ピエロ
「痛いよ、父さん」
「そんなもの幻覚だ。その妄想癖をなんとかしろ」
「じゃあ、なんで父さんは……」
「なんだ?」
険しい表情の父は男の子を見下ろした。男の子は気圧されて何も言えなくなる。
この世界に「痛み」という言葉が存在しないのなら何故、「痛い」という言葉を知っているの?
けれど、それは誰も答えてくれない。何万回も試したのだ。そう諦めるしかない。
「痛み」という概念はこの世界に存在しない。だが、この世界の人間は「痛み」という言葉そのものは知っている。それがおかしなところなのだ。
けれど、この矛盾を誰も理解していない。この異常性を誰も説明できないのだ。ループすることすら理解していないし、誰も信じはしない。だから、理解してもらおうなんて、諦めるしかないのだ。
そんな帰り道、痛む体を引きずって帰路に着く。病院と学校は反対側だ。商店街を抜け、住宅街があり、その向こうに広い公園がある。この街はそんな構造だ。病院を出ると、すぐに公園があった。水道、ブランコ、ポップなデザインの馬の乗り物何体か。跳び箱代わりにタイヤが何本か半分顔を出して並んでいる。ブランコとそのタイヤの列に囲まれて、ちょっとした広場があった。
いつもは人気があるそこに、今日は人が一人しかいない。ピエロ面を横顔につけた赤毛の子どもだ。長い赤毛がびよんびよんとあっちこっちに跳ねている。
赤毛の男の子は不思議な目をしていた。青い右目と色のない左目。オッドアイというのとも違う。左目には瞳孔がない。見えているのだろうか。
赤毛の子はお手玉の練習をしていた。お手玉というとなんだか古くさい。ジャグリングというのだったか。様々なものを次から次へと宙に舞わせてはキャッチしていく。個数は一巡するごとに一つずつ増えていっているような気さえする。
「どうした?」
知らぬ間に立ち止まっていたらしい。父の問いかけに男の子ははっとして赤毛の子から目を離す。だが、父は息子が奇妙な赤毛の子どもを見ていたのに既に気づいていたらしい。赤毛の子を一瞥して言う。
「大道芸人になんて興味があるのか。物乞いにやるようなものはないぞ」
物乞いとは、芸を見せて食べ物や生活用品を手に入れる家無し子のすることだ。言葉はあまりよくない気がするが、悲しいことはない。ひどい言い様の割に、この世界には悪人はいないのだ。優しさから、芸の見事さから、あげる物を決める。
「いや、あの……あの子、目が」
「目?」
父が赤毛の子を見る。
「目がどうかしたのか?」
「左目……」
「両目共、綺麗な青い目じゃないか」
父の言葉に、男の子は紫の目を見開いた。
左目は色がないように見えたのだが……ともう一度目を戻すと、赤毛の子には正常な青い目があった。
まさか、本当に幻覚にでもなったのだろうか。
目をこする。赤毛の子は相変わらず、青い目をしたままだ。熱心にジャグリングする玉は十個を超えていたように思う。
「勝手に離れるんじゃない」
父に手を強く引かれて、またしてもはっとする。まるで、あの青い目に吸い込まれるかのように、男の子は赤毛の子に近づいていたのだ。
紫の目を父に向ける。父は怒ってなどいない。ただ、余計なことはしない主義なだけだ。ピエロに何かを与えるつもりはないのだろう。
……父にこんなに強い力で引かれたのは、いつ以来だろうか。
男の子は素直に父に手を引かれて帰った。けれど、瞼には赤毛のピエロが焼きついて離れなかった。
痛みという妄想病だと診断された男の子は、やはり家で勉強するように言い渡された。勉強机が搬入され、いくつかの本が置かれた。せめてもの心意気か、単に常識を知ってほしかったのか、この世界の辞典もそこに置かれた。「World Dictionary」という名のそれを男の子はまず開いた。
紫色の瞳に文字の羅列が移る。そこにはやはり、痛みという言葉はなかった。
はあ、と溜め息を吐いて、辞典の前書きを見る。
