和解
半澤はいつも通り花壇に水やりに来ていた。夏の暑い日差しがやってくるにはまだ早い。まばらに運動部が来ているようで、ウォーミングアップに走っていたり、ストレッチをする掛け声がそこかしこから聞こえてくる。
半澤は如雨露に水を汲んで、さぁ、と花壇に雨を降らす。少し淡い虹ができた。写真は撮らない。如雨露を止めたら、虹が消えるだろう。
ぼうっと如雨露の水を花壇に注ぐ。今日は美好はたぶん来ない。半澤の家に行くというが、回り道をするそうだ。まあ、美好はこの街を自転車で飛び回って長いので、今更道を間違えるなんてぽかはやらかさないだろう。ただ、夏休みでもここにいたら美好と会える、というのがこれまでだったので、美好と花壇の前での何気ない会話が楽しく感じていた。そのため、今日は美好が来ないということに少し物寂しさを感じていた。
だが、すぐ首を横に振る。今日、美好に会ってしまったら、甘えてしまうような気がしたのだ。一世一代の決心が揺らいでしまうような。それは避けたかった。今日を逃したら、あとは逃がしてしまって、この決意を棒に振るような気がした。半澤にとって、今日というこの日は、それくらい重要だった。何せ、これまで半澤が抱えてきたありとあらゆることに終止符を打つのだから。
水やりを終え、如雨露を用具置き場にからん、と置く。その乾いた音が、なんだか半澤の心も乾かしていくようで、少し怖かった。
それから花壇に戻ると、時刻はちょうど八時くらい。運動部の声が明瞭に聞こえてきて、夏の暑さを味方につけているような迫力のある声がグラウンドに響く。本格的な部活動の開始時間だ。
半澤は以前も語った通り、運動とは縁のない生活を送っている。だから、運動部の熱意には少しびっくりしたりもする。
校舎からは吹奏楽部だろうか、チューニングをする音が聞こえてくる。トランペットが慣らしだろうか、朝の陽気に似合う曲を吹きならす。なんとなく、心が弾む心地がした。
半澤は入学当初から部活に入るつもりなどなかったので、部活の活動を改めて目にしたり、耳にしたりするのは初めてのような気がする。性格上、写真以外のことに興味がないので、なんだか新鮮だった。
ふと、先日のバスケ部の練習試合を思い出す。あそこは選手たちがみんなきらきらしていた。部活とはそういう場所なんだなぁ、とぼんやり思った記憶がある。
憧れがないと言えば嘘になるが、半澤は写真以外にあれほど精魂込めることはできない。ああいう青春というものに縁がないのだと思う。写真撮りなんて、結構マイナーな部類のものだと思う。それを青春と呼べるのか──写真を撮る自分があそこまできらきらしているのかなんて、よくわからない。
けれど、今日、あの縁浅からぬ先輩方と写真を撮るということは、何か変わるきっかけになるだろうと思っていた。
あんな風に輝けなくても、自分は自分の好きなことをしているのだ、と少し胸を張ってみたかったのだ。
そんな心境の変化には美好からの影響が少なからずある。
美好が写真を撮るのは、意地だと言っていた。姉が旧世代の遺物と蔑んだガラパゴスケータイでどれだけやれるか挑戦して、不出来な姉に見せつけてやる、という。
本人は下らない意地だというが、半澤からすれば、立派な信念だと思う。姉に負けたくないという意地。それも一つ芯の通ったことだと半澤は解釈している。
半澤もそういうものを持ちたかったのだ。
半澤はただ写真が好きなだけだ。撮るのも見るのも。ただそれだけで写真を撮り続けている。それを信念と呼べるのか、半澤は些か疑問だった。
ただ、写真を撮るのが好きだということを広く主張することができれば、それは自分の根幹になるのではないか、と半澤は考えた。だから、中学時代、揉め事のあった先輩と向き合うことで、その答えを見出だすことができるのではないかと思って、今日、先輩方と一緒に写真を撮ってみようと思い立ったのだ。
美好のことをふと思う。美好と出会ってから、自分は少しずつ、中学時代から閉じ籠っていた殻から抜け出そうとしているのではないかと。……変わるなら、今しかないのだ。
美好は、出会ってから、遠い昔から友人であったかのように何の躊躇いもなく、半澤の中に踏み込んでくる。半澤はそれを疎んだりしなかった。むしろ、その存在を歓迎していたように思う。
