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Unlimited Sky  作者: 九JACK
坂の上から
26/70

渾名

 終業式。一学期が終わる。うだるような暑さの中、蝉がみんみんと元気よく鳴いている。まあ、蝉は地中から出たらあと一週間の命だ。子孫以外にも何か一つや二つ、世に残していきたいものがあるのだろう。例えば、耳鳴りになりそうなくらいの存在感を発する鳴き声とか。それを聞く人間にとっては迷惑極まりないが。

「いってー、あー、またこけた。最悪だ」

 今日は転んだというか、ブロック塀を鼻先が掠めたというか。血は出ていないが、とりあえず鼻先が痛い。風が吹いても痛いし、熱にじりじり晒されても痛い。どうしようもないこの感じになんだろう、虚無感さえ感じる。

「空はむかつくほど青いし。暑いし。この天候で冷房もない体育館で人口密度高めの状態で給水もせずにずっと立ってろとか拷問だろ。こういうの、パワハラっていうんじゃねぇかな」

 どうでもいいことをつらつらと述べる。何か喋っていないとやっていられない。そんな暑さだ。

 車通りの少ないところで一度止まり、バッグに手を突っ込んで、ボトルを引っ張り出す。スポーツドリンクだ。脱水には気をつけなければならないというわけである。

「あー、しょっぱい」

 どこかのテレビ番組でやっていた砂糖と塩の配分で母が作ったというこのドリンク。味が濃い気がする。一口目から不味い気しかしない。資源の無駄を抑えようとした結果だが、本当にそうしたいなら、母の冒険心をまず止めるべきだったと思う。同じものを持たされ、大学に行った姉がうげぇ、となっているのを想像したら、なんとなく胸の透くような思いがした。ざまぁみやがれ。

 自転車を停め、鍵をかけ、粛々と昇降口に入る。そういえば、もう明後日にはバスケ部の練習試合があるんだったか。嫌なことを思い出し、途端にテンションがダウンする。

 が、今日はこれしきでテンションを下げているわけにはいかない。教員という上司から与えられるパワーハラスメントに耐えなければならない。つまり、熱々の体育館に一時間近く棒立ちという苦行だ。それを一般的に夏休み前の終業式という。

「スポドリの塩と砂糖の比率は確かに七対十二で合ってたとは思うけど、水で薄めるという発想はなかったのだろうか」

 美好は仕方なく、ボトルの半分を空け、水道水を入れた。


 やがて、終業式が始まる。何よりの苦行は、校長のさして有難くもない話だろう。これの長いこと長いこと。全国津々浦々、共通認識だとは思うが。生徒会選挙の演説のように三分くらいで時間を区切ってくれないものかと思う。生徒会は意見箱というものを誂えているが、これは生徒がどうこうできる問題ではない。となれば教員、できるならば諸悪の根源である校長に直談判をするしかあるまい。……そんな暇はない。というか、ただそれだけのために職員室に乗り込むというのも、なかなか馬鹿馬鹿しい話だ。

 長ったらしい話をするならば、もうちょっとわかりやすくて中身のある話をしてくれればいいものを、夏休み中も生徒諸君はこの学校の名前を背負っているのだから、節度を持った生活を送るようにだの、後に演説を始める予定の生徒指導部の十八番を奪うようなテンプレート発言に半ば生徒は飽き飽きしている。そして、クーラーどころか扇風機すらない体育館はいくら窓を開放しているとはいえ、暑い。こういうときに限って、風の一つも吹き抜けやしないのだ。汗だけが無駄に流れていく。

 誰かが熱中症などで倒れやしないだろうか。その場合、誰の責任になるのだろうか、と下らないことを考え始めた頃、隣の列でどよめきが走る。隣の列といえば、隣のクラスだ。なんとなくどよめきに釣られるようにしてそちらを見ると倒れた人が出たらしい。案の定といったところだ。養護教諭や他の教員たちがたちまちそこに群がる。

 あーあ、と思いながら、運ばれていく生徒を横目ど見たところ、その姿は間違いなく、半澤通だった。


 終業式が終わった解放感に包まれる教室。担任の短いホームルームで、ひゃっほーい夏休みだぜ感が全面に出ているクラスだが、お気づきだろうか。彼ら彼女らはこの後、この陽炎が揺らめくような暑さの中で部活動に励むという地獄が待っていることに。

