好き、嫌い。
半澤が家に帰ったのは昼近い時刻のことだ。美好と花隣が来ている。さして驚きはしなかった。二人が来ることは予め佳代から知らされていた。美好が台所を使っているという。料理上手な美好が何をしているのか気になるところだが、無理につつくのも野暮ってもんだろう、と素直に促されるままに自室に行った。
ほどなくして、花隣が部屋にやってきた。美好の手伝いをしていると聞いたのだが、勝手に抜け出してきてよかったのだろうか、と思いつつ、他愛のない会話に花を咲かせる。
「みーくんの毎日ずっこけ伝説はね、物心つく前から始まっているのよ」
なんて、面白おかしく語り出す花隣。こんな風に美好の話をダシにするから、美好からからかうのを楽しんでいるろくでもないやつ、という認識を受けているのだと思うが、まあ、そこには触れないでおこう。スランプに悩んで暗い顔の多かった花隣が朗らかに話しているのだから、そこに水を射す必要はないだろう。
などと噂をすればなんとやら。仏頂面を引っ提げて、美好がやってきた。ベージュのエプロン姿が板についている。伊達に日頃から主夫をやっているわけではないということだろう。
そこで半澤の目を引いたのは、美好の額にでかでかと貼られている絆創膏だった。
「また怪我したの? しかも頭に」
「ん、ああ、これ? 気づいたらこうなってた」
あっさり流そうとする美好に花隣が頬を膨らませる。
「転んだときの記憶ないんだって」
「それはちょっとまずいんじゃない? ちゃんとお医者さんに診てもらわないと」
「いいって、いつものことだし」
半澤がぐい、と迫る。
「それがいつものことってよくないよ。もしかしたら事故で死んじゃうかもしれないんだよ」
口にしてから後悔する。死ぬ。その言葉は半澤にとって地雷だった。突然倒れ、一度だけ目を覚まし、そのまま亡き人となった父のことを思い出す。胸がぎゅ、と締まるように痛んだ。
「……死んだら、嫌だよ……」
振り絞るような声で半澤が紡ぐ。声は微かに震えていた。それを見て美好はすぐに謝った。
美好に罪悪感を抱かせたいわけではない。半澤は大丈夫、と必死に笑顔を取り繕った。
「そういや、今日はいつもより帰りが遅いって佳代さんが言ってたけど、なんかあったのか?」
美好が問うと半澤は気まずそうに眉を八の字にした。茶を濁しつつ、告げる。
「写真部の先輩たちと会ってたんだよ」
美好が血相を変えた。
「大丈夫か? 何もされなかったか?」
「大丈夫だって」
「写真部って、前に揉めてたっていう」
花隣の発言に半澤は頷き、言葉を次ぐ。
「ちゃんと和解はできたから大丈夫だよ」
「それより、さわくんも写真撮るのねー」
花隣は勝手に半澤のデジカメをいじり、眺める。
「腕は確実にみーくんより上ね」
「んなもんわかってら」
美好が鼻を曲げるのをよそに、花隣は半澤の写真に対し、ぽつりと呟く。
「……さわくんって、絵みたいな写真撮るのね」
美好には花隣のその一言がなんとなく引っ掛かった。花隣が普段掲げているのは「写真はありのままを写すもの、絵は心を写すもの」……だとしたら、絵みたいな写真とは……
と考えていると、階下から佳代が美好に声をかけてきて、美好は部屋から退室した。部屋には半澤と花隣の二人きりになる。
今しかないと思った。
「こないだ話した、大事な話のことなんだけど」
今度は緊張で声が震える。
花隣は黙って待ってくれた。半澤も落ち着こうと、深呼吸を数回する。それからごくりと唾を飲み、一気に告げた。
「僕、園崎さんのこと、好きなんだ」
真っ直ぐ目を見て言った。言い切った。その言葉を受け止めた花隣の目も真っ直ぐで、透明な黒水晶みたいな色をしていた。ただし、表情は全くの無。半澤の告白をどのような心境で受け止めているのか、一切わからなかった。
どれくらい沈黙が続いたかわからない。蝉時雨ばかりが夏の彩りのように窓の外から暑苦しく響くのに、部屋の温度は全く暑く感じられなかった。汗の一つも掻きやしない。そんな中で全く動かない二人は、まるでここだけ時が止まっているようだった。時が動いているのを証明するのはミンミンジリジリと響く蝉時雨だけ。
