痛くて優しい宣告
朝早く、父の車に乗せられてきた花隣は、花壇にいた人物に、少々面食らった。
半澤がいたのだ。いつもいるとは聞いていたが、まさか、夏休みの朝七時にいるとは思わなかった。
半澤は花隣に気づいたようで、にこりと微笑みかける。とても、こないだ花隣に大嫌いと言われて振られた人物の対応とは思えなかった。
「おはよう、園崎さん。改めて見ると、高級そうな車で来てるね」
「おはよう。……高級そうなのではなくて、高級なのよ。うちは結構な金持ちだから。正確な値段は聞いていないけれど、ウン百万はするんだったかしら」
黒い車をちら、と振り向く。車種なんて気にしたこともなかったが、高級だとは聞いている。いくら金持ちだからって、と母が父を叱っていたのを思い出した。
それはいい。
花隣は半澤をまじまじと見た。
「本当に、吹っ切れたみたいね」
半澤ははにかむ。
「うん、色々すっきりしたから」
「羨ましい」
「え」
半澤が疑問符を浮かべるが、それを無視して花隣は歩いた。
もう少し、話をしてもよかったかもしれない。けれど今は、その行動が自分の惨めさをより一層引き立てるような気がして、半澤との会話をさくさくと切り上げてしまった。
花隣には、考えなくてはならないことがまだある。今日は美術室に美好が来るのだ。何事もなかったかのように振る舞いたいが、そう都合よくはいかないだろう。美好は何かしらの答えを引っ提げてくるはずだ。誠実な人間だから。
そんな美好だから、花隣は好きになったわけだが、美好が出してくれた答えに、自分も何らかのリアクションをすべきだと考える。……何を言ったらいいのだろう。
美術室に着くと、いつもの流れでキャンバスを開く。いつもの流れというが、最近はスランプでめっきり描いていなかったため、久しぶりのような気がした。
構図が思い浮かばない。モデルがいないからかもしれないが、今までは何だって、すらすらと描けていたのだ。それが……半澤のせいにするつもりはないが、半澤を描こうとして以来、描けなくなった。彼には表情がない。絵に写すべき、感情が見当たらなかったのだ。そのことに戸惑って……それから描けなくなった。
スケッチブックを取り出す。ページをぺらぺらとめくっていくと、先日の美好が出たバスケ部の練習試合の走り描きがあった。走り描きなだけあって、あまり上手いとは言えない。普通の人よりは上手いのかもしれないが、それだけだ。美好の姿以外は適当にも程がある。顔の丸を描いて、体つきを描いただけ。美好以外はそんな感じだ。……美好以外の人間を軽んじている。そんなつもりはないが、そんな気がした。
「最低ね」
こんな描きかけの作品。作品と呼んでいいのかすらわからない。自分の目には美好しか写っていなくて、美好以外なんてどうでもいいという自分勝手な思想が全面に出ていて嫌になる。
さっさとページをめくった。またバスケの絵。やはり美好しかはっきり描いていない。美好以外を軽んじている。そんな思いが花隣を責め苛む。
やがて、白紙のページに出た。そこでほう、と息を吐く。自分の愚かしさが出た絵が終わって、安心したからだろう。
だが、これまで描いた絵と、これから描く絵と、一体どんな違いがあるというのだろう。絵を描くなんて、花隣には自分のためにしかできない。美好のためと語ったって、結局花隣は美好を描きたいから美好を描くのだ。それが自分のためじゃなくして、誰のためだというのだろう。
ぐるぐるぐるぐる、頭の中で自虐的な思考ばかりが回っていく。別に、好きだから絵を描く、と吹っ切れればいいのだが、生憎、そんなに単純な思考回路をしていないのだ。そんなに単純な思考回路だったなら、今悩むこともないだろう。どうしようもなくて、唇を引き結ぶ。
