バスケ
本日も晴天なり、といった感じで晴れ渡った空を見上げ、美好が呟いた。
「またこけた……最悪だ」
自転車を起こしながらむくれる。
「つうか、なんで夏休みなのに学校行かなきゃならんのか。納得いかん。なぁ」
自転車に同意を求めるようにぽん、とハンドルを叩くが、自転車は無生物である。喋るわけもなく。というか、喋ったら怖い。
埋め合わせのようにミンミンゼミやらクマゼミやらが大合唱してくれるが、美好には何の慰めにもならない。
はあ、と深い溜め息を吐いて、坂を下っていく。
思えば今日も、転んだ原因は巷で噂の坂道の暴走車だ。美好は車を運転したことがないので、どれだけ出ているかはわからないが、自動車教習を受けた姉曰く、時速十キロの急ブレーキでもなかなか体に利くという。三十キロ四十キロで怖いと悲鳴を上げるくらいだから、坂道の暴走車なんて、その比じゃないだろう。ルール遵守の律儀な父の運転からしても、随分と速いように感じた。
「ったく、ここは高速道路じゃねぇんだっつうの」
法定速度は皆さまご存知、時速六十キロである。ただ、道ごとに制限速度があるというのもまた然りで、この坂道は確か、時速四十キロの看板がどこかに立っていたはずである。
時速四十キロというと、確か、人の歩く速度が大体時速四キロだったはずなので、人間のおよそ十倍のスピードということになる。十倍。いまいちぴんとこないが、毎日経験している身としては、ただただ速いとしか言い様がない。
さっきの車、一瞬だが、よくわからない音楽がかかっていた。普通、車内で聴いているものはエンジン音で掻き消されて車外に聞こえるはずがないのである。難聴になるぞ、と憎いはずの運転手の今後を懸念した。
じりじりと夏の日差しが照りつける。坂の両脇にある林からのマイナスイオンは全くといっていいほど感じられない。林の中に入れば少しは違うのだろうが、残念ながら、林に入って今日の予定をすっぽかせるほど、美好は人情がないわけではない。
というのも、今日は件のバスケ部の練習試合の日なのだ。バスケ部部員は試合出場ぎりぎりの五人。一人でも欠場したら、即座に美好にお鉢が回ってくる。クラスメイトは出なくて大丈夫だとは言っていたが、本当に大丈夫なのだろうか。実に不安だ。
そう思っているうちに学校に着いた。曲がるとすぐ、花壇がある。そこには案の定、首からネックストラップでデジカメを吊り下げた半澤がいた。
「よ、とーる」
「あ、うみくん」
二人の渾名呼びは思った以上にすんなり馴染んだ。まるで前からそう呼び合っていたかのように。美好には断定できないが、もしかしたら、半澤は以前から美好のことを「うみくん」と呼ぼうと決めていたのかもしれない、とすら感じられた。
「わ、うみくん、その膝どうしたの?」
「膝?」
美好は指摘に首を傾げ、足を見下ろす。さすがに引いた。
「うおおお、血塗れだ」
「うおおお、じゃないよ。怪我したんなら止血しなって、前も言わなかったっけ」
呆れたように溜め息を吐き、半澤はいつもの包帯を取り出した。ごめん、と生返事をしながら、半澤の手元を見る。……なんとなく、なんとなくなのだが、包帯が前より長くなっているような気がする。まあ、以前より長いものを買ったと考えるのが妥当だが。
「にしてもよく治る包帯だよな。どこで売ってんの」
「……非売品だよ」
半澤は少しの間を置いて答えた。巻くのに集中しているためか、目を合わせることはなかった。
……言えるはずもないだろう。この包帯が自分の血からできているなんて。言ったら、美好に罪悪感を抱かせるかもしれない。そんな感情を抱かせるために助けているのではない。
「バスケの試合出るんだって? 九時半からだっけ」
「知ってたのか。まあ、時間はそうだ」
「それまでには治るはずだから」
「おう、さんきゅ」
応援に行く、と半澤が言うと、美好は補欠だよ、とほんのり笑った。
それを見ている人物がいるなど、つゆほども知らずに。
「笑顔、だわ……」