何故かいつの間にか、二人は正座で向き合っていた。真っ直ぐな視線と視線が交錯する中、沈黙を破ったのは、花隣の静かな一言だった。
「私、さわくんのことが嫌いだわ」
覚悟を決めていなければ、この一言で大打撃を受けていたことだろう。半澤は大丈夫だ。こう返ってくることは予測していた。嫌いとここまではっきり言われるとは思っていなかったが、この告白を断られるであろうことは重々承知していた。
だから、少し乾いた笑いを浮かべた。
「そっか」
それだけで半澤は満足だったのだが。
「私はね、さわくんが嫌い。大嫌い」
花隣は虫の居どころが悪いのか、単に気が済まないだけなのか、つらつらと続けた。
「さわくんの写真、見せてもらったことがあるでしょう? 私、あの写真が大嫌いなの。だって、さわくんの撮る写真の中にはいつもみーくんがいる。しかもただのみーくんじゃない。笑顔のみーくんよ。
私は中学時代から、みーくんをモデルに毎日のように絵を描いたわ。みーくんはモデルになるのを嫌がったりしなかったけど、にこりとも笑わないのよ。普段もそう。毎日こけてばっかりで、不機嫌面がデフォルトで、それが私が知ってるみーくんだったわ。なのに、何!?」
激情を隠すことなく、花隣は続ける。
「今年の春、高校に入学して、ひょんなことからみーくんはさわくんと知り合ったそうね。
……それからみーくんは変わった。
みーくんはどんどん私の知らない表情をしていくようになった。私の知らない世界に向かって、微笑むようになった。その世界っていうのは……」
花隣がゆるゆると手を上げる。その手は半澤を指差していた。
「さわくん、あなたよ」
それから花隣は半澤から目を逸らし、悔しさを全面に出して語った。
「あなたと出会ってから、みーくんはいつもあなたのことばっかり。そこに恋愛感情なんてないのはわかりきってる。でもね、みーくんは本気であなたのことが好きなの。それでもって、悔しいのは、あなたもみーくんのことが好きだってことよ」
びしりとした指摘に、半澤は目を白黒させる。……たった今、花隣に告白したばかりなのだが。
そういうことじゃないわ、と花隣は首を横に振る。
「あなたは恋愛感情は私に向けているかもしれない。でも、友情はどうかしら。……あなたに他に友達と呼べる存在がいないことを私は知っているわ。
ねぇ、毎朝、花壇の前で楽しそうに喋っているのは何? あなたとみーくんしか知らないことって何? 男の子の友情と女の子の友情が違うことなんてわかってる。でも、悔しいの。
私は、みーくんの友達としてすら、あなたに及んでいないのだから」
「そんなこと」
「あるわよ」
花隣はきりりとした目で半澤を睨み据えた。
「みーくんから家に来ないかなんて誘われたことなんかない。譬、お泊まりしても、送ってくれることなんてない。みーくん、私の家に来たことだってないのよ? それが、あなたの家には何事でもないかのように来る。ねぇ、この差は何? 私が友達として劣っている以外に、何か理由があるの」
それに、と花隣は力なく付け加える。
「やっぱりみーくんは私の前じゃ笑ってくれない。それも悔しいけれど、同じくらい悔しいのは、あなたの撮る写真よ。
みーくんから聞いて、私の信条は知ってると思うけど。『写真はありのままを写すもの、絵は心を写すもの』──あなたの写真は私がずっと大切にしてきたこの概念を易々と覆すようなもの。それを思い知って、絵描きとしてプライドを持った私が、悔しくないわけがないじゃない」
それを言われても、半澤にはどうしようもない。半澤は自分の思うままに撮っているだけだ。
半澤が口を開きかける。そこで、階下から今度は美好が花隣を呼ぶ声がした。花隣は声から怒りを消し去り、返事をして立ち上がる。
それから、擦れ違いざまに言い放った。
「さわくんばっかりみーくんの笑顔見てずるい。だから嫌いよ」
その言葉がじくじくと胸を蝕んで痛かった。振られる覚悟はできていたというのに。やはり、好きな人に振り向いてもらえないのは悲しいものなんだなぁ、と半澤はしみじみ噛みしめた。
カメラで写真を開く。確かにそこにあるのは美好の笑顔、笑顔、笑顔。半澤が普通の表情だと思っていたこれらの表情は他からすれば普通ではないのだ、と痛ましく思った。