そうしていると、からから、と小さく美術室の扉が開いた。入ってきたのは見慣れた姿。今日は転んでいないらしく、なんだか制服が小綺麗に見える。
「よ、リン、早いな」
「まあね」
顔を合わせると、悩んでいたのがどうでもよくなる。悩み事なんて最初から存在しなかったかのように、いつも通りの行動を取る。
キャンバスの前に座り、美好も釣られて向かいに座る。実にいつも通りだ。
「さ、始めるわよ」
「何を」
美好はさくさくと行動する花隣の姿に目を白黒とさせていた。その目には今、一体花隣はどう映っているのだろうか。
「何をって、いつものやつよ。モデルよろしく」
それ以外に何があるのか、と反論を許さないような口振りで花隣は言い切った。美好は何か言いたそうにしていたが、黙って席に着いた。
キャンバスに向かうと、なんだか何も描ける気がしなかった。真っ白なまま、何も浮かび上がって来ない。……描けないのはモデルがいないからではないらしい。
内面的な問題、とでも言えようか。花隣はくるくると手の中で鉛筆を回す。そこに何か見出だそうと、穴を穿つほどに画用紙の一点を見つめながら。実際、穴が穿たれることなどないのだが。
いつもなら、画用紙を見て、モデルを見れば、なんとなく画用紙の上に描くべき絵が浮かび上がって、それをなぞるようにして、花隣は描いているのである。だが、スランプが始まってからはそれがない。ぼんやりとした言い方をすると「ぴんとこない」のだ。
対面する美好も、花隣のいつも通りではないところに気づいたのだろう。しん、と静まり返った一瞬を狙って、声を上げた。
「昨日の話」
美好も、それ以外話題が思いつかなかったのだろう。花隣はやはり来たか、と思いながら、ペン回しをやめた。
「答えた方がいいか?」
……予想通り、美好は誠実だった。きっと、一日をかけてどう答えるか考えてきたにちがいない。昨日、メールを送ってきた時点で、美好も自らの退路を絶ったのだ。
美好が「逃げない」と決めてここに来ているというのに、花隣が逃げようなど、許されようはずもない。こくり、と首を縦に振った。
花隣のその反応を見て、美好も緊張しているのだろう。僅かに顔が強張った。仕方のないことだ。告白するのも勇気がいるが、「はい」にしろ「いいえ」にしろ、答えるのにも勇気がいる。
そしてきっと、美好はより答えにくい方を選んだのだろうと思う。
ゆっくりと、言いにくそうに唇が動く。
「お前のことは、嫌いじゃないよ」
頷きもせず、続く言葉を待つ。意を決してか、美好は言い切った。
「ただしそれは、人間として、だ。恋愛感情じゃない」
彼は決して「好き」という言葉は使わなかった。好きでもない相手に好きという言葉を使うことほど残酷なことはないからだ。
花隣は美好の答えを聞いて、凪いだような気持ちになった。心に凝っていたものがすとんと抜けたというか。……すっきりしたわけではないが、踏ん切りがついた、という感覚はした。
人間として嫌いじゃない。なんて遠回りな「いいえ」なのだろう。けれど、それが美好らしい気がした。
花隣は涙が出そうなのをこらえながら、そっか、と呟いた。
「突然言ったのに、ちゃんと答えをくれて、ありがとう。困らせたのに、ちゃんと考えてくれて、ありがとう」
感謝はちゃんと伝えなければならない。でないと、こちらが不誠実になってしまう。
ただ、鉛筆は筆入れに仕舞った。キャンバスも仕舞う。……ここから何か描ける気はしなかった。
「今日は、さすがにきついから、もう帰るね。ありがと」
ありがとう以外に何を言ったらいいのかわからない。いや、ありがとう以外を言おうとすれば、きっと、美好を詰ってしまう。好きな人に好きと言ってもらえなかったからだって癇癪を起こすのは、八つ当たりに他ならない。美好を、これ以上困らせるわけにはいかない。
花隣は支度を済ませると、さくさく美術室を出ていった。