 まあ、帰宅部の美好には関係ない。バスケ部の助っ人の件はあるが、入部というわけではないので、別に部活に参加する必要はない。美好はそんなドライな性格をしていた。

 そんなことより、と美好は購買近くの自販機で百六十円を投入し、スポーツドリンクを買う。

 美好にとっては明後日に控えたベンチを暖めるだけの練習試合より、気にかかることがあった。

 自販機から、一階の長い廊下を歩いていく。目指すは保健室。

 入ると、一つのベッドにカーテンがかかっていた。おそらく倒れた生徒が寝ているのだろう。

 そのカーテンを無遠慮にしゃら、と開けて、美好は片手を挙げる。

「よ、半澤」

「あ、海道くん」

 あのとき倒れたのはそう、半澤通だった。この夏真っ盛りの暑い中、長袖のカーディガンを着て立ちんぼしていたら、脱水か熱中症かで倒れるのは目に見えている。

 それでも嚥脂色のカーディガンを手放さない人物など、美好には半澤を他に置いていないと思った。

「こんなに暑いんだから、カーディガンくらい脱げよな」

「うん、そうだね」

 頷きはするが半澤はカーディガンを脱ごうとしない。美好は経験則でその理由がわかった。

 だから、咄嗟に半澤も反応ができないうちに、半澤の左手首を掴んだ。半澤は少しだけ顔を歪めた。

 静かな保健室に半澤の呟きがぽつりと落ちる。

「痛いよ、海道くん」

 半澤の言葉にも眉一つ動かさず、美好は半澤の手首を握りしめた。……これを痛いということは、半澤は今日も……

 そのことに思いを馳せると、今度は美好が顔を歪めた。

「やっぱり、痛いのか」

 すると、半澤はくすりと笑った。

「わかってるんなら、やめてよ」

「すまん」

 そこでようやく手首を離す。代わりに買ってきたスポーツドリンクを半澤の首筋にあてがった。

 冷たっ、と半澤が咄嗟に反応するのを見、人間らしいな、と美好は微笑ましく思った。

「水分補給はしっかりしろよ」

 美好が告げると、再び半澤はくすりと笑った。

 いつかした会話。今度は立場が逆転だ。半澤ははにかんで、心得ておくよ、と返した。

「……あのときは、園崎さんが海道くんにスポドリ買ったんだよね」

「そういや、そんなこともあったな」

 美好は空を見上げ、頭の後ろで腕を組む。

「リンはあれで世話焼きなところがあるからな」

「……その」

 半澤が躊躇いがちに口を開いたのに、美好はん? と耳を傾ける。

 半澤は深く息を吸ってから、その息を全部吐き出すようにしながら言い放った。

「なんか、二人のそういう関係っていいよね。渾名で呼び合う感じ」

「そうか? 俺はわりと色んな渾名で呼ばれてるが」

「そういう渾名呼びって、なんかいかにも友達って感じがして好き」

 少し照れくさそうな半澤を見、美好は柔らかい笑みをこぼすと提案した。

「お前もそうすりゃいいじゃんか」

「え」

「俺、渾名つけられんのには慣れてんだよ」

 それに、と付け足す。

「お前とはもう友達やってそこそこ経ってるじゃんか。今まで渾名呼びじゃなかった方がむしろ不自然な気がするな」

 それもそうか、と半澤は仄かに笑った。それから少し考える。

「俺の渾名は『海道』をもじって『かいと』、リンなんかは『美好』をもじって『みーくん』って呼んでるぜ? 別に被りでもかまわないが」

「そう言われると、被りたくないような」

 うーん、と一つ唸ると、半澤はぽん、と手を叩いた。

「じゃあ、うみくん、なんてどうかな?」

 美好は瞬間、さわりと風が吹き抜けたような感覚がした。そんな爽やかな渾名をつけられたのは初めてだ。

「駄目かな?」

 自信なさげに見上げてくる半澤に美好はぶんぶんと首を横に振った。

「ぜひ、そう呼んでくれ」

「わかった」

 さて、こうなるとなんとなくだが、美好も半澤に渾名をつけなければならないような気がする。

 さわくんというのは女子の会い間での渾名だ。今更半澤のことをくん付けで呼ぶ気もない。

 それなら。

「じゃあ、俺は今日からとーるって呼ぶことにする」

 半澤が少し噴いた。

「それ、ただの呼び捨てじゃん」

「嫌か?」

「ううん」

 それならよかった、と美好は手を差し出した。

「じゃ、これからもよろしくな。とーる」

「改めてよろしく、うみくん」

 つけたばかりの渾名だというのに、二人の中で互いの渾名はすんなりと浸透し、固い握手が交わされた。



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