ばっと上げた花隣の顔は泣いていた。美好はたじろいだ。
泣き顔のまま、花隣は懇願する。
「なら、みーくん、笑ってよ」
言われて、美好は懸命に口角を吊り上げる。が、花隣は俯いた。
「ひどいよ、みーくん。ひどい」
そう呟いて倒れる花隣を美好は慌てて支えた。
花隣は尚も言う。
「振った相手に優しいなんて、ひどい」
その胸に、写真をぎゅ、と抱きしめ、花隣も笑うが、目から涙が溢れ出た。
「でも、どんなに辛くても」
やけにしんと静まり返った廊下に、花隣の声は響いた。
「みーくんを、この写真を、嫌いになることなんて、できない……」
朝、美好は半澤に、お前の写真は人を幸せにする、と言った。
だが、目の前で半澤の写真を見て花隣が流す涙は、とても幸せそうには見えなかった。