……もしかしたら、こうして踏み込んでくれる人をずっと求めていたのかもしれない。半澤には自分から踏み出すという勇気がないから。
胸元のデジカメにそっと手を当て、呟く。
「うみくん、君のおかげで、僕はこれから変われるんだ」
暖かい思いを胸に抱きしめながら、やがてやってきた先輩方と合流した。
先輩方との蟠りは全くないというと嘘になるけれど、ほとんど消えていた。
半澤も先輩方も、根幹は同じなのである。ただ、写真が好きという、それだけ。
それをわかって、蟠りを一旦脇に除けて交流したら、楽しく写真を撮ることができた。
「へぇ、この花壇、半澤が毎日整備してるのか」
「花はやっぱり綺麗だな」
ぱしゃり、ぱしゃり、と先輩方がシャッターを切っていく。その音が半澤には嬉しくて堪らなかった。自分が育んできたものを褒められるというのはこんなにも嬉しいことなのか、と思った。
半澤は空を見上げる。見上げた空は今日も晴天だ。蝉がどこかで懸命に鳴いている。
そんな太陽の下で、先輩方が笑い合っているのを見て、半澤も笑った。
「見つけた」
ぱしゃり。
笑い合う先輩方の背景には広いグラウンド、何本も立ち並ぶ校木、そして、青い空。
これも青春っていうのだろうなぁ、と思いつつ、保存画面を眺めていると、先輩の一人が半澤の手元を覗き込んできた。
半澤は人に自分が撮った写真を見られるのが怖い。何より、半澤の写真を一番最初に真っ向から否定してかかった先輩方に見られるのが、最も怖い。
半澤が慌てて画面を閉じようとすると、その先輩に手を止められた。
先輩が言う。
「もう少し、見せてくれ」
「えっ」
てっきり、否定されるものだと思っていた。それが「見せてくれ」とは。どういう心境の変化だろう、と思っていると、他の先輩方もたむろして、半澤のデジカメを覗く。半澤はどうしたらいいかわからなくておろおろした。
こんなに真剣な眼差しで見られるのは恥ずかしいし、怖い。相手が卒業写真をぶった斬った先輩だ。今度は何を言われるかわからない。
数十秒、沈黙が場を包む。半澤は上手く呼吸をすることもできないまま、先輩方が何か言うのを待っていた。画面を閉じるという手もあったが、それは逃げのような気がした。……この人たちと向き合うと決めたばかりではないか。逃げれば今日の計画はおじゃん。半澤はもう二度と変わることができないまま過ごしていくことになるように思った。
こくり、と生唾を飲み込む。先輩方はやがて、画面から半澤へと目を向ける。それから、嬉しそうで、ちょっと悔しそうに破顔してみせた。
たった一言。
「いい写真だな」
その一言が痛みをもたらしながらも半澤の胸に染み入った。
自分は今、一つの壁を乗り越えられたのだ。決して乗り越えられないと思っていた、トラウマレベルの壁を。乗り越えたというより、その壁が打ち壊されたといった方が正しいかもしれない。
それから徐に先輩方が胸ポケットから一枚の写真を出す。それを見て、半澤は目を見開いた。
「これはあのときの、卒業写真……」
「そうだ」
先輩方を代表して、一人が語る。
「お前が初めて、一眼レフではなく、デジカメで撮った写真だ。……あの頃の俺たちはまだがきだった。いいカメラを使い、いい写真を撮るお前に嫉妬していた。だからな、お前のカメラを壊してしまえば、お前の腕前なんて明らかになると思ったんだ。
あれは確かに過ちだった。俺たちは心から反省している。この卒業写真を見て、お前を詰ったのは……ははっ、所謂、負け犬の遠吠えってやつだったんだ。
俺はこれより素晴らしい卒業写真なんて、知らないよ」
最後の方、先輩の声は震えていた。
先輩方の目論見通り、一眼レフを壊したことで、半澤の実力は明らかになった。当時の先輩方からすると、完膚なきまでに叩きのめされるような、半澤の実力が。
それが悔しくて、半澤を貶した。小学生のがきがやるのと同じ過ちを犯したのだ。半澤をどれだけ傷つけたか……先輩方は今になって思い知った。
だから、誠心誠意。
「あのときは、すまなかった」
その謝罪は、しっかりと半澤の心の奥にまで届いた。