前書きには幸福なこの世界について、と題して文章が連なっていた。
「幸福なこの世界について
この世界は幸福です。故に、不幸な言葉は存在しません。故に、不幸な言葉の意味など、この辞典には載っていないのです。
これを手に取る皆様は幸福なこの世界に生きる一員として、『幸福とは何か』をまず理解していただきたい。
辞典に載っていない、不幸な言葉も私たちは知っています。ですが、幸福なこの世界では不幸な言葉など、意味を成さないのです。ならば、不幸な言葉など忘れ去ってしまいましょう。
それでは、この辞典を片手に幸福とは何か、覚えていきましょう。何があれば幸福なのか、何をどうすればもっと幸福になれるのか。幸福なこの世界をもっと幸福で満たすために皆様が学ぶための教本なのです、この辞典は。
さあ、皆様、この辞典を読んで、もっと幸福になりましょう」
何度か読んだことはある。まるで内容が変わっていないことに紫の目に呆れの色を灯した。
「宗教みたいだな」
神様はいないと謳っているのに。……もちろん、宗教という言葉も、この辞典には載っていない。
理由はなんとなくだが、知っている。神様がいたり、宗教があったりすると、人は戦争をすることがあるからだ。戦争は不幸なことである。よって、幸福なこの世界には必要のない言葉なのだ。神様も、宗教も、戦争も。
誰に教えられたわけでもない。けれど何故だか知っている。男の子は何故だろう、と考えるが、辞典とにらめっこをしていても、答えは見つからない。
同じ勉強を何万回としているのだ。さすがに飽きた。
そんな男の子は親から言われた宿題をさっさと終わらせ、一人、公園に向かうのだった。
それは何かに導かれているような感覚だった。ほとんど意識せず、男の子は公園へ向かった。そこで先日のピエロの子に会った。ぼさぼさの赤毛、空のような青い目、見間違えようがない。黒と灰色のストライプベストを着ている。先日見たときは着ていなかったから、物乞いをして、もらったのだろうか。
なんとなくだが、今日、ここに来れば、彼に会えるような気がしていた。そして自分は、彼に会いたくてここに来た。彼が本当にいたので、ほう、と安堵の息を吐く。
すると、赤毛の子がこちらに気づいた。
「君は……こないだの……?」
「え、俺のこと覚えてるの?」
先日会ったとはいえ、会ったのはあの一度きりだ。一度見ただけで顔を覚えたというのだろうか。
すると、赤毛の子ははにかんだ。
「職業柄、人の顔を覚えるのは得意なんだ」
職業とは言うが。
男の子は紫の目でちら、と赤毛の横顔に貼りついたピエロ面を見る。
「職業って……」
「物乞いだって、立派な職業さ。そうじゃなきゃ、僕は幸福なこの世界には存在していけない『可哀想な人』ってことになる」
可哀想。それは悲しみや憐れみなどから生まれる不幸な言葉だ。確かに辞典には載っていない。けれど、みんな知っている。可哀想は不幸なことだと。
「……可哀想な人は存在してはいけない、か」
「違う?」
さあ、と男の子は首を傾げた。
訥々と語り始める。
「それなら俺は、存在してはいけないってことになる。何せ、幸福なこの世界でただ一人、『痛み』を感じる不幸な子だからな」
「そうなの?」
そう、真っ直ぐな目で見つめられると苦しい。空に目を逸らしたら、赤毛の子と同じ青がそこにあって、苦々しい面持ちになった。
これも、痛いという気持ち。けれどきっと、理解されないんだろうな……
そう思っていると、赤毛の子がいつの間にか、目と鼻の先にいた。青い瞳を爛々と輝かせている。
「ねぇ、痛みってどんな感じ? 僕、気になるなあ。教えてよ」
「えっ、ちょ」
突然の展開に男の子が身を引いたところで、赤毛の子もはっとして離れた。それから折り目正しく礼を執り、名乗る。
「自己紹介がまだだったよね。僕の名前はクラウン。見ての通り、物乞いだよ」




