痛み
目を開けると、何万回か目の家の天井。起き上がると小さな手。縮んでいる、というか、予想に違わず、時間は巻き戻ったのだ。
自分が生まれたそのときに戻るのか、それともこうして自我を持つ頃に戻るのか、自分が生まれるよりずっと昔に戻るのかはわからない。ただ、確かなのは、彼が十五歳になると時間が巻き戻る。まるでその先から進んではいけないというように。何度かそれも周囲に相談したが、全て妄想病だと片付けられた。
大人しく過ごそうとも考えるのだが、「痛み」という感覚機能がそれを許してくれない。
さて、今は何歳かな、と確かめようと記憶を辿る。不思議と年齢というのは体の記憶だかなんだかが覚えてくれているものなのだ。と、確認しようとしたところで気づく。……いつも五歳から始まるんだ。
ということは、ループの中では十年ほどしか生きていないということか、と気づく。十年。キリ番とでも考えているのだろうか。
誰がだよ、と笑った。まるで誰かがこの世界を操ってループさせているみたいじゃないか。
……考えてもみなかった。この世界を操る人物がいるなんて。幸福なこの世界には支配という言葉は存在しない。全ては自由なのだ。
それとも、神様がこの世界を作り間違えて、こんなループするへんてこな世界になったのかもしれない。……神様はいないのだったか。
「じゃあ、なんでだ」
理由を考えたことなんてなかった。この世界がループする理由。ループと名付けてから、疑問に思わなくなった。名前の力は恐ろしいというか、自分も案外洗脳されているのかもしれない。
家の間取りはわかっている。数万年も生きている家だ。嫌でも頭に入る。ここは自分の部屋だったはず。五歳だから、まだ勉強道具は置かれていない。来年になったら、頼んでもいないのに、親が勉強机を搬入するのである。……その前に不幸な事件が起きて、彼は痛みを訴える。その痛みの原因を医者が突き止められず、妄想病として片付ける。世界で唯一「痛み」に取り憑かれた不幸な少年として、彼は生きていくことになる。
そんな世界でも異端な存在になった我が子を世間様の目には触れさせられない、と両親は学校に通わせず、家で勉強するように仕向けるのだ。それによってこの家は「異端の子を抱えている」というレッテルを貼られずに済む。
別に、家が背負う重荷になんて、彼は興味がなかった。だからといって、家を軽んじているわけでもない。だから、外では家のために痛くないふりだって、やってみせる。
それは大変虚しいことだった。自分の感情を明らかにすることができないというのは非常に肩身の狭いものだった。痛みを感じることの何が悪いのだろうと思ったこともある。だが、学校で教えている通り、痛みを感じるというのは不幸なことなのだ。幸福なこの世界ではそういう風に定められている。だから、この世界の辞典に「痛み」という言葉はない。
他にも、いくつか、誰に教わったわけでもないのに、彼が知っている言葉がある。ただ、何故知っているのかはわからない。
「……どんな言葉があったかな」
ベッドから降り、リビングに向かいながら彼は思いを巡らせる。
「確か、父さんの部屋に、辞典があったよな。この世界の言語辞典。……見に行こうか」
リビングに着くと、テーブルの上には目玉焼きの乗ったトースト。愛のない朝食だ。父も母も、息の根すらひそませていない。
それもそうだろう。二人は働きに出ている。父はこの街の見回り、母はどこかで料理を作っているはずだ。まだ冷めていないトーストの脇のスープを飲むと美味しい。母は料理上手なのだ。商店街のどこかの店で料理人をしているはずである。
幸い、母が出ていってからそう時間は経っていないらしい。まだトーストもスープも温かい。簡素な朝食を食べ、食器を片付け、彼は父の書斎へ向かった。
そこで一つ、忘れていたことがあった。ここまで散々、ループしたループしたと言っておきながら、自分の身長を十四歳のときのままで考えていたのだ。つまり、辞典のある本棚の上の方に手が届かない。
だが、背は小さくとも、知恵はある。踏み台を見つけて、辞典に手をかけた。ところが、ここで第二の不運が起こる。長年手をつけられておらず、几帳面にぴっちりと納められた本は、棚にはまってなかなか抜けない。子どもの小さな手では、脇の本を押さえながら引き出すにも本が大きく……
そこで第三にして、最大の不幸が訪れる。
本に引っ張られた棚がそのまま倒れてきたのだ。
「うわああああ」
本棚の下敷きになり、強い衝撃と痛みを感じたところで、気を失った。
帰ってきた父に見つけられるまで、男の子は放置されていた。気を失っていた。
父は焦ることなく、本棚を直し、男の子を救出する。それから医者のところへ連れていった。
男の子がどれだけ長い時間放置されていたのかは、誰も知る由もない。ただ、本のたくさん詰まった本棚に何時間も押し潰されていたのなら、死んでいてもおかしくない。
だが、発見した父が息子を心配することはなかった。この世界の辞典には「心配」という言葉はないのだ。心配や不安は痛みと同じく不幸なことである。幸福なこの世界であり得ない。
その心配や不安には必ず原因がある。怪我、痛み、病気……それから、死。心配や不安を払拭するために、それらの言葉も世界から消し去られた。
彼はまだ気づいていないが、この世界には「死」が存在していないのである。
死ぬことがないのなら、心配も不安も不要である。
それがこの世界の異常性であった。
病気や怪我は存在するから医者は存在する。が、誰も痛みを訴えたりしない。死ぬことがないのだから、何を怖いことがあるだろう、悲しいことがあるだろう。
そんな異常な世界の中で、たった一人、正常な人間が放り込まれたら、それが異常となるのは仕方のないことなのかもしれない。
人間は大抵多数派が勝つものなのだ。
「痛い……」
そう呻いて、目を覚ました。
「痛い?」
聞いた医者が首を傾げた。男の子も首を傾げて、立て続けに言う。
「頭が痛い、手が痛い、足が痛い、全身が痛い。僕はどんな怪我をしたんですか?」
医者ははて、と問いかける。
「痛い? 確かに怪我はしているけれど、この世界に痛みなんて、存在しないはずだ」
「痛いものは痛いんです」
そうして、医者と押し問答を続けること数時間。仕事を終えた父と母がやってきた。心配してきたのではない。心配という言葉はこの世界に存在しないのだから。彼らは、息子が目を覚ましたと聞いて迎えに来たのだ。
やってきた両親に医者は告げる。
「非常に残念なお知らせですが、この子はどうも、治しようのない病気のようです」
「病気、ですか。どんな病気です?」
「重大な病気です。医療では簡単には治らないような……『痛み』というこの世界には存在しないはずの妄想病です」