時間が近づき、美好はノースリーブのユニフォームを着せられていた。バスケ部一同から、おお、と声が上がる。なかなか様になっていた。
「本当、バスケ部じゃねぇのが不思議なくらいだな。そういえばかいと、なんで部活入ってねぇんだよ」
「別にいいだろ。主夫は忙しいんだ」
「主夫ねぇ、ぷぷっ」
「笑うな」
そんな会話をしていると、やっほー、という女子マネの声がした。その後ろから、制服姿の女子がやってくる。
その姿を認めるなり、美好は顔をしかめた。
「げ、リンか」
「げ、って何よ。げって」
失礼しちゃう、と拗ねる花隣だが、それを慰めるほど、美好は気が利いていない。
ユニフォームと運動着姿が集う中で、唯一制服姿の花隣は目立った。
「何しに来たんだよ」
すると、花隣は不敵に笑み、くるくると回しながら鉛筆を出し、スケッチブックの存在を主張した。
「もちろん、これよ」
「これと言われましても」
「インスピレーションのチャージ、存分にさせてもらうから覚悟しておいてよ」
覚悟と言われましても、というのが美好の本音だったが、何も言うまい。インスピレーションのチャージ。それは確かに今の花隣には必要不可欠だろう。こんなところに見学に来ているが、花隣は夏休み明けに提出するための絵を描かなければならないと聞いた。その上、今はスランプと来ている。インスピレーションのチャージの一つもしていないとやっていられないだろう。
描かれることについて、抵抗はない。何年もやられていることだ。今更嫌などとは言わない。ただ、その方面には疎いものの、花隣のスランプというのが美好には心配だった。
だが、スランプの時期にああだこうだ言うのも憚られた。いくら美好が転ぶのを毎日のようにからかっている人物とはいえ、人並みの神経くらいは持ち合わせているのだ。それに腐るほど長い縁である。少しくらい気は遣う。
やがて、やあ、と半澤が宣言通りやってきた。すると女子マネから黄色い歓声。先日、同じ部活の男子のことを好きだとぶっちゃけちゃった割に、俗っぽい反応をする。女ってよくわからない。
試合には結局出ることになった。先輩が一人、風邪を引いたらしい。体調不良は責められることではない。厳しい教官なら、「自分の管理もできない不出来なやつめ」とか言うのかもしれないが、美好は鬼教官ではないし、所詮他人様の事情である。
問題は美好自身が試合に出ることになったことだ。練習には何回か参加していたが、所詮は素人である。ついていくので精一杯だ。
バスケは十五分もの間、ずっとコート中を駆け回る。こいつら毎日こんなことしてんのか、と美好は感嘆した。美好は運動不足というわけではないが、ルールもよくわかっていないのだ。なんとかパスを繋いだり、シュートを打ってみたりするのがせいぜいだ。
フェイントをかけたり、敵の合間を縫ってドリブルしたり、試合に参加しながら、こいつらすげぇな、と美好は実感していた。
こんな夏の暑い日に、汗を掻きながら、嫌な顔一つせずにバスケをするバスケ部一同は、美好には輝いてさえ見えた。
バスケに青春懸けてんだよ、といつか言われた言葉がよぎる。なるほどな、と思った。青春とは、こんなに眩しいものなのか。
美好は何かに青春を懸けるとか、命を懸けるとか、したことがない。だから、バスケ部のように輝けないし、花隣のように一つのことに一所懸命にもなれない。そんな、花隣の言葉を借りると「普通の男の子」である。一般家庭と違うところがあるとすれば、彼が家の台所を取り仕切る主夫であることだろう。洗濯などは母がやっているが。
特技、料理、か。
ふと、考えた。ボールを受け取りやすい位置に移動しながら、ギャラリーを見ると、半澤が手を振っていた。
あいつは、特技、写真だろうな、と思っていると、ボールが飛んできたので掴まえる。場所はスリーポイントラインの外。力が程よく抜けていて、なんだかいけるような気がした。
投げたボールは綺麗な放物線を描き、快音を立ててゴールリングに入った。




