電話
受話器を受け取り、箸を置いた。
「お電話代わりました」
「やっほ、みーくん」
「どういったご用件でしょうか」
「謎に他人行儀ね」
はあ、と電話向こうから溜め息が聞こえてきた。どちらかというと、溜め息を吐きたいのは昼飯途中で手を止めさせられたこちらなのだが。憂さ晴らしとして、すだちを氷の入った冷水に搾る。姉がいいなぁ、と言って、うどんにかけて既にくしゃくしゃになったすだちを懸命に搾るのを横目に見つつ、美好は電話口に耳を傾ける。
花隣が電話をかけてくるのは、別に珍しいことではない。ただ、花隣も美好も携帯電話を持っている。それなのに、固定電話にかけてきたというのはなんとも奇妙だった。
「その、話があって」
「今から会うのか? 悪いな、昼飯の途中なんだ」
「ごめんなさい。電話でいいから、聞いて」
「おう」
なんとなく、居住まいを正す。幼なじみの花隣を相手にここまで畏まる必要はないだろうと思いはするものの、花隣の声の真剣さについ引っ張られてそうしてしまう。
花隣と差し向かいで話したことは、何度かある。保育園の頃。毎日転ぶ美好を笑う花隣に嫌気が差して、友達やめよう、と花隣を避けたことがあった。あのとき、花隣に泣きつかれたのは今でも覚えている。花隣が悪いんなら、悪いところみんな直すから、と。その後、花隣を泣かせたとして花隣の父から事情聴取を受けたこともついでに思い出した。思えば、あの頃から花隣の父は親バカだったのだ。未だに治っていない。
と、話が逸れたが、以来、花隣の言動が鼻につくことはあるものの、突き放すことができないでいる。
それは絵にも影響している。最初、花隣に絵のモデルになってほしいと頼まれたとき、「なんで俺が」と思ったが、保育園の頃の花隣の姿がよぎって、断ることができなかった。
「で、本当に何の用? ちゃんと聞くから言ってみ」
言うと、救われたような吐息が向こうから聞こえてきた。事はだいぶ深刻らしい。本人が前にいないのをいいことに美好は顔をしかめた。
一呼吸置いて、花隣は切り出した。
「絵のことなんだけど」
まあ、聞く前から当たりはついていた。花隣と絵は切り離せないワードだ。それに。
「スランプらしいな」
「知ってたか」
「学年中で話題になってるぞ」
そう、花隣のスランプは学年中で噂になっており、嫌でも美好の耳に入った。学校では気丈に振る舞っていたようだが、やはり、辛いことは辛いらしい。電話向こうの花隣の声に苦悩が見え隠れしていた。
「絵が、全然描けないの」
「……早速だが、それを俺に相談してどうすんだ。俺は絵に関しちゃど素人だぞ」
「聞いてくれるだけでいいの」
「ふぅん」
それから黙って聞くことにした。
花隣は語る。
「ある出来事があってから、私は上手く絵が描けなくなった。夏休み終わりに締め切りのコンクールの絵だってあるのに」
その話は美好の耳にも当然入っている。美好のクラスからは意外でもなく、美術部員が一人立候補したはずだ。
その話が出て、少ししてからだ。花隣のスランプが話題に挙がるようになったのは。
そこで「ある出来事」があったのだろう。こうして暈すくらいだから、きっと花隣が話したくない内容なのだろう、と美好は追及しなかった。
からん、とコップの中の氷が溶けて揺れた。
花隣が受話器を取ろうと思ったのは、半澤の数日前の告白を思い返してのことだった。
好きです、と彼は言っていた。嫌いだ、と花隣は言った。大嫌いだ、と。にも拘らず、彼は笑っていた。
「うん、僕はこれが言えただけで満足。言えてよかった」
そんなことまで言ってのけたのだ。
「僕は園崎さんが誰を好きなのか、知ってる。知ってる上で、告白した。これはただの自己満足なんだ」
「自己、満足」
「うん。僕は受け入れてもらえなくても、自分の思いを晴らすために告白したんだ」
花隣はそのとき、思わず言った。
「思いを晴らすって、まるで、死ぬ前の人みたいね」
その言葉を受けて、半澤は目を見開いた。それはやがて驚きから笑みへと変わる。安らかな笑みだ。
「……そうかもしれない」
「えっ」
言われて今度は花隣が驚きを隠せなくなる。
「僕はいつか死ぬために今を生きているんだ。みんなが思うほど、前向きな人間じゃないんだ」
俯き加減に、「僕は死にたいと思いながら生きている」という半澤の暗い顔に、花隣は不覚にも魅入ってしまった。
スランプのきっかけとなったデッサンのときは、半澤のはっきりした感情が捉えきれなくて……それから、不思議なことに花隣は描けなくなった。
でも、今はなんとなくだが、この翳った半澤の表情なら描けるような気がした。
けれど、今振ったばかりの相手を描けるほど、花隣は大人ではいられなかった。
私は、みーくんを描きたいの。
そう言い聞かせた。
それから、花隣の悩みは更に深まった。自分で深めたとも言える。自分のコンクールに出す絵に美好というテーマをつけてしまった。テーマは自由な方がいいタイプと、縛りがある方がいいタイプがいる。花隣は前者だ。特にスランプのときはテーマを固定しない方が描きやすいと思っている。
それを、美好と定めてしまった。その上、半澤の真っ直ぐな想いに充てられてしまった。
どうしたらいいのかわからない。そうなった花隣はふと思った。
半澤は自分に想いを告げたことで、随分すっきりしていたように思う。自己満足、というと聞こえが悪い。だが、自己満足は自分を満足させるということ。……それは一概に悪いことではないのではないか? 自分の中でなんらかの踏ん切りをつけるという意味では、いいことなのではないか? それなら、自分が今すべきは……
そうして、花隣は受話器を握り、美好にかけていた。
相談があるの、と言って、絵のことなら答えられないと言われた。当たり前だ。美好は描かれる側であっても、描く側ではない。
美好はいつだって、あちら側だったのだ。
そう思うと、半澤がこちら側なのだ、と気づく。なるほど、美好と相性がいいわけだ。
「その、悩みってのはなんだ」
電話の向こう側から美好の声がした。答えられないとは言ったが、聞くつもりはあるのだろう。
すう、と息を吸い込み、他愛もないことを話した。
「今、絵が描けないの」
「おう、そうだったな」
「どうすればいいのか、わからないの」
「うん。で? 俺にできることは何かあるか」
……なんて優しいのだろう。
あの頃から変わっていない。
「おい、リン、泣くなよ。ごめん、もう無視しないから。ごめん、ごめん……」
「……みーくん」
悲しく呼び掛ける。
答えは、なんとなく、わかっている。きっと、半澤はあのとき、こんな気持ちだったのだろう。
涙が浮かばないようにこらえるのに必死だった。
「みーくん、あのね、本当に、聞いてくれるだけでいいの」
そして、花隣はたった一言、ようやく紡いだ。
「みーくん、好きだよ」




